Act. 13-1 とんでも腐敵な嵐の予感!
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最後の講義が終わると同時に手早く片づけを済ませ、不愉快な空間を抜け出すべく俺は立ち上がった。
図書館に寄って帰るという理由で、隣に座る拝島とろくに顔も合わさず、短い別れの言葉のみで背を向けた。
苛立ちを顔に出してはいなかったと思う。一度失った感情のコントロールは既に取り戻したはずだ。
だが、今の拝島を正面から見ているのは辛い。
グリコを想う拝島など――――
『びっくりしたよな〜。グリコちゃんが腐女子だったなんてよ』
今朝のことである。
珍しく早めに登校してきた高地は、俺と拝島に、昨日のグリコの話題をもちかけてきた。
腐女子であることを晒した途端の生々しい変態トーク。
腐女子であろうとなかろうとグリコは元からおかしな奴なのだが、高地には衝撃の事実だったらしい。
しきりに腐女子腐女子と連発していた。
『ああいうの別世界だと思ってたのに、案外近くにいるもんなんだな〜。男同士のどこがいーんだろうな』
愛されるのが当然だと思っている女を相手にするよりは余程いいと思うんだが。
気持ちよければそれでいい。そう割り切りやすいのが男の利点だ。女より手軽に抱ける。
『グリコちゃんは面白くていい子だと思うんだけどさ。やっぱちょっとひいちゃう部分はあるよな』
それが普通の感想だろうな、とは思った。
高地は正直なだけまだいい。知り合いの受け入れがたい点を目の当たりにした時、大抵の人間はこっそり距離を取るものだろう。
しかし。拝島は、好きな女の陰口に我慢がならなかったようだ。
『高地だって女の子で色々と想像したりするだろ? 栗子ちゃんが特別なわけじゃないよ』
眉をしかめて反論し始めたのだ。
『自分とちょっと違う趣味を持ってるからって、壁を感じるのはおかしいよ。いいじゃないか、男同士が好きだって』
『そりゃそうだけどよ……。実際、お前も勝手に妄想に使われてショックだったんだろ?』
『あ、あれはその……』
わかっている。拝島がショックだったのは、自分が男と絡まされて気持ち悪かったからじゃない。
それがグリコだったからだ。
好きな女に他の男とくっつけられて妄想のネタにされている。男として意識されていない。
それが悲しくてあんな落ち込んだ顔をしたのだ、拝島は。
池上はどうやら拝島の気持ちに気づいていたらしい。グリコに余計な注意をしてくれたおかげで、拝島は立ち直ってしまった。
グリコが自分を意識していなくてもいい。自分の気持ちは変わらない。そういう目でグリコを見ていたのを、俺は苦々しく思い出した。
グリコが変態であることは、拝島の気持ちを少しも揺らがすことはなかったようだ。
それは悔しくもあり、またどこか嬉しくもある複雑な心境だった。
拝島は、俺がゲイであると知ってもひいたりしない。俺の気持ちを知っても逃げ出さない。
その推測が確信に変わった。拝島の人間性を改めて知ることで。
拝島は思いやりに溢れた、広い心の持ち主なのだ。
天使のように穢れなき人間なのだ。
純粋な奴なのだ。
なのに。
なのに、なんであんな悪魔のような女を――――
ガリッ
装丁のこすれる音に、俺は慌てて意識を取り戻した。
ここは大学の図書館。借り物の本なのに、危うく傷めてしまうところだった。
乱暴な仕草で棚に戻した分厚い本が、斜めに傾いた状態で、窮屈そうに挟まっていた。
一度引き抜き、丁寧に入れなおす。
「おっ、朽木。なんでこんなところにいんだ?」
横から声をかけられて、振り向けば、山のように本を手に積み上げた高地がいた。
珍しい。高地が図書館で勉強とは。
早く来るようになったことといい、CBTの件で己の不真面目さを少しは反省したのかもしれない。
「ちょっと調べ物があってな」
俺はたった今戻した医学用語辞典の隣にある本を取り出した。
医学書だ。こんなところに、と高地が言ったのは、薬学系の棚でなく、医学系の棚の前に俺がいたからだろう。
といっても専門的な言葉を調べるために医学用語辞典を紐解くことは普通によくあることだ。
特に意外でもなんでもないと思うんだが。
しかし、高地は俺がたまたま手にした医学書を見て、なにやら誤解したようだ。
「お前、医者に鞍替えとか考えたりしてんのか?」
「まさか。これはなんとなく手に取っただけだ」
辞書の隣にあったから。ただそれだけで手にした本を見て、何故そんな発想の飛躍ができるんだ。
医療の中心に立ち、自分ひとりの力でもって患者の病気と戦う気概など、俺にはない。
「いやー、お前なら医者になってもおかしくなさそうに思えたからよ」
「それはないな。薬局薬剤師で十分食っていけるのに、今更別の学部に移る気にはならん」
「なんかもったいねーな、それも。あんだけ勉強できんのに。しかもお前、教科書以外の本もかなり読んでんじゃねーか」
「それは……」
俺は口ごもった。
高地の言う教科書以外の本、というのは、この図書館に収められている世界中の薬学関係の論文集や、最先端医療情報が載っている雑誌のことだろう。俺はよくそれをここで読んでいる。
自分で購入しているものもあるが、薬学会に登録されないともらえないものもあるので、それを読むために頻繁に図書館通いしているところを友人づてに聞いたのだろう。
「ちょっとした興味だ。教科書に書かれてることを丸暗記してるだけじゃつまらないだろ?」
「そこがバケモンなんだよお前! あんだけ講義で詰め込まれてて、まーだ脳みそに入る余地があるってどんだけだよ!」
化け物呼ばわりとは失礼な奴だ。
確かに俺は記憶力がいいが、様々な知識を得ようとする学生は普通にいるだろ。
渡された処方箋どおりに調剤するのが主な仕事とはいえ、人の命を預かる職業に就くのだ。知らなかった、ではすまされない。
「現在どんな研究がなされてるのかを知るのは面白いぞ。講義内容をより深く理解できるし」
「マージかよ! やっぱ違うな〜お前。俺なんか単位とるのに精一杯なのによ」
それはお前が不真面目だからだ。
「そんだけデキると研究室も選びたい放題だな。来年どこにすっかもう決めたか?」
と、話は来年入る研究室のことに移った。
「いや、それはまだ……。どこでもいいといえばいいんだけどな」
どの分野にも興味はある。どこに行ってもそれなりに充実した研究生活が楽しめるだろう。
「高地はやっぱり万城目教授のところなのか?」
万城目教授は漢方系の研究を行っている。拝島から、高地はそこに行くつもりらしいという話を聞いたことがあったので、俺は適当に訊き返した。
「ん〜。ほぼそこで考えてはいるんだけどよ。免疫にも少し興味があるしなぁ……」
「免疫?」
それは、青天の霹靂だった。
高地が免疫学とは……いや、それほど意外でもないのかもしれない。漢方は免疫を高める効果が注目されている。
生薬が好きな父は、いつも人の免疫力について語っていた。俺にも興味深い分野だ。
しかし、薬学部の研究室程度ではたいした研究は行えないような気もするし、まだ迷いがある。
俺はもっと深い研究がしたい――――
「免疫か……」
いつのまにか、手元の本を強く握っていた。
特に求めていたわけではない。だが丁度、手にしていた本は免疫治療の本だった。
パラリとめくると、癌細胞に関することが書かれている。
人間の体が持つ免疫力を高め、癌細胞を攻撃させる免疫細胞療法は、近年注目されているもので、もはや有名だ。
なんとはなしに、じっと見つめる。
……癌の……治療か……
すると、妙なことが起こった。
しばらく眺めていると、ざわざわと、落ち着かない気分になってきたのだ。
「――でよー、親父が言うにはよ――」
なんだこれは。この感覚は。
おかしい。
胸の奥がひやりとして気持ち悪い。なのに惹き込まれて目が離せない。
本の文字が、ぐるぐると頭の中をまわりだす。
呼吸が苦しくなってくる。
これは――――?
「朽木?」
その時、高地の呼び声が響き、俺はハッと顔をあげた。
「あ、ああ。高地も大変だな」
目線を前に戻すと、息苦しさはすぐに消えた。
どうやら軽いめまいを起こしていたらしい。ずっと下を向いていたせいだろう。
頭の血が変に偏ると、そういう状態になるものだ。
俺は適当に話を合わせながら本を閉じた。
そのまま棚に戻し、いい本があったら教えて欲しいという高地と共に、その場を離れた。