ある墓守の記憶
その墓地は他のどの墓地よりも広く、そして薄暗い雰囲気に包まれていた。
墓地のある街で忌避されているその場所は、市街地からほど遠い山の中。元々身元のわからない浮浪者や、戦死者を葬る場所なので、死者の縁者はほとんどいない。
少し寒い日の昼下がりに、神父はその墓地を歩いていた。
この街ではあまり墓地に参る習慣が無いと聞いていたが、汚れも生え放しの植物も少ない。どの墓も綺麗に整えられている。
吐く息が白く空へと浮かび上がった。
「アンタが噂の神父さん?」
軽い調子の声に振り返ると、男が立っていた。
あまり良いとは言えない身形に、無精ひげだったが、声や顔からしてそれ程歳はとっていないだろう。神父は笑顔で応える。
「神父である事は間違いないですけど」
「おお、まぁ見ればわかるけど」
茶化すように笑う男につられて、神父も笑った。
男は右手に箒、左手にバケツを持っていた。
「…あなたは?」
「ああ、墓守だよ。ここの。ま、こんな墓場、人なんか滅多に来やしねえけど」
荒らすようなお宝も無いし、と男は付け加える。
様子から見て、この墓を綺麗に掃除してまわっているのは彼なのだろう。しかし他に人間の姿は見当たらない。
「あなたお一人で?」
「ああ、まあな。給料も大したことねーし、縁起悪いとか、気味悪いとか…それにここさぁ、昔伝染病が流行って、そんときの死者もたくさん埋葬されたんだよ。だからなぁ」
彼の言わんとしている事はなんとなくわかった。人が忌避するには充分な理由があるという事だろう。
「あんたは、なんでこんなとこ来た?」
「私はあらゆる街に訪れたら墓地を見る事にしているのですよ」
「変わったご趣味で。ま、司祭なんて大概変だと俺は思ってるけど」
声を出して笑う男に、神父は苦笑いで応える。
足元に流れる空気はとても冷えているが、男の雰囲気が少し暖かいと思う。
「あなたこそ、どうしてここで働いているのですか?」
「あ…?ああ…」
男は遠くのどこかを見るように、空を仰いだ。
「…あんたはさあ、誰かの為に死ねるか?」
「え?」
言葉を選ぶようにゆっくりと、紡ぐ。
それをそのまま受け取っていいのか、はたまたもっと違う意味があるのか。
二人の間を駆ける風は空気をさらっていく。
「この世にはさあ…誰かのために死ねるってヤツが、いっぱいいるんだと。ま、でも俺にはそうやって命かけても良いなんてヤツはいねえし。だからよー、俺ぐらいはいっそ死者の為に生きようかなって」
妙案でも思いついたかのような横顔。
神父には思いもよらない発想で、それを当然のように話すのが少し面白い。
「死ねばそれまでっつーけど…こいつらも生きてたわけだし?こいつらが生きてたから、この世があるわけだし。誰かはしんねーけど、どうせ行きつく場所が同じなら、今のうちに媚とくのも悪かないかなってな」
どうだ、とでも言いたげに笑う墓守の男。
「そうですか。私も死者のために祈る事は嫌いでは無いです」
「あんたはさ…見えるのか?この世ならぬものってやつ」
その問いに神父は静かな笑顔だけで応える。
墓守はどういう意味で受け取ったのか、眉を上げた。
「ちょっとは俺に感謝しろって言っといてよ、奴らに」
「私なんかが言わなくとも、きっと伝わっていると思いますよ」
男は乾いたように笑いながら、空を見上げた。少しくすんだ空はなんとも墓場の雰囲気に似合っている。
「あー、今気づいたけど…俺くらいはこいつらの事忘れないでおこうーとかって…滅多にしない慈善的な事考えてたんだけどさあ…俺が死んだらそれまでかな、もしかして」
眉を寄せて苦々しげに、笑う。
「いや、俺ってこんな仕事だから、人と話す事自体、久しぶりなんだわ。だから俺の事覚えてるヤツなんていないワケ」
気づいちまった、と大きなミスを犯したように頭を抱えて髪を掻く。
「それなら私が覚えていますよ。大丈夫です、私には私を覚えてくれている人がたくさんいるので」
そうして誰かに繋いでいければいい。誰かを覚えている誰か、そしてその誰かの事をまた誰かが覚えていて。
果てしない繋がりが円のように巡るのだと神父は想っている。
墓守の男はそれを理解したのか、また少し笑う。
「あはは、そりゃいいや。頼んだぜ、神父さん。俺はアンタの人望を頼りにする事にした」
「お任せください」
男はひとしきり楽しそうに笑ったあと、神父の方を見た。
黒い瞳に、黒いクセ毛。身形は綺麗とは言い難いが、何処か暖かみのある風貌。口元をやや歪ませてへらり、と一笑。
「アンタは、死んでも良いっていうヤツ居るのか」
墓場に吹く寂しい風のように、流れる問いかけ。
「ええ。残念ながら、たくさんいます」
神父は真摯に答えた。
男はやっぱり微笑みながら、そうか、と小さく言った。
「ああ、でもよ」
遠く、街の方を見つめながら墓守は言う。
「死んでもらっちゃ困るな。俺の願い、叶えるまでは」
死者の為に生きる墓守が、死者の為に伝えた願い。
心の奥を少し揺らし、響かせるような、神父はそんな感覚になった。
「ああ、困りましたね。私も死者のために、あなたの為に死ね無くなってしまいました」
「おお、頼むぜ。ホント」
「努力します」
そんな風に、死ぬなと言われたのは初めてで。神父は新鮮な気分になる。
墓場から見下ろす街も、出会いも、願いも。悪くは無いものだと、神父は笑った。
彼の願いの為に、何処かで静かに語り継ごう。
奇特で、優しい墓守の記憶を。