Act. 14-1 とんでも腐敵な大決裂!
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グリコと激しく言い争ったあの日から、平穏とは言いがたい数日を経てやってきた日曜日。
俺は変わらぬ日常を過ごそうと、リビングで習慣的な読書に挑んでいた。
ソファに足を投げ出す楽な姿勢で、太陽の隠された空を背にページをめくる。
今日は曇りだ。七階であるここから見える外の景色は、灰色がかった雲一色に塗りつぶされている。
鬱陶しい。そんな景色をわざわざ視界に入れたいと思うはずもなく、このくだけた姿勢のまま既に数時間が経過していた。
実りのない数時間。本の内容はほとんど頭に入っていない。
知らず、ため息がこぼれる。いつ降り出すともしれないどんよりとした空は、疲れ気味の脳をますます鈍らせていた。
頭が重い。気分が乗らない。
これから先一週間はこんな調子だと、今朝の天気予報ではあまりありがたくない予報を報じてくれていた。
もちろん、不調を天気のせいにばかりはできないが、正直、雨は好きじゃない。
土砂降りの中、全身濡れそぼったみすぼらしい格好で、ゴミ袋の如く丸まっていた時のことを思い出す。
俺を連れ戻そうとする神薙家のガードマン――黒服から逃げ回っていた時代の記憶だ。
目を閉じればすぐにでも生々しく蘇るその記憶の中、俺の服装は大抵学ランだった。脱走するチャンスは、主に通学時間にあったからだ。
学ランのくすんだ黒は、薄汚れた場所で身を隠すのに大いに役立ってくれた。
おかげで傷みも激しく、キャビネットの中には、近所に配ってまわれるほどの替えの制服が常に詰まっていたものだ。
不意に、キッチンから電子音が鳴り響いた。
俺は背を預けていたソファの肘掛から身を起こし、持っていた本をテーブルに置いて立ち上がった。
炊飯器の炊飯終了を知らせる電子メロディだ。ということは、もう昼になったということである。
リビングの時計に目を走らせると、さっき確認した時より時刻は一時間も経過していた。
一時間――――なのにページはほとんど進んでいない。
テーブルの白に同化するように横たわる白い表紙の本は、毎月購入している薬学関係の情報誌――つまり雑誌である。
最新の医薬情報、薬に携わる職場で働く人々を対象にした濃厚なコラム。雑誌といえども、そこから得られる情報は教科書以上に濃密で薄さのわりに馬鹿にはできない。
高い志があるわけでもないが、いずれ働くことになる世界の知識には自然と興味が湧くものだ。これも勉強の一環として空き時間に読むことを習慣づけている。それなのに、身が入らない。
今は基礎を作る大事な時期なのだ。勉強に集中できないなど、甘ったれた弱音を吐きたくはなかった。しかし。
湿気を含んだ重い空気。淀んだ視界にちらつくのは――
『今の……俺のせいなのか?』
あの時の拝島の顔。それが脳を鈍らせ、どうにも集中できない現実がここにある。
くそっ。目を閉じ、霞んでばかりの視界を手のひらで覆う。
ただの八つ当たりだった、あんなのは。未熟な自分に腹が立つ。
拝島を落ち込ませたところで、俺との距離が開くばかりでどうにもならない。そうはわかっていても、冷静に対処できなかった己の愚かしさが呪わしい。
グリコを排除するまで波風を立てるべきではないのに。何故だ。何故、俺の心はこうまで乱れている?
拝島に好きな女ができることくらい、想定していたはずだ。その上で女から引き離す策も練っていた。
なのに、いざそうなってみると、感情が邪魔してなにもかもがうまくいかない。
やはり、相手が想定外のグリコだからだろうか。あいつを思惑どおりに動かすのは難しい。だからだろうか。
グリコに続き、拝島とも言い争ってしまった翌日から今日まで。
俺は、グリコとの仲たがいに対する言い訳をいくつか用意しながらも、拝島にそれを伝えることができなかった。
あれだけ怒鳴り散らした翌日すぐに態度を覆すのも信用ならないだろうという慎重な計算もあったが、その実、話を蒸し返すのが怖かった。
いつもよりわずかに素っ気無い程度の、叩けばすぐに砕けるほどの薄い氷を一枚隔てたかのような緊張感を挟みながら拝島と接した。
何かがあった、しかし何事もなかったかのように。
高地が気づかないほどのささやかな壁。だが拝島はそれを敏感に感じ取り、俺との空気に適応できずにいた。
口数が減った。笑顔が儚くなった。
ふとした時に表情を曇らせることが多くなった。
このままではいけないと思いつつ、いまだ俺は拝島との仲を回復させる有効な手を打てないでいる。
すべて、あいつのせいだ――――
『あたしは、絶対に、ストーカーやめない!』
あいつが、反抗などしてくるから。
一歩もひかない真っ直ぐな目で睨み返してくるから――
グリコ。悪魔の女。
あいつは何故そこまで俺につきまとう?
俺がゲイだから。俺と拝島が格好のネタになるからか? あいつの好きなBLの。
冗談じゃない。あいつの嗜好を満足させるために俺は生きているわけじゃない。
あげく好きな男を奪われるなど、みじめすぎていっそ笑えてくる。
グリコめ――なんなんだあいつは。どれだけ俺を振り回せば気がすむんだ。腹立たしいことこのうえない。
だが最も腹立たしいのは――
『あたしはやめないっつったらやめない!』
強情なあいつの態度を、何故かほんの少しだけ、嬉しく感じてしまった自分だ。
馬鹿か、俺は。
あいつの目的は俺と拝島の本番ビデオにあるとわかっているくせに。何故あいつのストーキングを喜ぶ。
あいつに追いかけられるほどの何かがまだ自分にあるのかと、期待してしまうからか?
こそこそと神薙から逃げまわるだけの俺にもまだ――
違う。勘違いをするな。あいつが俺を追いかけることに深い意味はない。あいつが反抗するのも、意地になっているだけだ。
俺がゲイでなければ、拝島という想い人がいなければ、あいつはそもそも俺に目をとめることはなかったはずなんだ。
あんな変態に見込まれていいことなどひとつもない。だから――
あいつを切り捨てることに、躊躇うな。
迷うな。容赦なく叩き伏せ、あいつが恐怖に怯えて逃げ出すまで徹底的に痛めつけろ。
あいつは俺と拝島の仲を危うくさせる不穏分子。それを忘れるな。
次に会った時は、本気であいつを潰す。
必ず――――必ずだ。
俺は決意を新たにすると、テーブルに置かれた本から視線を外し、キッチンに向かった。
昼飯は適当なものでも作ろうと、冷蔵庫を開ける。
卵を二個取り出したところで、玄関のチャイムが鳴った。
ここのところ、不愉快な来客ばかり迎えている。一瞬眉をしかめ、居留守を決めこみたい衝動に息をひそめた。
しかし、もう一度チャイムが鳴り、そのしつこさに負けた俺は渋々玄関に向かった。
インターホンはあるが、門前払いという行為があまり好きではないので、使ったためしがない。
追い返したい人物なら直接顔を見てひと睨みすればいいだけのことだ。
グリコの場合はその限りではないのだが。
しかし、この時ばかりは面会主義を返上してでも扉を開くべきではなかったと、後に激しく後悔するはめとなった。
これほど呪わしい来客もない。
扉の向こうに泰然と構えるその威風堂々とした姿を認めた瞬間、情けないことに俺の思考は全て完全停止した。
「か――」
詰まった息を吐き出しながらようやく絞り出した言葉は、ほとんど音にならなかった。
硬直した俺の手から、もとより許可を求めるつもりはなかったのか、護衛の黒服が扉を奪い取る。
「あがらせてもらうぞ、冬也」
神薙海治が入ってきた。