垣根を越えて
ぼくが恋したのは、高校一年生の夏でした。
そして、許されぬ恋。
彼女と出逢ったのは、特別棟奥の、美術室。
たまたま訪れた時でした。
× × × × ×
蝉の鳴き声が増して来た昼下がり、学校に忘れ物をして取りに来た夏休み。
ぼくは美術室に訪れた。
「……美術の課題、まだだった……はぁ」
溜め息を吐きながら廊下を歩く。
「美術室空いてるかな?空いてなかったら……鍵、借りるのか……たるい」
体の力を抜き、落胆する。
最近バイトや宿題、しっかり者の姉から弄ばれたりとで、疲れが溜まっている。
しかも、従兄弟である妹分まで泊まりに来ていて、暇という暇がない。
「……はぁ」
本日何度目だろうか。溜め息を吐く。
「……?」
美術室から何やら声、というか歌のような響きが伝わってきた。
誰かいるのだろうか……そうだとしたら、独り言を聞かれたら恥ずかしいな。
誰もいないからこそこうやって口に出せるのだ。
「たるい」と。
『――――♪』
外からでも透き通るようによく聞こえる。
不覚にも聞き入ってしまった、中に入らなければ元より来た意味がない。
「……おじゃまします」
「~~♪~~~~♪」
完全に聴きに入っていた。
それに気付いたのは、鼻歌が止まり、真剣な顔付きになったあたりだった。
彼女のその、楽しそうな顔……それと綺麗な風貌。
ぼくはただただ見惚れていた。
「――――」
「……」
これ、どうしたらいいだろうか。
なんだか心臓が高鳴って仕方ない。
これって……もしかして、彼女に対して気持ちが昂ってしまっている?どうして?
……わからん。
彼女は今もぼくのことなど目に入っておらず、真剣な面持ちでキャンバスと向き合って絵を描いている。
「ここは思い切って声をかけてみよう」
小声で呟く。
よし、とまた呟き彼女に近付く。
「あの――」
声をかけようと肩に手を伸ばした瞬間だった。
「――ん、ん~~~~っ」
彼女がいきなり疲れた身体をほぐそうと伸びを始めたのだ。
「――っ!」
ぼくは驚き後ずさる。
顔が目の前にあったのだ。残り数センチあるかどうかの距離。
「~~ん、わあっ?!」
そして彼女はぼくの存在にやっと気付いて、それも驚いた形になった為、後ろにのけ反り倒れそうになる。
「――あ、あぶな……っ」
間一髪、背中を支えることに成功した。
「……ありがと」
「い、いえ…」
彼女に情けないような返事をし、身体を戻す。
少し照れくさくなり、鼻先を掻く仕草をする。
「君、何年生?」
「……え。…えっと、一年生です、けど」
「そっか。よろしくね」
彼女は先程の出来事など気にしてないような笑顔を浮かべ、手を差し伸べた。
「よ、よろしくします」
その手を遠慮気味にぼくは掴んだ。
――これが、ぼくと彼女、端野岬との出逢いだった
* * * * *
「私、最先端の端に、野宿の野で『はなの』と呼んで……端野って感じで書いて、名前は岬海岸の岬です」
それから数分後、椅子に座って向かい合ってから軽く自己紹介をするというよくわからない展開になった。
あと、名乗り方が独創的だ。芸術系の人って、こんな感じなのか?
わからないけどさ。
芸術に触れていると、個性的な感性できるって言うし……当たらずも遠からずってとこか。
現にどこからか机を用意して紙に書いて名前の漢字を教えてくれている。
最初は机なんて用意してどうするのかと思ったけど、なんとも奇妙なことをする人だなと思った。
「それで、君の名前は?」
「……あ、そうですね」
ぼくも同じように言おうとしたら、紙にも書いてと言われて、その通りにした。
「いい名前だね。私気に入っっちゃった」
「そんな……端野さんには敵いませんよ」
「ふふん♪そんなことないよ。君の名だって十分素敵なんだから」
なんだか機嫌が良さそうだ。
「ところで、何描いてたんですか?」
「ん?気になる?」
「はい」
さっきまで空気に曝していたキャンバスは、今は大きな布に覆われている。
ぼくは彼女の姿しか見ていなかったので、何が描かれていたのか知らない。……恥ずかしながら。
「それはね……ひみつ」
口に人差し指を当て、艶やかに囁くようにしてそう返された。
少し残念だった。
「そうですか」
「あ、でも……」
「?」
「君がモデルになってくれたら、見せてあげてもいいけどな」
「……?」
一瞬理解ができなかった。
「えっ?」
「あ。それと、脱いでね☆ミ」
……そ、それって…、
「ヌードを描く、てことですか?」
「ピンポーン。正解~」
「……え、えぇぇぇ…」
ぼくがそこまでする義理はないが、布に隠れたキャンバスに描かれた絵は見てみたい。
……、
…………、
………………。
決めた。ここは乗り掛かった府船だ。覚悟を決めよう。
「わかりました。やりましょう」
この際なんでも構わない。
人は無知をや未知を既知にしたいものだ。欲に駆られて先走ることもザラにあるし、今は今のしたいことをしよう。
「――くすっ」
「?」
「……ふふっ。了解。君の意思は受け取ったわ」
なぜか笑われた。何か別の意図があるような、そんな含み笑いを。
「なら、また明日、ここに来なさい」
「今からではないのですか?」
「別に今からでもいいけど、私、結構気分屋なの。だから明日からがいいかな」
「……はあ」
「ごめんね」
「いえ。では、これで失礼します」
「はーい。またね~」
この日はここで別れた。
翌日、ぼくはまた美術室へと来ていた。
今度は忘れ物ではなく、彼女に会いに。
「では、始めたいと思います」
「はい」
「じゃあさっそくだけど、脱いで」
「わかりました」
恥ずかしいけれど、乗り掛かった船だし、仕方ないと思い上着を脱いで上半身裸になる。
「これでいいでしょうか?」
「……まさか本当に脱ぐとはね」
あなたが脱げと言ったはずだ。
「ふふ。さすが男の子ね。肉付きが女の子とは違うわ」
そう関心しながら優しく胸元に触れてくる。
――トクン
その瞬間、強く脈打ったように感じた。
そして、そこからジワジワと熱を帯び、羞恥で赤くなってゆく。
「……あの」
「ん?」
「……早く、描きませんか?」
「あら、そうね」
わざとらしく言って、ぼくの胸板から触れた指が離れる。
それが少し残念な気もしたが、恥ずかしさの方が勝り、安心のような安堵感を得た。
「始めるわ」
そう言って彼女は鉛筆を持ち、真っ白な新しいキャンバスに線を入れてゆく。
ぼくはできるだけ姿勢を正して描きやすいようにする。
「あ、別にリラックスした状態でいいよ。無理な姿勢を取るより、自然体の方がいい感じにできるから」
ぼくの気遣いは意味を成さず、言われた通りリラックスした自然体で椅子に座った。
彼女の手元は隠れてわからないが、シャッシャッとした擦れる音は聞こえ、、ぼくを見ながら描く彼女の真剣な顔は、よく見えた。
しばらくして、
「休憩しましょうか」
「はい」
一旦休憩のことで、ぼくは疲れた体を休める為に、軽く手を上に挙げて伸びをする。
「……ん……んんーっ」
手を下げた時、脇に柔らかく温かい感触とくすぐったさが込み上げた。
「――っ!?!っぷはっ」
「隙あり~っ」
端野さんがイタズラにぼくの脇をくすぐっていた。
ぼくはくすぐったて、身をよじり、どうにか離れることができないか、抗議した。
「ちょ、やめてくださいよっ」
「やめない~っ。あははっ。ほれほれ~!」
「……ほ、本当…やめ……っ」
その時、背中に弾力のある、柔らかさを感じた。それが女性の持つ独自の発達した胸部だと知ったのは、彼女の顔が間近にあったこの瞬間だった。
「ねぇ……君」
「……なんでしょうか」
「君って、好きな人とか……いる?」
抱き着いたような格好のこのタイミングで訊かれてしまい、ぼくは戸惑った。
少しでも動いてしまえば唇と唇が触れてしまうようなそんな距離の中、恥ずかしさと焦り、甘酸っぱくもどかしい変な感情が、胸の中を満たしてゆく。
「……特にそう言うのは、いません」
「そっか。君、女の子っぽい顔立ちしてるけだ、よく見るとかっこいいから、モテると思うよ」
いらないお世話だ。そう言えたらよかったのに。
だけど、かっこいいと言われ、嬉しさと恥ずかしさが込み上げる。
ずっと心臓がドクドク鳴りっぱなしである。
これが夢の微睡みだったら、覚めた瞬間どんなに気が楽になれるだろうか。
けどこのままでいたい。そんな幻想も抱いていた。
「よし。休憩終わり!」
そう宣言した彼女はいつも通りな笑顔になっていた。
唐突だった。違うかも知れない。
が、ぼくにはそう思えた。
まだ、彼女の温もりが残っている。
彼女が離れた瞬間、冷たい風が吹いたような、そんなとても寂しい感覚がした。
あのまま彼女の温もりを実感していたかった。
そう思わずにはいられなかった。
* * * * *
それから夏休みの間はずっと美術室に入り浸っていた。
あの端野さんがイタズラにくすぐり、抱き着いた状態になった時以来、ぼくに触れると言う接触を、とうとう彼女はしなくなった。
ただ雑談や絵に集中するだけ。
それだけでもぼくにとっては楽しくて楽しくて……だけどやっぱりあの感触を知ってからは、彼女に抱き着かれた温かさを知ってからは、物足りなく、寂しさを感じた。
どうしてだろうか。
どうして自分はこんなにも彼女のことが気になって気になって仕方ないのだろうか。
男と女だから、それが自然の摂理なのだろうか……。いや、違う。彼女だから、端野さんだからこそ気になって仕方ないんだ。
そう思うようになってからは、端野岬と言う人を、異性の女の人としか、見れなくなっていた。
――それがぼくの一番の罪だった。
* * * * *
夏休み最後の日、ぼくは一大決心をしていた。
絵が完成したら、告白をしようと。
いつものように校舎の渡り廊下を伝って特別棟の奥にある美術室に来ると、彼女はまだ来ていなかった。
ぼくは彼女が来るまで窓の外を見ていた。
実際の視線はあの、最初に描いていたキャンバスと、上半身裸のぼく自身が描かれた
キャンバスのふたつに注いでいた。
見てみたい。けど、それは彼女の了解を得ないと、見てはいけない約束だった。
窓の外を見ているフリをしつつ、チラチラと横目を流して白く大きな布に覆われたキャンバスに目を向ける。
そしていてもたってもいられず、キャンバスの前に立つ。
まだ見てはいけない。
流行る心を抑え、落ち着かせる。
「見てもいいよ」
後ろから彼女の声がした。
けれど突然だったので驚いて振り向いてしまった。
「見てもいいよ」
彼女は繰り返し言った。
「完成したんだ。だから……見てもいい」
慈愛に満ちた、優しい目をしていた。
どうやら完成したらしい。
ぼくの手は震えていた。
手を伸ばし、布に手を付けたところでそれを自覚した。
怖いのだ。決意したはずなのに、フラれるのが……今さらになって今の関係が崩れるのを怖れている。
「……っ」
布に手をかけたまま、目をつむる。
額から汗が一滴流れ、首から鎖骨に移り伝い、お腹に落ちてゆく。
「……見て」
優しい声をしていた。
その声を聞いて、ぼくは布を勢いよく剥いだ。
「……」
「どう?これが君だよ」
「……」
そこには楽しそうなぼくの顔があった。
相変わらずの上半身が裸ではあったが、彼女が感じたぼくが鮮明にも写し出されていた。
「すごいです」
その一言に尽きた。
「約束だよ。私の絵も見ていいよ」
その言葉でもうひとつのキャンバスに視線を移す。
もう迷いはない。
キャンバスの前に足を止め、また布を思い切り剥ぐ。
「……綺麗」
やはり一言に尽きた。
彼女の手から映し出される世界は、美しく聡明で、気高くて尊いものだった。
ぼくの想像以上の、いや……想像を絶するほどの絶景がそこにあった。
「これね、私がここに来て最初に見て感じた風景なんだ。もうね、イメージが湧いてきてしょうがないの」
それはぼくがいつも見ていたものと違くて、それは彼女が感じた風景だった。
ただの見慣れた校舎が、こんなにも姿を変えないままに優雅な一面を魅せるなんて……思いもしない。
これでぼくの想いは固まった。
言おう。どうなるかはわからない。
だか、言わなければどうにもならない。
「――ぼ、んぐっ」
彼女を見て、口を開けて言葉を紡ごうとした時だった。
口に柔らかい感触が、ふにふにとした……忘れることができない、確かな感触がした。
ゼロ距離。彼女との顔の距離感がそれだった。
「……ん」
ぼくが離れようとすると、彼女はさらに強くぼくを抱き締め、唇を押し付ける。
気が動転して何も考えられなくなる。
目の前の気持ちの良さに、どうにかなりそうだった。
「……ん。……ぷはっ」
唇を離すと、ちゅっと小さくも甘美な音がした。唾液だと思われる糸も引き、艶やで恍惚とした表情をする彼女を見ていたら、どっと恥ずかしさが溢れ出た。
「…………っ」
頭がボーッとし、考えることができないのは変わらないが、羞恥が体全体を駆け巡っているのはわかった。
「……君のこと、好きだよ」
ぼくが、ぼく自身が言いたかったことだった。
先回りをされたのだ。
いや、それよりも彼女がぼくのことを好きだなんて、そんなことも思ったが、じゃあなんで告白をしようと思ったんだ、彼女が好いてくれていないことが前提だったなら、ぼくは告白しなかったはずだ。
思考停止していた分、熱で活性化したように考えが、彼女に対する思いと想いが溢れて止まなくなった。
「ぼくは……ん」
人差し指で口を塞がれる。
「言わないで。本当はこんなこといけないのよ。だって、」
彼女は寂しそうな目をして言った。
「だって私、先生だもの」
ぼくは驚愕して、一気に熱が上昇し倒れた。
* * * * *
始業式。美術の先生として転任して来た端野岬教諭は、二学期から正式に美術の授業を受け持つこととなった。
その日の放課後、ぼくは美術室を訪ねた。
「勘違いする君も君だけど、黙ってた私も悪かったわ」
倒れたあと、保健室で謝られた。
「ごめんなさい。さん付けされて、調子に乗ってしまったの。君は一年生だったし、私のこと先輩だと勘違いしていたみたいだから……嬉しくてついはしゃいでしまったの」
だから最初出会った時機嫌がよさそうだったのか。
「ごめんなさい。けど、後悔はしていないわ。君ととても楽しい時間が作れたし、これからは大変かも知れないけれど……できればまた、二人での時間作りたいと思うわ」
妖艶に彼女は微笑み、ぼくに軽いキスをした。
こうして彼女との不思議で奇妙な関係ができてしまったわけだが、これでぼくが満足するわけがなかった。
先生だったのは衝撃だったが、されで心変わりすることはなく、より深くが残ってを愛し、愛されたいと思った。
心の火種は業火に変わろうとしていたのだ。
生徒以上、恋人未満な関係が今だけど、これをどうにかして逆転したいと思っている。
なぜならば、告白をしたのは彼女で、返事を受け入れないのも彼女で、いいところと悪いところを横取りしたのは全部彼女で。ぼくの立場がどんどん微妙な位置取りになってゆく。
これは彼女の挑戦状なのだ。
自分にどうにかして返事をしなさいという、自分なりの表現でのアピールをしなさいという、愛情表現。
美術の先生ならではの暗黙の了解だ。
だからぼくは絶対成し遂げる。
彼女にぼくのことを、彼氏だと認めさせることを。
× × × × ×
先生が相手でも燃え上がる一方。
この気持ちが冷め、これが罪悪だと気付くのはもっとあと。
許されぬ恋をしたのは高校一年生の夏でした。
これが恋だと気付いたのは、夏休みの終わり頃。
それが罪だと思い知らされるのは、いつの日か。この頃のぼくはまだ知らない。
この恋が実ることは絶対にない。
もし実ってしまったら、罪という重石がぼくに降りかかり、罰として重く、決して逃れられない罪の意識がまとわり着くことだろう。
――恋は罪悪です
結末を知るぼくは、今日も口癖を呟く。