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花の記憶  作者: カザ縁
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涙の音色

揺れる視界の向こう側に、小さな背中が見えた。その向こう側は真っ白で、ただ黒くて小さな背中が在る。栗色の髪が揺れて、黒い服の裾も同じ方へと流れた。


―――ないてるの?


か細い声が耳に届く。

誰が言ったのかはわからなかったけど、とても聞き覚えのある懐かしい声だ。

栗色の髪が揺れて、ゆっくりとその顔がこちらを向いた。





耳に心地良い音が聞こえて、クロスはゆっくりと目蓋を押し上げた。上体を起こして、肩よりも長く伸びた髪を払いながら音に意識を傾けた。

優しく転がるような音色が何処からか聞こえていた。

その音を聴きながらクロスは顔を洗って髪を結び、すぐにいつもの修道着に着替えて支度を整えた。

短い廊下の向こうはこの小さな教会の聖堂に繋がっており、廊下との仕切りの小さな扉を開けると、音色はさらに大きくなった。


「随分とお早いですね」


聖堂の長椅子に座っていたのは、クロスの友人であるジャスティンだ。ギターを抱えて、器用に指を動かし絃を弾いてた。

クロスが声をかけると、演奏をやめてジャスティンはパッと顔をあげた。


「クロス!おはよ」

「おはようございます。それにしても早起きですね。まだ五時ですよ」

「ちょっと新曲の構想思い付いてさ。此処だったら音もあんまり洩れないし良いかなって思ってたんだけど起こしちまったか…悪かったな」

「いえ、構いませんよ。私はいつもこの時間に起きていますので。目を覚まさなければ気付かなかったでしょう。子供たちもよく眠っているようですし、お気になさらずとも大丈夫ですよ」


言いながらクロスがジャスティンの隣に座ると、彼は満足げに笑った。


「お前こそ相変わらず早いな」

「司祭ならば普通ですよ」

「だよな。ネボスケな神父なんて見たことないな…」


言いながらジャスティンはぽろん、ぽろん、と絃を弾いた。

ジャスティンの奏でるギターの音は実に耳に心地良い。旅の歌手であるジャスティンはその唄声が特に有名だが、ギターの音色もクロスは好きだった。彼の作る曲はどれも旋律が美しく、優しさが胸に沁みわたってくる。

音の数が段々と増えてゆき、ぽろろんと、何処か寂しい旋律が流れた。

時折泉が流れるような音を出すこの曲が新曲だろうか。


「曲名は決まっているのですか?」

「んー…クロスに捧げる哀歌・俺セレナーデ…とかどう?」

「真面目につけないと曲が可哀そうですよ」


クロスが間髪いれずにそう返すと、ジャスティンは不服そうに顔を歪めて「本気だけど…」と呟いた。

聞かなかった振りをしてクロスは再び旋律に耳を傾ける。哀歌、というだけあって何処か寂しげに、まるで嘆いているような曲調だった。


「何処か切ない曲ですね…まるで泣いているような」

「わかるか?」


ジャスティンは最後にかき鳴らすように絃を弾いた。


「“涙の音色”って呼ばれてるんだ」

「涙の音色…?」

「そ」


指を器用に動かし、再び旋律を奏で出す。

ぽろろん、ぽろろんと、まるで留まる事を知らない、涙。零れ落ちる旋律を聞いていると、線の細い乙女がさめざめと涙に伏せる様子が思い浮かんだ。


「ギターが泣いてるみたいだろ。だから“涙の音色”って呼ばれてる旋律。奏法」

「なるほど…」


ジャスティンは突然ぴたり、と弾くのを止めてクロスの方を向いた。


「まあ、本当は涙に音なんて無いんだけど。だからこいつが代わりに音をつけて、泣いてくれるんだ」


少し悪戯っぽい笑みを浮かべながらジャスティンは指先でギターを撫でた。

音楽家というものは、こうして心のうちを表現するのだろうとクロスは思った。


※※※


「クロス神父さま~こんにちわっ」


視覚的に現すなら、春の太陽のような声音で男性が教会にやって来た。雑巾かけをする手を止めて、クロスは振り返った。


「こんにちわ、ルイスさん。今日もお元気そうですね」

「神父様も」


短い明るい茶髪を元気に振り乱し、満面の笑みを少しも隠そうとしないその無邪気な態度と童顔な顔からは想像し辛いが、年齢はクロスのひとつ下の二十四歳だ。

ルイスはクロスの幼なじみの一人でもあり、最も親しい友人の一人だった。


「こんにちわ」


もうひとつ声が聞こえて、クロスは入り口の方を見た。

外から顔を出していたのは、ルイスとよく似た茶色い瞳と髪を持つ男性だった。


「こんにちわ、お久しぶりですレヴィンさん」

「中に入っても?」

「もちろんです」


クロスに断りを入れてから教会堂の中へと足を踏み入れたのは、ルイスの兄であるレヴィンだった。

この教会へ来るのは珍しく、クロスも最後に会ったのはいつだろうと思案する程だ。

確か記憶では、ルイスより五歳程年上だったろうか。兄弟らしくよく似た顔立ちをしているが、歳を経た分レヴィンは落ち着いた顔貌で、それでも何処か人好きのする柔らかい笑みはそっくりだった。


「レヴィンさんが此処に来られるなんて、珍しいですね」

「ああ。今、本国の伯爵サマが来てる事はお前も知っているだろう?」

「お屋敷に迎えておられるのでしたね」


レヴィンとルイスは、この街を統治する領主の次男と三男である。

位としての領主は彼らの父親であるが、実質権力を持っているのは彼らの兄である長男だ。レヴィンはその補佐をしているとルイスに聞いた事があった。

伯爵はこの街一帯を含む土地の正統な領主であるが、レヴィン達一族はこの街の統治を任されていた。その為、伯爵の持成しには特に気を使うのだろう。この街に伯爵が訪れた時も、それは盛大な歓迎ぶりだった。


「その伯爵サマがこの街の信仰について知りたいんだとよ。で、司祭と話がしたい、と」

「おや、それは光栄ですね。…私なんかにうまくお伝えする事ができるかどうか不安ではありますが」

「その点については俺は何も心配していないよ。クロス神父は何処に出しても恥ずかしくない、この街の誇りだ」

「褒めすぎですよ」


少し困ったように笑い返すクロス。

こんな風に褒められれば嬉しいが、少しだけ重責を感じる。

ルイスではなく、レヴィンが直接訪れた事も意味があるのだろう。思惑あっての事なのかどうかはわからなかったが、しっかりしなければならないなと、心の中で自分を叱咤した。


「あ、そうだ。兄さん。あの話はどうなったの?」


いつの間にか雑巾を手に持ってくるくると手遊びながら、ルイスが言った。どうやら掃除を手伝ってくれるらしい。


「あの話?なんの事だ?」

「伯爵サマのレイジョーとの結婚話」


椅子の背もたれを手慣れた動作で拭きながらルイスが言うと、レヴィの眉がぴくりと動いた。

気になる話題であったが、無関係なクロスが入りこんで良い話題では無い為、レヴィンの様子を伺うに留めた。

しかしその瞬間、ばっちりと目があってしまい、レヴィンから苦笑いが漏れた。これではクロスがこの話題に食いついた事がばればれだ。


「神父サマも案外下世話なんだな」

「す、すみません…」

「クロス神父は好奇心旺盛だからね」


ルイスが笑いながら言って、クロスは自分の干渉癖を恥じた。


「別に良いよ。なんか伯爵サマに気に入られちゃったみたいで、俺を娘婿にどーかってさ」

「凄いんだよ。娘と結婚して、私の右腕として欲しいって。本当は上の兄さんも欲しいくらって言ってたけど、兄さんにはもう可愛い奥さんがいるからね」


レヴィンの説明にルイスが補足を付け足した。

成程、ありそうな話である。この街の領主は一帯の街々からの評判も街人からの評判も良い。

それは領主だけではなく、その補佐レヴィンの存在も大きい。

今まで誰とも結婚しなかったのが不思議なくらいだ。


「…ルイスさんは?」

「え?僕?ははは。僕にそんな声がかかるわけないじゃないですか。たぶん、伯爵サマは二人兄弟だと思ってるんじゃないかなぁ。だって僕、上の兄さんに屋敷にいる時は絶対部屋から出るな、伯爵と顔を合わせるなって命令されてるもん」


兄に存在を消されているのも関わらず、あっけらかんと笑うルイス。この兄弟の仲が本当は良好だからこそ、クロスも苦笑い程度で流せる話題だ。

ルイスは街の女の子たちと遊び歩いている事が多く、領主としては何もしていないのだ。


「で、どうする事になったの?レヴィン兄さん」

「うーん、まあ、受けるだろうな」

「え、よろしいのですか?」


レヴィンの軽い調子の言葉に、思わず口をついて出てしまった。言ってしまってからクロスは手で口を押さえた。


「そんな意外?」

「い、いえ…レヴィンさんを慕われている女性は多いと思うのに、今まで誰ともご結婚なされなかったのは、誰か心に決められたお相手でもいらっしゃるのかと…」

「お前がそれ言うか。この街で一番モテるのはクロス神父だって皆言うだろ」


そう、レヴィンに茶化されてクロスは咳払いで誤魔化した。

神父である自分に結婚は許されていない…しかし、それとは関係なくクロスは恋愛ごととは縁遠かっただろう。それに街の人の好意は、ただクロスが司祭であるからという点も大きいだろう。


「本当に神父にしとくには勿体ないよなぁ…」

「私の事は良いのです」

「はいはい。ああ、でも、もし結婚式すんなら立会人はクロスに頼むぜ」

「私なんかでよろしいんですか?」

「俺の愛するこの街の誇りであるクロス神父だ。それ以上の理由がいるかい?」


そう爽やかに笑う顔には、何の迷いも無かった。


※※※


また後で細かい事を伝えに来ると言って、レヴィンは教会から出て行った。毎日忙しそうで、声をかけるのも躊躇われる程だ。

だから今日、彼と話せて良かったとクロスは思った。


「クロス神父さま~。雑巾がけ終わりましたけど、他に何か手伝います?」

「有り難うございますルイスさん。此処はもう大丈夫ですので、子供たちの掃除を手伝って来てもらえますか?」

「りょうか~い」


ぱたぱたと靴音を響かせながら、ルイスは教会の外へと駆けて行った。

レヴィンと違って弟のルイスはいつも暇そうである。いや、彼にしてみればあらゆる女の子と遊ばないといけなくて忙しいらしいのだが、ちょくちょく教会に来てはクロスの話し相手になってくれたり、何かと手伝ってくれている。

信仰心が篤いとも言えるが、決まった相手がいない彼を不誠実だと言う人も居た。

だが、ルイスにしてみれば、決まった相手がいるのに遊んでいる方が不誠実であるそうだ。


「クロス神父~」

「はい?」


出て行ったと思っていたルイスの声が突然背後から響いて、絞っていた雑巾をバケツの中に落としてしまった。水しぶきが軽く跳ねてクロスは慌てて飛び退く。


「なんですかルイスさん」


努めて平静を装って振り返ると、ルイスが先ほどレヴィンがやっていたように、外から顔だけ覗きこんでいた。


「可愛いお客さんがいるよ」


ルイスがそう言いながら教会の中に入ると、後ろから小さな影が現れた。

高い位置の二つ括りの髪を可愛らしいリボンで結わえた、十歳くらいの女の子だった。この街では見たことの無い少女である。

街の住人ならほとんど顔と名前を覚えているクロスだったが、子供ならなおさらだ。クロスは学校の無いこの街で、子供たちに勉強を教えている。だからこの街の子供で無い事はすぐにわかった。


「初めましてお嬢さん。何処から来たのですか?」

「初めまして、神父さま。あの、わたし…」


少女は紅いスカートの端を両手できゅっと掴んで、大きな瞳でクロスを見上げた。


「わたし、月風島からきました。一人できました」

「月風島から一人で、ですって?」


クロスの驚きに、少女はこくりと頷く。

月風島は小さな島で、この街の周辺諸島のひとつだ。

この街の港から定期船一本で行けるとはいえ、出るのは三日に一本、まる一日の航路だ。

そんな場所からこの幼い少女でひとりでやって来たとは。

聞きたい事や言いたい事は色々とあったが、ひとまず少女を休ませる事にした。この小さな身体に長旅は堪えただろう。


「…そうですか。では、お疲れでしょう。今、お菓子を用意しますから是非、食べてください」

「で、でも…」


少女は焦るように瞳を震わせるが、明らかに顔色は悪く弱々しい。

やや強引少女の腕を引いて磨いたばかりの椅子に座らせた。ルイスもその横に座った。


「お菓子って神父様が作ったんですか?」

「いえ、フォール様と子供たちが…」

「なら安心だ!僕も食べる。良かったね!」


言いながら少女に笑いかけるルイス。

前半の言葉の意味が少々気になったが、ルイスがそう言ってくれたおかげで少女もお菓子を食べてくれるようだった。

※※※


しばらく三人で囁かなお茶会をしていると、少女の顔色はよくなって元気を取り戻したようだった。


「リアちゃんって言うんだ、可愛い名前だね。何歳なの?」

「十二歳」


ルイスのフェミニズムは小さい少女にもしっかり発揮され、いつの間にか打ち解けていた。

リアと名乗った少女は、これまでの話で、月風島に両親と三人で暮らしているという事がわかった。


「それでどうしてこの街に一人で?」


クロスが核心を問うと、リアはお菓子を摘む手を止めてやや俯いた。こんな少女が一人でこんな所までやってくるなんて、とても重要な事だろう。

まだ聞くのが早かったろうかと思ったが、リアはおもむろに持っていた小さな鞄から何かを取り出した。


「これを…渡したくて…」

「手紙…ですか」


クロスがそれを受け取った。

薄い桃色に花が描かれた綺麗な封筒の手紙であるようだった。しっかりと蝋で封をされている。中に何か固形物が入っているのか、一部不自然に盛り上がっていて触ってみると堅かった。手紙と一緒に、何か丸いものが入っているようだ。封筒を裏向けてみると、繊細な文字で名前らしきものが書かれていた。


「エレンさん…という方の手紙ですか?」

「うん」


リアは頷きで応えた。


「しかし…宛名が書かれていませんが、これはいったい誰の…?」

「それが、わからなくて…」


リアは悲しそうに瞳を伏せる。

珍しい名前というわけではないが、この街にはその名を持つ人はいない。しかし何処となく聞き覚えがあった。


「エレンは、わたしのお姉ちゃんなの」

「ああ、では月風島の方ですか?」

「そう、なんだけど…」


少女の声色はどんどんと元気を無くしていく。


「エレン…?エレンってもしかして、昔この街に住んでいた…?」


ルイスが驚いたように目を見開き、声を震わせた。

リアがパッと顔あげて大きく頷いた。


「そう。此処に住んでたってお姉ちゃん言ってた」

「わあ!やっぱり!十…二年くらい前だったかな。引っ越して行ったんだよね」

「そうなの!わたしが産まれるちょっと前に月風島に引っ越したって。だからわたしは此処の事、知らなくて…」


嬉しそうに笑うルイスが、今度はクロスに視線を合わせた。


「ねえ、クロス。覚えてない?エレンだよ!金木犀の家の…」

「…ああ、エレンさん!思いだしました」


大きな庭のある家に住んでいた女性の姿を、クロスはようやく思い出した。

クロス達よりかは少し年上で、あまり話した事は無かったが、儚げでそれでいて優しい女性。色んな植物の事をクロスに教えてくれた人だった。


「あ~懐かしいな。エレン、突然引っ越しちゃったから。僕エレン大好きだったから寂しかったんだよ。今どうしてるの?元気にしてる?」


ルイスが懐かしさに笑顔を綻ばせながらそう言うと、少女はいっそう顔を伏せた。そしてスカートの裾両手できつく掴んだ。


「…死んじゃったの。三年前に」

「…え」


震えるような声で絞り出された言葉に、ルイスは息が詰まったような声を出した。

リアは涙をこらえるように唇を噛みしめて、ぎこちないため息を吐いた。


「ずっと…病気だったの…。あんまり長生きできないって…わたしが産まれた時はもうずっとベッドの上でしか起きてられなくて…。引っ越したのも、わたしが産まれるからもう少し大きい家を探していたのと、お姉ちゃんが静かに療養できる場所を探してたからだって…」

「…そう、だったの…」


知らなかったよ、とルイスは気が抜けたように呟いた。長椅子に深く腰を沈めて、長いため息を吐く。

クロスも自分の心が激しく動揺している事がわかった。

忘れていたとはいえ、今しがた思いだした記憶の中の彼女は生きていたからだ。


「それでね…私、お姉ちゃんの部屋でこの手紙をみつけて…届けられなかったこの手紙を、届けてあげたくて…。でも宛名が書いてなかったから…。お姉ちゃんの知り合いはこの街にしかもういないからって…」


それでこの小さな少女は意を決してこんな所までやって来たのか。

リアがどれだけ死んだ姉の事想っているのかがわかり、じわりと心に沁みた。


「そうでしたか…。リアさんは、お姉さん…エレンさんの事が大好きなのですね」

「うん!お姉ちゃん、とても優しかったから…でもわたし、お姉ちゃんになにもしてあげられなくて…。だから、お姉ちゃんが出せなかった手紙、代わりにわたしが届けてあげようって思って」


気丈に涙をこらえながらも事情を説明するリア。

教会にやって来たのは、この街で一番古い場所である事と、人が集まる場所だという話を聞いたからだそうだ。


「それに、ここの神父さまはとっても物知りだって聞いたから」

「ありがとうございます。しかし、エレンさんがこの街にいた頃は私もまだほんの子供でしたから…その手紙が誰に宛てたものなのか…。ご両親が仰られていると思われる、昔ここの司祭だった神父様は、今は別の教会にいるんです」


クロスが正直に話すと、リアは俯いてしまった。

どうにか出来ないかとルイスを見れば、ルイスは考えるように宙を見ながら顎に手を当てていた。


「ルイスさん思い当たる節が」

「うん…ていうかね、エレンは僕より…兄さんと凄く仲が良かったんだ。幼馴染だったんだよ」

「お兄さんと言いますと…」

「レヴィン兄さん」


昔を思い出しているせいか、ルイスの口調も昔に戻っている。

先ほど教会から出て行ったレヴィンの顔をクロスは思い出していた。


「そういえば、そうでしたね」

「だから兄さんなら知ってる…いや、僕の予想ではむしろ、レヴィン兄さんに宛てた手紙なんじゃないかなあ」

「レヴィン…?」


リアが問う様に、首を傾げて言った。

ルイスは椅子に座り直して、少女と向き合う。


「僕の兄さんなんだけど、エレンと幼馴染で一番仲が良かったんだ。僕もその頃はまだ子供だったから全然気付かなかったんだけど、あの二人は恋人同士って言っても良かったくらいだよ」

「…!その人かもしれない!」


リアは興奮気味にルイスの方へと身を乗り出した。ルイスの服を小さな手で握って、大きな瞳を更に大きくさせている。


「あのね、お姉ちゃんいつも言ってた。この街にはとっても大切な人がいて、その思い出が一番大切なんだって。その人の事だけがとっても心配なんだって言ってた…。その人に、会ってみたい!」


真剣な目付きのリアにそう言われ、ルイスはふっと軽く笑った。


「うーん、そうしてあげたいの山々なんだけど…」

「何か事情があるのですか?」


意外な返答にクロスが問い返すと、ルイスは困ったように眉尻を下げて笑った。


「何かね、レヴィン兄さんはエレンの事を話したくないみたいなんだ。僕、思い出したんだけど、エレンがいなくなった後すごく悲しくなって泣いたり、兄さんにエレンの事を話したりしたんだけど、そしたら兄さん凄い剣幕で怒るんだ。“あいつの事はもう話すな!忘れろ!”…てね。そして兄さんもエレンの事は一切話さなくなった。だから忘れてたんだよ、エレンの事」


そう言われてクロスも思い出す。

エレンがこの街から去った後、クロスも一度だけエレンの事をレヴィンに聞いた事があった。返って来たのは曖昧で素っ気ない返答だったが、彼を纏う空気があからさまに険のあるものになり、聞いてはいけない事だったのだとクロスも思ったのだ。

それからエレンの話題は努めて出さないようにしていたのだろう。

それがいつしか思い出してはいけないものになっていたのかもしれない。


「お二人の間に、何かあったのでしょうか?」

「そこまでは僕もわからないなぁ」


ルイスはうーん、と唸りながらまた宙を見た。


「でも、リアちゃんが直接聞くんだった…」

「おこられる?」

「いやー…さすがに子供に対してそんな大人げない態度はとらないと…思いたい」


乾いた笑いでそう応えたルイス。

クロスもレヴィンがそんなに大人げない人物だとは思わないが。しかし下手をすればレヴィンもリアも傷ついてしまうのかもしれない。

どうしたものかと思い、クロスはふ、と祭壇を見た。


「…一旦、神様に預けて、運命に全てを託してみるのは如何でしょう?」

「え?」


二人の困惑するような声が同時に教会堂内に響いた。



※※※

レヴィンが伯爵と話をつけて教会に戻ってくると、誰もいなくなっていた。

クロス神父に詳しい日程を伝えようと思っていたのだが、本人の姿も無い。何処か出掛けたのだろうかと思い、教会内で待たせてもらおうと足を踏み入れた。

小さいながらも、何処にも負けない程美しい教会堂だとレヴィンは思っていた。

鮮やかな花々が色とりどりにステンドグラスの上で咲き、日にあたりきらきらと教会に光を落とす。折り目正しい木目に映った光の陰がゆらゆらと足元に揺れて、水中花のように幻想的だった。

それは名もなき旅の建築家が、この教会の素晴らしき祭壇の為に作った教会堂だった。

小さな焔をいくつか灯す祭壇は、恐ろしく精巧で緻密な彫刻で出来ていた。見事に神話を歌い上げるその彫刻の祭壇の頂点に君臨するのは、この教会の祭神である正義の神「ジエストリアス」だ。

ジエストリアスは剣の化身であり祭壇に彫られたその剣は、まるで神話世界から抜け出してきたかのように美しく精巧なものだった。

この神々に見守られながら、永遠の愛を誓う夫婦達…。

レヴィンはその姿を何度も見てきた。


「此処で結婚式を、か…」


確かに自分もそれを望んでいたが、本当にそれを望んでいたのは…。

自嘲気味に笑いながら、レヴィンは祭壇に一番近い椅子に腰かけた。


「ん?」


ふと、祭壇の前の説教壇の上に何かが置かれている事に気がついた。

封筒のようで、それはクロスが自分に書き置きしたものだろうかと思い、手に取ってみた。


「おっと…」


途端に何かが滑り落ち、教会の床に音を鳴らしながら転がった。

床を弾いたのはまるでオルゴールのような清廉な音で、何が落ちたのかと“それ”の行方を追って拾いあげた。


「…指輪?」


それは丸い銀色の指輪であるようだった。

光を乱反射してきらきらと輝いて、銀が白にも見える。ほんの小さな碧色の石がついていて、これが先ほど床で不思議な音色を奏でたのかと考えた。


「…」


その指輪を見ているレヴィンの指先が震えだした。

胸をはげしくしめつけ、全身を冷やしていくこの感覚。息をする事さえも一瞬忘れ、世界が反転したような錯覚を覚えた。

レヴィンは目、顔、身体と順にゆっくり動かし、再び封筒を見た。

薄桃色で、花がうっすらと描かれた可愛らしい意匠。しかし宛名は書かれていない。

レヴィンは震える手で、緩慢な動作でそれを裏返した。


「…エレ…ン…」


その名を呟いたのは、何年ぶりだろうか。

どうしてこれがこんな所に。

指輪、そしてエレンという名前。

これは、この手紙は。


「やはり、貴方に宛てたものだったのですね」


声が響いて振り返ると、穏やかな、しかし何処か切なげに微笑む神父が立っていた。


※※※


リアを子供たちを育てている孤児院に一旦預けて、クロスとルイスは教会堂へ戻って来ていた。

そこに居たのは、手紙を片手に持ち茫然と立ちつくしたレヴィンであった。

教会の長椅子に座りリアの事を話したが、レヴィンの表情にはまったく色が無く、ずっと俯いたままだった。

全て話し終えた後、レヴィンはため息をつくように呟いた。


「………死んだのか、エレンは」

「…はい、三年前にご病気で亡くなられたそうです。ご存知だったのですか?」


エレンの死に関しては、クロスは何も言わずにいたのだ。

彼の心の整理がついてから話した方がいいだろうと思っていたからだ。


「エレンが病気だったって事はなんとなく………信じたくなかったけど、この指輪を返してきたって事はそういう事なんだろうなって」

「兄さん…」


乾いたように笑ってはいるが、その横顔は悲痛なまでに切ない。

クロスにもルイスにも、レヴィンを目を合わせようとはしなかった。


「兄さん、手紙は…読んだの?」


ルイスの問いかけに、レヴィンはゆっくり頷いた。


「なんか手が勝手にな」

「…何が書いてあったの?」


弟の率直な問いかけに、レヴィンは苦笑いをした。


「…指輪を返すって事と、俺とルイスの事が心配だって事。今まで有り難うって。それから自分の事は忘れて欲しい、だってさ」

「………」


今度はルイスが下を向いてしまった。

エレンの事を今日という日まで忘れていた事を、気にしているのだろうか。


「はは…馬鹿なヤツだよな。ほんと…人の事ばっかり」

「兄さん…エレンと…何があったのか聞いても良い?」

「もう聞いてるだろ」


皮肉を返しながらも、愛おしそうに指先で封筒に書かれた名前を撫でた。それからしばらく黙って、ため息を吐く。   指輪を手遊びながら、一度だけ祭壇を見て目を細めた。


「お前達はまだ子供だったけど、俺とエレンの仲が良い事ぐらいはわかってただろう?」

「兄さんと一番仲がいい人だって思ってたけど」

「その認識は正しいよ。俺は…エレンの事が好きだったからな」


当時はレヴィンもエレンも時折教会に来て神父に教えを乞いたり、子供達の勉強を見てくれていた。二人はクロスが見ている限りはいつも一緒で、たまにそこにルイスが混じっていたのを覚えている。

レヴィンは目を細めて指輪を見つめた。


「…エレンもそうだと思っていたよ。なんとなく、あいつも俺の事が好きなんだろうって。それで俺はいずれエレンと結婚して、兄さんの仕事手伝いながらこの街で暮らすんだって。そういう未来予想図があったんだ」


確かに当時の二人を見ていると、それはとても自然な事のように思えた。

約束された未来、レヴィンはそう思っていたのだろう。


「今から考えると大した自惚れだよな。お互いの気持ちなんて一切確認し合った事なんてなかったのに」

「でも、エレンは兄さんの事好きだったはずだよ」

「かもな」


曖昧な言葉でしか語れないのは、当の本人はもうすでにこの世からいなくなってしまっているからだ。


「だから俺は指輪をあげたんだ。行商人から買ったんだけど、なんか面白い色した金属だろ?この碧の石もきっとエレンに似合うと思って」


レヴィンは手に持っていた指輪を高い位置にあげて、陽に当てて見せた。白色に輝く銀色の指輪は、想いの分だけ美しく感じられる。


「俺は結婚の約束のつもりだった。エレンも喜んでくれたし、泣いてもいた。…だから俺の意図はあいつに伝わったって。そう思ってたんだけど…今、思えば…あいつの体調が悪くなっていってて、嫌な予感がずっとしてたせいかもしれない。そうじゃないって確証が…未来の約束が欲しかったんだ」


徐々に指輪は位置をさげていき、俯いたレヴィンの身体の陰に入る。

輝きを失った指輪、思い返すような横顔。


「それから少し経ったぐらいだったかなあ…。あいつが引っ越して行ったのは」


笑ったのか、少しだけ唇が歪になる。

自嘲しているようで、悲しんでいるような。見ているだけで押しつぶされそうな気がして、クロスも僅かに顔を伏せた。


「俺が引っ越すってわかったのは前日で、急いで家まで行ったんだ。それで…焦ってエレンに俺が思ってる事全部話した。好きだ、将来結婚してくれ、ずっと側にいて欲しいって」


ルイスは表情を無にしたまま、淡々と話す兄をただじっと見つめている。

レヴィンはついに指輪を手のひらの中に隠してしまった。


「…そしたらエレンは、それはできない、ごめんなさいって。そう、言ったんだ。それを聞いたら…なんかもう、全部わからなくなって。頭が真っ白にっていう状態。自惚れてた自分が馬鹿みたいだっていう恥ずかしさ、とか、なんでなんだよっていう怒りとか、どうしていなくなるんだっていう悲しさとかさ。…それで俺は…ただ、“そうか”って、それだけなんとか返したんだ」

「兄さん…」

「それから俺は必死にエレンの事を忘れようとした。忘れて新しい未来を想像しないと生けていけない気がしたんだ…」


そう語る声が、僅かに震えている。

だがレヴィンの口許は何故か笑っていて、しかし瞳は。


「なぁ…どうして俺は…あの時“それでも愛してる”って言えなかったんだろう…」


まるで告解のようだとクロスは思った。

その言えなかった一言が、彼女の命を奪ったのだと言わんばかりだ。

時間が経つにつれ、彼女の本意と身体の事を理解してゆき、それが更に彼を苛めていたのだ。その苦しみから逃れようと、ただレヴィンは生きてきた。

窓から入った風が、レヴィンの髪を浚い、さらに封筒をカサカサと揺らした。


「あいつは…エレンは…俺が苦しんでるんじゃないかって…わかってたんだな…。だから…手紙を書いて、指輪を返したんだ…」


何も気にしなくても良いよ。

確かにクロスにも彼女がそう言っているように聞こえた。


「どうして宛名が書かれていなったのかな…」


ルイスがレヴィンの手元の手紙を見ながら呟いた。

クロスは静かに瞑目し、エレンへ想いを寄せた。


「指輪を返す事で、余計レヴィンさんがエレンさんの事を忘れられないようになるのを恐れて、ですかね…」

「…そもそも、忘れられるはずなんて無かったんだ…」


自嘲しながらレヴィンは徐に立ち上がった。

クロスもただ予測する事しかできない。死んでしまった彼女の真意は、誰にも推し量る事ができない…。


しかし、クロスには…。


「なあ、ルイス」


少し大きめの声が響いて、クロスは思考を中断された。

ルイスが顔をあげて兄を見上げる。


「もしお前も苦しんでるっていうなら…俺達のせいで誰か特定の人を愛せないっていうなら、この手紙に書いてある通り、もう忘れろ。それから全く気にする必要はないぜ」 


眉尻を下げて微笑むレヴィンの顔は、少しさっぱりとしているように見えた。それは窓から入る陽光のせいだろうか、それとも彼自身の心境のせいだろうか。

レヴィンはルイスが特定の相手を作らずにいる事を気にしているのだろう。


「そんな事ないよ、兄さん」


ルイスはいつもの彼のように、人懐こい笑みを浮かべていた。


「僕はね、兄さんが言えなかった分の“愛してる”をたくさん言ってるだけなんだ」

「はは、よく言うよ」


声をたてて笑い、レヴィンは祭壇を振り返った。

それに釣られる形でクロスも祭壇を見上げる。

見なれているはずの祭壇も、今日は何処か切ないものに見えた。影と光が織り成す美しい色彩も、永遠に別たれた境界線のように思える。


「…俺、伯爵の縁談断る」

「よろしいのですか?」

「ああ。…俺は今でもエレンの事が忘れられない。こんな状態で誰かを幸せになんて出来ないからな。それに…」


レヴィンは祭壇をもう一度見上げて、それからゆっくりと教会内を見まわした。


「この教会で結婚式をあげるのが、エレンの夢だったんだ」


愛おしそうに何かを見ながらレヴィンがそう言った。

この教会には、神父であるクロスにも知らない人の想いがたくさんこもっている…。そう思えば教会は、いつもと違う場所のように感じられた。


「なぁ、クロス神父」

「何でしょうか」


レヴィンは長椅子に座るクロスに近づき、手のひらを開いて見せた。

碧色の石の銀の指輪…二人の未来が詰まった大切なもの。


「この指輪、預かっててくれないか?」

「教会で、ですか?」

「ああ…。あいつは手紙に宛名を書かなかった。って事はこれを俺に返すかどうか迷ってたって事だろ。それを俺が持ってるわけにもいかないから…それに」


レヴィンは穏やかな表情で、再び教会内を軽く見まわした。


「これには俺達の“叶えられなかった未来”が詰まってるから…」


そう言って笑うレヴィンの表情は、とても晴れやかに微笑んでいた。


だけど。


「…わかりました。お預かりします」

「ありがとう」


クロスが指輪を大切に受け取ると、レヴィンは再び祭壇へと向き直った。

再び窓から風が入り、彼の黒いコートと栗色の髪を揺らした。

あの頃と違って、その姿はとても大人びているのに、背中は酷く小さく見えた。


「…なぁ」


掠れたような声が教会内に響く。

そしてゆっくりと、彼がこちらへ振り返る。


「俺は今、どんな顔してる?」


クロスがゆっくりと瞳を閉じると、耳元で“涙の音色”が聞こえた気がした。


※※※


風が囁く声が聞こえたような気がして、クロスは聖堂に続く扉を開けた。

窓も扉も閉め切っており、間違いなく鍵がかけられている。夜の間中、聖堂を灯し続ける仄かな蝋燭がしずかに揺れた。

目線でそれを追いかけると、聖堂の目の前に輝くばかりに白い服を着た女性が立っていた。

足元もおぼつかないような暗がりなのに、何故かその人は青白いその肌まで輝いているように見えた。

床も天井も真っ黒で、窓から僅かに入る星と月の灯りだけが教会の中にもうとつの夜空を作っている。

クロスがゆっくりと近づいていくと、その人が靴を履いていない事に気がついた。白い無地のワンピースドレスは滑らかで皺ひとつなく、足元と袖口のフリルが僅かばかりの装飾だった。

こんな夜中に、鍵のかかった教会で、裸足で、外出するとは思えない格好の不思議な女性。

暗がりの中に浮かび上がるようなその姿。


「…お祈りですか?」


クロスが声をかけると、女性がゆっくりと振り返った。

白い髪に青い瞳の美しい人だった。


「神父さま、私はどうして此処にいるのでしょう」

「…ご自分の遺志では無いのですか?」


女性は少し悲しそうに瞳を伏せた。


「私…何もわからなくて…どうして教会にいるのか…私はいったい誰なのか…」


蝋燭の紅い焔の光が当たっているはずなのに、女性は青白く輝いている。その頬に手を置いて、考えるように顔を僅かに伏せた。


「いえ、私の意思なのかもしれません。ただそれがわからないというだけで」

「そうですか」


クロスは女性の目の前まで来て姿を眺めた。

何処か懐かしいその姿に、目を眇めて微笑んだ。女性も淡い微笑みを返しくれた。


「ひとつだけ…思い出したのです」

「なんですか?」

「私、教会で結婚式を挙げるのが夢だったんです…大好きな人と」


言いながら聖堂の中を眺める彼女の瞳はきらきらと輝いていた。そこに彼女の言う“大好きな人”の姿を見たのかもしれない。


「では、僭越ながら私が証人の役をしますので、今結婚式をやってみませんか?」

「え?でも、相手は…」

「それはもちろん、貴方の“大好きな方”です。…おままごとのようなものですが、如何でしょう?」


クロスがそう言うと、女性はおかしそうにクスクスと笑った。


「面白い神父さま。でもやりわたいわ、私。どうかよろしくお願いします」

「では」


クロスが説教壇に立つと、女性はその前まで足音もせずに移動した。彼女の隣には一人分の空間がぽっかりと空いているが、そこに立つ人物がクロスには見えるような気がした。


「あなた方は神に誓って真実の愛を守り抜き、共に在り続ける事を誓いますか」

「誓って」


クロスの言葉に、女性が清らかな声音で応えた。


「出会いを運命の神に感謝し、育まれた愛を女神に感謝し、永遠の神に祈り続けますか」

「誓って」


返ってくるのは女性の声だけだったが、そこにいるであろう男性の声も、クロスの耳に届くようだった。


「私が証人となり、あなた方の愛を認めましょう。…あなた方が互いの幸福を祈り続ける者であると」


クロスが女性に手のひらを差し出すと、そこには碧色の石がついた銀色の指輪が在った。

女性は驚いたように目を見開いて、おそるおそるそれを手に取った。


「これ…は…」


驚きながらも、女性は震える指先でその指輪を細い指へと滑らせた。

ピッタリと合ったその指輪は、初めからそこに存在したかのような輝きを放っていた。


「これは、私のワガママだったのです…」


女性は空に翳す様に、指輪をはめた手のひらを宙に置いた。

愛おしそうに震えながら、それを見つめ続ける青い瞳。


「彼との思い出、彼からの想い…それが欲しかったんです。そのつもりでいたかった。でも…結婚は出来ないとわかっていたから」


何もわからない、と言っていた時の迷いは彼女にはもう無かった。

愛おしそうに指輪を見つめたまま、頬を震わせて微笑んでいる。

青い宝石のような瞳から、涙が零れ落ちた。


「だけど、彼を独占するのはもうお終い。私は…」


彼女の瞳からははらはらと、涙が頬を伝って滑り落ち続けた。それでも充足感に溢れた彼女の笑顔の横顔は、見惚れてしまう程に美しかった。


「そうですか」

「神父さま。ありがとうございます。私はもう充分に満足です…私の願いは、叶えられました」


指にはめた指輪を大切そうに胸に抱きながら、女性はそっと目を閉じた。最後に一粒、また涙が落ちる。


「神父さま…彼に会う事があったら伝えてください」


私は、とても幸福でした。


その瞬間、オルゴールのような清らかな音が聖堂内に響いた。

床には星灯りに照らされた銀色の指輪が落ちている。

それ以外聖堂内には、ただ説教壇に立つ一人の神父の姿しかなかった。


「とても清らかな綺麗な音ですね…」


クロスには、ここに並び立つ幸せな恋人達の姿が確かに見えた。


耳の中に残る指輪が奏でた祝福の音色を思い出しながら、クロスは静かに目を閉じた。



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