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花の記憶  作者: カザ縁
2/6

失った名前

雨の日だった。

ひと粒ひと粒がひどく重く感じる。雨傘を打ち付ける水玉の音で他の音は何も聞こえない。少年は淀んだ空を見上げてため息を吐いた。


「ああ、なんて天気でしょう…」


ここ数日そんな天気ばかりで気が滅入ってしまう。

少年は傘を教会の入り口に立て掛けて扉を開けた。

いつもは開け放たれているが、さすがにこの酷い雨ではそうもいかない。

教会堂の中に入ると真っ暗だった。生憎の天気で、神話を語るステンドグラスもよく見えない。


「…なんで真っ暗?」


司教様は大聖堂に行っていていないし、司祭様も隣町へ行ってしまっている。

だから今朝、蝋燭に明かりを灯し出てきたはずだった。

神の祝福を意味する明かりが消えてしまっていることに少年は嫌な予感を感じた。

扉を閉め切ると雨の音が少し弱まる。代わりに靴の音が高く響く。

寂しい雰囲気の中、ただ聖壇の明かりだけが少年を導いた。


「…司祭か?」


突然低い声が静かに響き渡った。

心臓の鼓動が一瞬止まったかと思うくらい驚く。

声のするほうを見ると見慣れない黒い影があった。


「い、いいえ。私は違います…いま、明かりをつけますね」


聖壇から火を借りてひとつ、ひとつ教会を光で満たしていく。

光が灯るごとに声の主の正体が露わとなる。

黒いローブを頭からかぶった男。ローブはしっかりと濡れていて重そうに光を照り返す。

少年は教会奥まで行ってタオルをもってきた。


「どうかお使いください」

「…すまない」


ローブを取って現れたのは男だった。

自分よりかは年上のようだがまだ歳若く見える。長い黒髪が雨を含んで瞳も黒く闇を映していた。

男は無表情に手や顔を拭く。

…いつからここにいたのだろうか。

微動だにしない男の表情が気になって少年は声をかけた。


「…旅のお方ですか?」

「ああ」


男は顔の割りに低い声で返事をする。

それは素っ気無かったが、拒絶の色合いは籠もっていない。


「ここは司祭のいる教会だと聞いたが…司祭はいないのか」


男が呟く。


「申し訳ありませんが司祭様は今日は不在です。頼りないとは思いますが、私でよろしければご用件を承ります」

「…」


男がふ、と少年を見上げる。

無感動とはこのことを言うのだな、と思った。


「すまないが、一晩宿を借りたい」

「え…ええ。大したお構いは出来ませんがそれでもよろしければ」

「雨を凌げれば充分だ。この聖堂で構わない」

「それはなりません。お風邪を召されてしまいます。服も乾いたものをお貸ししますので」

「…ありがたく」


男は呟いた。



教会にある、質素な乾いた白い服を着た男は先ほどとは全く違う雰囲気に見えた。

しかしやはり無感動な顔をしている。


「不便はありませんか?」

「充分だ」


場所は聖堂から小さな談話室へと移動していた。教会で育てられている身よりの無い子供達で普段は賑やかだったが、子供たちは今日は司祭たちに連れられて街の外へと社会見学へと出掛けているため、雨音以外は聞こえない。

少年は教会の庭先で育てた葉を混ぜた温かい薬湯を差し出し、男の目の前に座った。


「あの…お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「…」


男は何も言わずにうつむいた。

聞いてはならないことだったろうか。


「名前など…ない」

「え?」

「私には名などない」


 意外なその言葉に、灯った焔のように少年の心が一瞬ぐらりと揺れた。


「…そうですか。ではずっと旅を?」

「旅…というよりかは放浪だ。私には故郷もなく、行くべき場所もない」


私には何もない、男はそう言った。


「…それならば私と同じですね」

「…」


男はやっぱり無感動に少年を見上げた。


「私はこの教会に来るまで名前も故郷も記憶もありませんでした」

「…そうか」


男は少し冷めたであろう薬湯のカップをやっと手に取った。


「…ならば私はお前にないものを持っている」

「え?」

「記憶ならばある」


ひとくち、薬湯を飲む。


「…私の家族が皆、殺される記憶」

「…」


やはり無感動に男は呟く。


「私の記憶はそれしかない。あとは同じような人生。漂うだけの」

「…」


少年には何も言う事ができなかった。

そんな記憶ならば…ほんとうは捨ててしまってないほうがいいのかもしれない。

しかし記憶の無い少年にはそれすらもほんの少しの希望に思えた。


「…こんな事を誰かに話したのは今日が初めてだが」

「そうなのですか…」

「あぁ…私は…人に対しては憎しみしか持っていない。誰かもわからない…殺人者に」


それすらも感情のこもらない瞳で言い放つ。


「ほかの人には?」

「…別に何も思わない」


ただひとりの誰かもわからない相手にだけもつ憎しみという感情。

ただひとつの感情。


「それは…必要なものでしょうか」

「私にはそれしかない」

「そうでしょうか…それがただひとつの感情だというのは…あまりにも悲しいです」

「悲しい?」


目の前の人物は、自分に対してなんの興味もなく、なんの感情も抱いていない。

それがとても悲しい、と思う。沈みゆく心が嘆いている。


「悲しいです。どうしてあなたが憎しみだけを持ち続けなければならないのですか?」

「…、れは」


声にならない声で男は呟く。

初めて見せた感情らしい顔、動揺しているようだ。


「ほんとうは憎しみなんて必要ないと私は思います。だってそれは他の感情の付随でしかない…欲望のひとつ。それなのに感情を持たないというあなたがそれだけを抱き続けるなんておかしいです」

「おかしいか?」

「変です。心ばかりを見つめ続けるからそう、なるのです。もっと色んな声を聞けば動揺し、感情だって豊かになるはずです」


男はじ、と少年を見つめた。

子供である自分にそんな事を言われ、腹を立てているのかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。


「…それでもあなたはその憎しみだけを大切にするつもりですか?」

「……お前は、人を憎んだことはないのか」

「ない、といえば嘘になるかもしれません。正直わからないです。けど…あなたはもっと、他の感情を知っても良いのでは?」

「…そうかもしれない。…本当は、私は臆病に怖がっていたのかもしれない」

「こわい?」

「これ以上憎しみが増すことに。私は憎しみを恐怖で包んでいただけかもしれない」


男は、少し笑ったような気がした。




次の日の朝はよく晴れていた。

昨日の雨のあとは水溜りに残っている。

男は昨日と同じように乾いた黒いローブを頭からかぶった。


「世話になった」

「いえ、大したこともしていませんし」


少年が少し笑って言った。


「…いや、お前は私に新しい感情をくれた」

「え?」

「私はお前の事を嫌いではないと思った」

「…興味ないと?」

「そうではない」


男は不器用に、曖昧な笑みを浮かべた。


「それは、とても嬉しく思います」


それからの男の行方はわからない。


*** *** ***

 

私の人生が変わったその出会いから十年の月日が過ぎたのかと、私は空を見上げた。

十年ほど前…この地域に来たときはずっと曇天でこの街に来たときにはひどい豪雨だった。

あの時と変わらず、時を止めたような街の風景。私の瞳に白い雲が流れた。


「…」


和む、とはこのことをいうのだろうか。

十年も前にたった一度訪れただけなのに故郷のような安心感と懐かしさがあった。

ひとしきり街の景色を堪能したあと、目的地の教会へ向かった。その教会も相変わらずそこにあって、あの日と違うのはそのドアが開け放たれていることだった。

私はここで別れた少年の顔を思いだす。

あの人も、いまも変わらずに居るのだろうか。


「…ふふ」


これは不安、なのだろうか。

前に来たときはそんな感情は知らなかった。

しかし迷っていてもどうにもならない。

私は中に足を踏み入れた。


「…美しいな」


前に来たときは雨でわからなかったが、天窓からは光があふれ出してステンドグラスが豊かに歌う。

小さな教会であるにも関わらずその様式は大聖堂にすらひけをとらないと思う。

聖壇にはあの日のように明かりが灯っている。

その前に一人の男がいた。

長い髪を一まとめにした男性。穏やかな瞳の男で、長い指で小さな本の貢をめくっていた。


「…司祭か?」


問いかける。

男は、つ、と顔を持ち上げた。


「はい」


男は笑顔を浮かべると短く答えた。

立ち上がると長身で、神父の割りにはしっかりとしている。しかし声はとても穏やかで優しい。

その面影にふと、あの日の少年を見た。


「旅のお方ですか?」

「ああ」


あの日の会話。

この男は…あの日の少年か。

あれから十年もたった。歳の頃もそれぐらいだろう。

そうとわかると、急に名前のつけられない感情が心を揺らしだす。

私は生まれ変われたろうか。私はうまく、笑えているだろうか。


「お祈りされていかれますか」

「いや…今日は」


司祭は私に気づいていないようだ。

私も外見だけはあれから随分老けた。髪も短く切ってしまった。黒いローブも脱ぎ捨てて、身なりを綺麗に整えた。


「…少し、相手をしてくれないか」

「私でよろしければ」


微笑みを崩さず司祭は言った。

私は聖堂の椅子に腰掛けて司祭はその隣に座った。やはり、あの少年に似ている。


「…名前を聞いてもいいだろうか」

「私のですか?私はクロスと申します。貴方は?」

「…レオンだ」


適当に名乗っておいた。

気づいてないのであれば、あの時のものだと名のる必要もないと思えた。

何せ昔のことだ、忘れている可能性も高い。


「こちらにはどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」

「人に会いに。ここはいい街だな」

「ええ私もそう思います。何もないところですが」

「…ずっとここに住んでいるのか?」

「ええ。実は生まれは違うところなのですけど…」


以前ここに来たとき、少年は記憶も家もなく教会に拾われたといっていた。

あれから私は少し記憶を取り戻した。

この神父はどうなのだろうか。


「…故郷には帰らないのか?」

「私には故郷がありませんから…」


悲しい瞳。

どうやら記憶は戻っていないらしい。


「では、ずっとここにいるのか…」


何を思って言ったのかは自分でもわからない。この感情はなんといえばいいのだろうか。


「おそらく、死ぬまでずっと居るでしょう」


なんだろうか。

悲しいような嬉しいような、とても曖昧な気分だ。


「何故だ?」

「それは聞かれると多少困るのですけどね。でも、そうですね…。この街で留守番…というわけではありませんが、私はいつでもここに居て去って行った方々を待っているのです」


遠くを見つめる横顔。


「…寂しくはないのか」

「もちろん寂しいです…でも」


クロス神父は笑顔でこちらをまっすぐ見た。


「こうしてたまに戻ってきてくださる方がいると、とても嬉しく思うのです」


暖かな空気が包み込む。

曖昧でなんと言って良いのかわからない感情。しかし、嫌な気分ではない。


「…気づいていたのか」

「もちろんです。しかしお名前が…」

「ああ…あれは適当に答えただけだ。忘れていい」

「では今もお名前は?」

「ない。だから忘れていい」

「…でも良いお名前だと思いますよ」


名前。

そんなことはあまり深く考えた事はなかった。なくても困ることはなかったし、呼ぶ者もいなかった。


「レオンさん」

「…変な気分だ」


たぶん、調子が崩されているせいだろう。

妙に心がざわつく。


「いい名前だと思います」

「なら、好きに呼べば良い」


呼ぶ必要がある名ならあっても悪くはない。


そうしてまた、始まりの優しい笑みがこちらを向いた。


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