Act. 13-4
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昨日はやりすぎただろうか。
女相手に、思わず本気で投げ飛ばしてしまった。
地面に倒れ伏したグリコの、苦しげな呻き声がまだ耳の奥に残る。
だが、あのくらいしないと、あいつを痛めつけたことにはならない。手加減していてはいつまでも離れないのだ、あいつは。
肉体的な痛みだけで、本当に離れて行ってくれるかは甚だ疑問ではあるが。
それともいっそ、あいつに拝島の気持ちを教えて、手酷くふってもらった方が早いだろうか。
拝島がグリコを嫌いになれない以上、きっぱりと諦めてもらうほかないかもしれない。
そして傷心の拝島を俺が慰めて、やがて深い関係にもっていく――
まるで安っぽいドラマのような筋書きだが、心の隙につけこむ作戦は有効だ。
それなら経験もあるので、できるかもしれない。昔、ノンケの男を落とす時に使った手だ。
悩み相談を親身になって聞いてやるふりをして、酒に酔わせ、ホテルに連れ込んだ。
その後随分惚れ込まれたが、名前も住所も教えなかったので、一晩限りで別れることができた。
今思えば、相当ひどいことをしてきた。
そのしっぺ返しがこれなのだろうか。心まで手に入れたいと思ったのは初めてなので、遊びに使っていた手を用いるのが正しいのかどうか、判断がつかない。
どうしても慎重になってしまう。それに、もし。
もし、グリコが拝島を好きになってしまったら――
俺は体のいい道化だ、馬鹿らしい。二人のキューピッドになるようなことは絶対に避けねばならない。
「あ~~待ち時間なげぇな~」
などと考えていると、隣の席の高地が暇そうに頬杖をつきつつぼやいた。
今日は化学分析系の実習だ。構造物抽出のため、フラスコをガスバーナーにかけた状態でひたすら数時間待つことになるので、人間はとことん暇になる。
気持ちはわかるんだが、ただだらだらと待っていないで、もっと時間を有効に使うべきじゃないか?
俺はこの実験の延長上にある、より複雑な実験内容が書かれた論文に目を戻した。図書館でコピーしてきたやつだ。
今行っている実験の結果はもう予想がついているし、今更基礎実験などつまらない。この論文のようにもっと深い研究がしたい。
「おい……。隣で英語の論文なんか読んでんなよ。嫌味たらしいなお前」
「別に、嫌味で読んでるわけじゃない」
「拝島~。俺たちは俗人でいよう、な?」
呼ばれて、高地とは反対の隣の席に座る拝島が笑顔を返した。
「高地も教科書とか読んでればいいんじゃないかな? 一月はすぐに来るよ?」
思わず笑ってしまった。
「ぐはっ! は、拝島……お前まで朽木化しなくても……」
拝島は無責任に甘い言葉ばかりかけるわけじゃない。引き締めるべきところはわかっている。
それが高地のためだと思えば、多少は厳しいことも言うのだ。
「せっかく朽木の隣に座ってるんだからさ。自分も頑張らなきゃ、って思えるだろ? そこにいると」
「はい……まったくそのとおりで……」
「時間を惜しんで頑張らないとね。俺もいつもそう思わされてるよ」
「……勉強させていただきます……。ホントにお前らといると身が引き締まる……祥子ちゃんともだけど」
言った後に、高地はポケットからなにやら取り出し、目の前に持ってきた。
パスケースだ。何が入っているのかは、それを見つめる高地の恍惚とした表情ですぐにわかる。
「ここで見ててね、祥子ちゃん。俺、頑張るから」
だらしなく頬をにやつかせ、見入っているものは、当然ながら立倉の写真。どうしようもないな、こいつは。
うっとりと好きな女の写真を眺め、あまつさえ話しかける男の姿は、自分もそういう時はあるとはわかっていても、背筋が寒い。
頼むからそういうことは家でやってくれ。
「祥子ちゃんの写真? へぇ~こないだの遊園地のか。可愛いね」
と、止める暇もあらばこそ。拝島がこちらに身を乗り出して写真を覗きこみながら言った。
「拝島!」
なんてことを。そんな、高地が喜ぶようなネタを提供してやると、こいつまた調子に乗って……。
と思った矢先に案の定。
「だろ? だろ? 可愛いよな~祥子ちゃん。絶叫系はイヤだなんて、可愛いコト言うし。そんなら二人で愛のメリーゴーランドだ! な~んつってな、でへっ♪」
一瞬で世界が冷凍庫になった。
鳥肌が。
暖房の効いている部屋でこれほどの鳥肌が立つとは。ある意味貴重な存在だ、高地。
「な~んか守ってあげたくなるような危うさがあるし。こう……『大丈夫かい、マイエンジェル? すべて俺にまかせておくれ。怖いならずっと俺が胸に抱いててあげるから、さぁ……』ぎゅ~~っ! とかなんとかなっ! どうよどうよ!?」
どうもこうも。頭がおかしいとしか思えん。なにがマイエンジェルだ。いっそ殴ってその恥ずかしい妄言を止めてやりたい。
ぶるぶると拳を震わせ、恨みがましい目で拝島を見ると、拝島は笑みをひきつらせ、「ごめん、朽木」と謝る。
こ、ここは実験室。怒鳴るわけにはいかない。怒鳴るわけには……。
「あ、そうだ、遊園地の写真、欲しけりゃコピーしてやるぜ?」
と、高地の妄言が止んだ。遊園地の写真?
「あ、それは欲しいけど……、俺、PC持ってないんだ。どうしよう」
「拝島にはプリントアウトしてやるよ。ちなみにいくつか持ってきてんだ」
言うなり高地は立ち上がり、入り口のロッカーに行ったかと思うと、封筒を手に戻ってきた。
「ちょっとだけだけどな。どうだこれ?」
手渡され、拝島は「へえ~」と嬉しそうな顔で封筒の中身を取り出した。
俺も横から覗かせてもらう。拝島の写真は是非欲しい。
拝島の後ろに立った高地が写真の一枚を指差して言った。
「これなんていいだろ。グリコちゃんとツーショットだぞ?」
「えっ」
なに?
拝島が驚きの声をあげ、俺は目を瞠った。
高地――もしかして、気づいてるのか? 拝島の気持ちに。
その憶測を裏付けるように、拝島の肩に腕を回してひやかしを続ける高地。
「よく見たらお似合いだよな~グリコちゃんとお前。付き合ってみたら結構いいカップルになんじゃね?」
「なっ、なに言ってんだよ高地。俺、栗子ちゃんとはそんな……」
慌てる拝島の顔が見る間に赤くなる。俺は奥歯を噛み鳴らした。
グリコと拝島がいいカップルになるなど、あるわけがない。想像したくもないが。
「もしお前がグリコちゃんと付き合いたいんなら協力すっから、頑張れよ拝島。グリコちゃんもお前への好感度高いし、イケると思うぞ、俺は」
イケる? 拝島への好感度が高い?
先ほどの懸念を思い出す。やはり、そういうこともあり得るんだろうか、客観的に見て。
あのグリコも所詮、普通の女と同じように拝島のことを――
「こんなところで妙なこと言うなよ。俺、別に栗子ちゃんと付き合いたいなんて思ってないしさ」
拝島が困ったように赤らんだ頬をうつむける。ちらりと俺を見る目は、俺の機嫌を窺っているようでムッとした。
俺がいなければ――拝島はグリコに告白できる。
だからどうした。認めてたまるか、そんなこと!
「恥ずかしがんなよ拝島。絶対、グリコちゃんもお前のことまんざらじゃないって」
「今は授業中だ。いい加減、無駄口叩くのはやめろ、高地」
そこで俺は高地の話を遮った。厳しい眼差しと声で威圧する。
これ以上余計なことを言われるのも、先走られるのも我慢ならない。まかり間違って拝島がその気になりでもしたら、こいつ、殺してやる。
「朽木……」
「なんだよ朽木。お前、グリコちゃんが誰と付き合ってもいいって……」
「そんな話は関係ないだろ。今は授業中だと言ったんだ。教授が睨んでるぞ」
「イッ! やべっ」
高地は慌てて自分の席に戻った。ひとまずは話を中断できたことにホッとする。
しかし、その後もしばらく頬を染めたままの拝島に苛立ち、不機嫌の極みに達した俺は、実験が終わると同時に荒々しく実験室を退出し、誰よりも先に帰宅の途についたのだった。