Act. 15-4
<<<< 栗子side >>>>
ああ~。やだな~。なんかもやもやする。
気になるな~。昨日の朽木さんの態度。まだあたしに怒ってるんだろうか。
でもそれならムッとした顔するよな~? 文句のひとつも言いにきたりとか。
あんな完璧な無視はどちらかというと…………うーん。
などとでれんでれんしながら考えてるうちに、本日最後の講義が終わったらしく、のっぽでお茶目なアメリカ人の先生が英語で「今日はここまで」とにっこり笑った。
いかんな~。考え事してると英語は全然頭に入ってこない。この先生のお話、けっこう好きなのに。
朽木さんのことをぐだぐだ考えてるからいけないんだよね。朽木さんの鬱がうつった気分だ。いかんいかん。
あたしは手早くノートやらをしまい、隣の真昼と祥子に目を向けた。
「んじゃ、また明日ー」
「今日もバイト? 毎日大変ね、グリコ」
「うんにゃ。今日はバイトじゃないよ。別の用事」
真昼の言葉に返事した時、バッグから携帯の着信メロディが響いてきた。メールだ。
携帯電話を取り出して開いてみると、送り主は高地さんで、そこには思わず生温かい目になってしまう内容が。
そのまま画面を祥子に見せる。
「なに? これを見ろっての? えっと……祥子ちゃんに会いたい……」
読み上げようとした祥子がピシリと固まる。ハートマークだらけの本文、あたしも見るにたえません。
祥子ちゃん祥子ちゃんってアホみたいに連発してるし、要するに恋しさを募らせた高地さんからのお茶のお誘いメールだ。
よっぽど祥子に会いたいんだなってのは伝わってくるんだけど、頼むから直接本人にメールしてくれ。
「祥子、まだ高地さんにメルアドとか教えてあげてないの?」
「当たり前でしょ。こんなのが毎日届くようになったら精神が崩壊をきたすわ」
納得。いや、だからってあたしが犠牲になってることについてはどうなのよ。
「どうする祥子? これからあっち行くから、高地さんに会ったら返事を伝えといてあげるけど?」
「あっち、って天道大学? また朽木さんをストーカーしに行くの?」
横から真昼に突っ込まれて、そういえば、とあたしは思い出した。ストーカーやめたら、って真昼の言葉。
真昼はもしかして、朽木さんがあたしを襲おうとするの、予測してたんだろうか。でも朽木さんちの家庭の事情、真昼は知らないはずだし……。
「うん、それもあるけど、今日は他にも用事があるんだ」
いかんいかん。あんまり考えすぎるとまたぐだぐだになる。神薙家のこと以外にも、朽木さんがプッツンくる要因があたしにあるのかな、なんて。
もう気にしないんだ、そんなことは。
「じゃあ、バカ地に会ったらコレ渡しといて」
言いながら祥子は取り出したレポート用紙にさらさらと文字を書き始めた。
あたしはそれを受け取り、「らじゃ!」と頷いた。
* * * * * *
今日、これからある用事とは何かというと、なんのことはない、庄司さんたちのお手伝いだ。
学校が終わった後、可能な限り手伝いに行くと約束したからには、それを守らねばなるまいて。あたしに二言はないのでござる。
自転車を天道大学の駐輪場に停めて、イベントの作業場となっている建物を目指す。
それは、あのよく待ち合わせ場所に使っている、一階がガラス張りの売店とかある建物なんだけど。
この間案内されて初めて知った。ニ階はだだっ広い多目的ルームがあるのだ。イベント会議といえば大抵そこで開かれているらしく、たまに徹夜組も出るので布団なんかも常備されてるのだとか。
あたしはやがて見えてきた、校門からまっすぐ歩いて1分って近さの建物を前に、ふと足を止めた。
うーん。やっぱ、先に薬学部棟に行ってみっかな。
朽木さんたちの科は今日は講義で終わりのはずだから、もう帰っちゃってる可能性が大で、だから今日はストーキングできないことはわかってたんだけど、実は。
基本、あたしの大学の方が早めに終わるから、講義の日は運がよければぎりぎり授業が終わって居残ってる朽木さんを見かけることもなきにしもあらずってカンジの博打になる。それもまた楽しいんだけど。
もしかしたら、まだいるかもしれない。あたしは思い立つや、売店の前で道を曲がり、目的地を薬学部棟に変更した。高地さんに手紙も渡さなきゃだしね。
どれも似たり寄ったりの古い校舎の並びのひとつにある建物に入り、一路朽木さんの科の講義室へ。
朽木さん、少しは冷静になってるといいなー、と思いつつ辿り着いた部屋の中を覗いてみるが、残念。朽木さんはいなかった。拝島さんも。
講義が終わってまだ間もないためか、けっこう学生の姿はあるんだけど。あのきらきらしいぱっと目につく二人組がいないことは一見すればわかる。
その代わり、目当てのもう一人である金色のツンツン頭が友達に囲まれてるのを見つけた。
迷わず講義室の中に足を踏み入れると、ふとこちらを見た高地さんがあたしに気づいて「おっ、グリコちゃん!」と顔を輝かせてやってきた。
「あ、あのさ。さっき俺が送ったメール」
「はい。祥子からの返事です」
すかさずポケットから取り出した手紙っつーかたたまれたレポート用紙を差し出すと、目を皿のように丸くする高地さん。
頭からしゅぽーって蒸気が噴き出してきそうな大興奮で手紙を受け取り、「しょ、祥子ちゃんからの初手紙――っ!」と叫ぶ。
しかし手紙を開くや、みるみる予想してたまんまのしおしお顔になっていくのがあたしも見ててせつない。残念な生徒に通知表を渡す先生の気分だよ。
手紙に書かれている内容はこうだった。
『留年男にゃ興味はないから。デートとかなんとかほざく前にまずは進級しな』
からい。先生、涙で前が見えません!
「進級……CBT……俺の人生、すべてこれにかかってんのか……」
口から魂抜け気味に高地さんがぶつぶつと呟く。薬学生って本当に大変だよね、ほろり。
「朽木……そうだ。また朽木に勉強みてもらわねぇと……未来が。俺の明るい未来がぁぁぁぁぁ!」
どんな未来を想定してんだ。なんとなくわかる気もするけど。
「朽木さんが勉強みてくれてるんなら大丈夫だよ、高地さん」
「そうかな~。こんな成績とってるようじゃ終わってる気がするけどな~」
と、奥の席にたむろってた高地さんのお友達が、意地悪な顔で何やら書かれてる紙束を手につまみあげ、ひらひらとさせる。
そこに書かれた赤い文字は『C』。ほほー。レポートの評価ですか。
「ぎゃあああああ! やめろお前らっ!」
途端、顔を真っ赤にさせた高地さんが慌ててレポートに飛びつく。多分、評価はA、B、Cの三段階で、Cは最低ってことなんだろうな。
「いっくら朽木にみてもらっても、これじゃ厳しいんじゃんねーの?」
「脳みそ移植してもらうしかないよなー。できるんだったら俺も欲しいけど。朽木の脳みそ」
「あいつ、レポートでA以外取ったことないって、マジなの、高地?」
「ったく、人のレポートをオモチャに……ん? ああ。いつもこっそり覗かせてもらってるけど、Aしか見たことねーぞ」
「マジだよー! なんなのあいつ! マジでその脳みそを俺にくれ!」
「すごすぎます、朽木サマ……」
ははは。みんな思うことはおんなじなんだね。
それにしても。成績は平均に抑えてる、なんて言ってたくせに。ばりばりやってんじゃん、朽木さん。
それともこれが平均だとか思ってんのかな? 手を抜いてAってどんだけ~。
「まぁ、基本的に頭のデキが違うヤツと比べてもしょうがないよな。努力だけじゃどうにもなんねーよ、朽木レベルは」
高地さんのお友達は諦めにも似た苦笑いを浮かべてみな一様に頷く。それからなんだか重い空気に。
みんな高地さんと似たり寄ったりのレベルなのか、「俺たちみたく留年なんかに悩んだりしねーんだろーなー……」とかぼやき始め、暗い顔になる。もしかして、今ってそういう微妙な時期?
まぁ、確かに朽木さんのレベルは平均を大きく上回ってるけど。そんなに落ち込まんでも。
と、そこで唐突に真面目な顔になった高地さんの「それは違うぞ」という何気ない声が響いた。
「へ?」と全員の視線が高地さんに集まる。高地さんはまっすぐに姿勢を正し、腕組みすると、
「あいつさ、すっげー勉強してんだよ。普段俺たちが見向きもしねーような業界雑誌とか論文とか、いつも図書館で読んでてさ。今日も図書館に寄ってくっつってたし」
力強い声で熱く語りだした。
「知ってるか? そのうえあいつの部屋、信じらんねーくらい本があんだ。普通ここまで読まねーだろ、ってモンまで。そういうの毎日読んでんだよ、あいつ。あいつがすげーのは、すっげー努力してっからだ」
しーん、と静まり返る空気の中、高地さんの声だけが大きく響く。
どうしちゃったんだろ高地さん。いつになく真剣。でも言ってることはよくわかる。
朽木さん、努力してるもんね。あたしは一人こっそりと頷いた。
「そりゃ頭もいいんだろうけどよ。あいつの姿勢、っつーのは半端じゃねーんだ。俺たちなんか到底追いつけないくらい先を見てんだ。だからあんだけできんだよ。俺、それがわかったから、俺ももっと頑張らなきゃいけねーな、って思って」
うんうん。
「人間、努力なんだよ。やればできんだよ。俺だってもっともっと努力すりゃ、いつかはあいつくらいに」
『それはない』
全員のハモり声についあたしもノってしまった。ごめんよ高地さん。それはさすがに無理だ。
「なんだよおめーら! ここはドラマチックに盛り上がるところだろー!?」
とゆーわけで演説終了。所詮は高地さんだ。
どっと笑いが起こり、地団駄踏んで悔しがる高地さんの周りにみんなが集まる。でも。それは決してイヤな感じじゃない。
高地さんをネタにして笑ってるけど、みんなさっきとは顔つきが微妙に違う。
誰も高地さんをバカにしたような目をしてないし、和やかな空気の中に、どこか研ぎ澄まされたものが漂ってる。
ふむ。なかなかやるな、高地さん。
高地さんに友達が多いわけをなんとなく納得しながら、あたしはその場を離れ、講義室を後にした。
図書館。朽木さんはそこにいる。
そうだ。思えば、いつだって朽木さんは努力していた。何でも一人でやって、学費だって自分で稼いで。
満ち足りた顔で勉強していた。それは、大好きなことをやってるからだ。それなのに、自分は適当に生きてるみたいなことを言う。この矛盾はなんだ?
おかしい。朽木さんの中にひずみがある。
本当の自分が見えていないような。何かが朽木さんの目を覆ってる。
そしてそれは多分、朽木さんのトラウマに関係あることで――
朽木さんが絶望してしまうような何かが起こって、朽木さんは心を閉ざした。その影響が今も残っている。
お父さんに捕まった。逃げるのを諦めかけた。だから絶望した――
違う。絶望したから捕まったんだ。
何に絶望したんだろう。何に――――
オレンジ色に染まった空の下、逆光の青い影に覆われたレンガ造りの建物――図書館が見えてきて、あたしは中に入った。
しーんと静まり返った館内。
ひっそりと息づく知識のかけら。
その囁きに耳を傾けているかのように。奥の、そのまた奥の、本棚に囲まれた小さなテーブル席。
静かに目を閉じる朽木さんがいた。