18:ジョルジュ閣下と三大欲求
ウーウーウーウー
アゾリス国スポケーン国境警備基地が、にわかに緊張した。異常事態を示す、警報音が鳴り響いたのだ。
「侵入者あり、侵入者あり!」
「九時の方向に敵を十五名、目視!」
「アンゴラ国側より武装勢力到来! 数は三十強!」
あちこちで怒号が飛び交う。
敵襲だった。
書類の配達をしていたマチルダも、司令室へ走った。
「皆さんご無事ですか!」
セルゲイがすでに司令室に到着しており、部下たちからの報告を逐一確認し、敵の侵入経路を基地内地図へ書きこんで行く。
「予想外の人数です。そして同時に、多角的に攻めて来るとは驚きです。アンゴラ国は現在貧窮しているものと判断していたのですが」
「やぶれかぶれの特攻かもしれません」
補佐官と、現場を指揮する士官たちが話し込んでいるというのに、そこに司令官の姿はなかった。
「あの、閣下はどちらへ? まさか、またお風呂では」
「風呂ではない!」
くぐもった声が、即座に返ってきた。
発信源は、司令室の隅。
トイレの中だった。
ヒールを鳴らしてトイレ前に立ち、マチルダは握りこぶしで乱暴に扉を叩く。
「入っているぞ、クソッたれ」
「今クソを垂れ流しているのはどちらですか!」
思わずマチルダも、お下品な口調になる。
その間にも外からは銃撃音、魔術の炸裂音、怒号に悲鳴が行きかっている。
「アンゴラ国軍と思われる敵軍が、この基地を急襲しているのですよ!」
「言われずとも、音を聞いていれば分かる!」
「ならば早く、ここから出て下さい!」
「出たくても出られんのだッ!」
どういうことかしら、とマチルダはドアを叩くことすら忘れ、首をひねる。
呆気に取られた彼女の背中へ、セルゲイが補足を入れる。
「閣下は今、強烈な腹痛と戦われているのですよ。襲撃が起こる前から、こちらの指令室に籠もりっぱなしでした」
「……ここのトイレが、一番静かで落ち着くからな……うっ、また波がッ!」
たしかにドア越しの声は、息も絶え絶えである。
「おかげで本日、閣下が司令室に一番乗りでございました。ご立派です」
やけになっているのか、セルゲイが褒めそやす。
しかし自軍からの通信内容は、芳しくないものだった。
「第一部隊、壊滅です!」
「第五部隊、食糧庫より撤収いたします!」
「閣下! セルゲイ様! 敵の一軍が司令塔内へ侵入いたしました!」
この報告に、室内の気温が一気に冷える。
マチルダはまた、ガンゴンガンゴンと扉を叩いた。
「閣下! ここは危険です! おそらく敵の主力部隊が、司令室を狙っています!」
「クソが! それぐらい分かっている! だが今、俺はトイレの神様と戦っているのだ!」
「トイレの神様は古来より女性、と言われております。上品な言葉を選ばれた方が、よろしいかと」
穏やかさを崩さないセルゲイだったが、手には戦闘用の鎖が握られていた。
マチルダも胸元から、護身用の拳銃を取り出す。
「私どもの使命は、閣下をお守りすることです。敵がこちらへ来る前に、早くお尻を拭かれて、ズボンを履かれて、そして逃走のご準備を」
「それはできん」
秘書のささやき声に、ジョルジュはきっぱりと言い切った。
「部下たちが命がけで守っている基地だ。クソゲリラ兵どもに、易々と明け渡してなるものか! 俺はジョルジュ・ド・ラヴァル=クラン! ラヴァル家末子にして、このスポケーン基地の司令官だぞ!」
「閣下……」
トイレの扉を潤んだ瞳で見つめ、そしてマチルダは息を吐く。
「そのお言葉、トイレの外で仰っていただければ、どれほど良かったことか」
「無理を言うな。今俺は、三大欲求の一つである排泄欲と戦っているのだぞ」
「三大欲求は食欲、睡眠欲、そして性欲です!」
カッとなって大声で言った途端、マチルダは恥ずかしくなってうつむいた。
指令室の面々も、ほろ甘い表情になっている。
「……マチルダ君、意外に大胆なんだな」
扉の中からこぼれた呟きに、マチルダは蹴りで応酬した。
その時ドカン、と司令室の扉が破壊された。
こんなところで無意味に閣下のフルネーム発覚。




