ツルゲーネフ「父と子」
またしてもツルゲーネフ作品である。
「罪と罰」へ向かうには回り道……と自分では思っているのだが、前回読んだ「はつ恋」の余韻が忘れられず、より自分に合った題材を、より長く味わってみたくなった。
「父と子」が書かれたロシアは、ちょうど歴史が大きくねじれ、世代ごとの価値観が分岐しつつあった時代である。
専制政治の重圧、農奴解放の広まり、そして新しい社会思想──科学主義・急進思想・社会主義など──の萌芽。教科書では読み流してしまう出来事が、実際に日常の中で起こり、古い「父」たちと新しい「子」たちの間に、避けがたい断絶を生み出していたのだ。
その歴史の転換期を、ツルゲーネフは人物の息づかいを通して描く。会話も情景も細やかな観察のもとに描かれ、どの人物も単なる「新旧」の記号に留まらない。読んでいると、この時代の空気を吸っていた生身の人間が、確かにそこにいるのだと実感させられた。
「はつ恋」は読者を選ぶ作品かもしれないが、「父と子」はむしろ、初めてのツルゲーネフに向いているのではないかと思った。当時の思想体系が扱われているとはいえ、人物たちの揺れ動きは、現代の私たちにも通じるからだ。また、後に述べる「ニヒリズム」との向き合い方は、冷笑的な価値観が広がる今日にこそ、一石を投じてくれるかもしれない。
ちなみに、Kindle版では難語が青字で辞書に飛べるため、ロシア文学の読みにくさがだいぶ軽減される。電子書籍であるため目は疲れるが、紙と電子、一長一短であろう。
というわけで、以下は「父と子」の内容についてのエッセイである。(この導入を踏まえると、主題からは一歩外れた内容に思えるかもしれない。だが、バザーロフという人物について語りたかったのである。)
「ニヒリズム」。
語を知っているか、語の内容と一致しているかに関わらず、私たちは人生に一度くらい、この思想の欠片を抱いてしまうのではないだろうか。
ここで言うニヒリズムとは、ただ「何もかも無意味だ」と思うことではない。既存の価値や権威をすべて否定する思想や態度であり、怠惰ゆえのものではないのだ。
ツルゲーネフ作「父と子」の主人公バザーロフは、この語を単に知識として掲げるだけでなく、実践のレベルにまで徹底しようとする。彼はあらゆる権威を笑い、感情に溺れることを戒め、理性と実証を唯一の拠り所とする。
こう書くと、なんだか機械のようで、冷たい人物に思える。小説投稿サイトにいる人間としては、実利的な文学というものには抵抗を覚えてしまうだろう。では、全編を読んでバザーロフが嫌いになったか、と聞かれると「ノー」である。
むしろ、バザーロフこそが最も魅力的で、作品のカギを握る男なのだ。
彼の魅力は、単純な「虚無」では語れない。彼は世界の価値を否定しながら、その否定の姿勢ゆえに、誰よりも世界に対して誠実であろうとあがいているように見える。無意味だと言いながらも、彼は医者として人を救おうとし、科学に希望を託し、そして何より、自分の信念を裏切らずに生きようとする。
そんな姿勢が現れた場面として、彼が未亡人アンナ・セルゲーエヴナへ、恋心を打ち明けるシーンがある。
もっとも、彼女からの誘導によって打ち明けざるを得なかったのだが……その際の彼の反応には、印象深いものがあった。
我々が他人への愛をひけらかすとき、主に、相手への羞恥心しかり、それが受け止められない可能性への不安を抱くだろう。
しかし、バザーロフは違った。彼の表情は、自らの思想に反する概念に惑わされる……そんな自分への怒りに満たされるのである。
この怒りこそが、バザーロフという人物の核心を照らし出している。彼は、恋愛感情という「無意味」に圧倒されてしまった自分を許せなかったのだろう。虚無主義者としての立場を貫こうとするなら、愛などという曖昧で測定不能な情動に屈してはならない。しかし、実際には屈してしまう。そこに彼自身が最も動揺し、最も傷つくのである。
このとき、バザーロフは単に恋に落ちたのではない。彼は同時に、「ニヒリズム」の限界にも直面したのだと思う。理性と科学だけで、世界を説明し尽くせると信じたかったのだ。
しかし、愛という現象は、彼が積み上げてきた論理の構造に入り込んでしまい、どうしても排除できない。そうした「例外」の存在が、彼の心を深く乱す。彼はアンナを求めながら、その感情を否認し、圧殺しようともがく。だが、そのもがきこそが、かえって彼の人間的な魅力を際立たせている。
こうしてみると、バザーロフのニヒリズムは、単なる破壊の思想ではない。むしろ、彼は「真実だけを見つめよう」とするあまり、既成の価値や伝統を信じまいとしたのだ。そして、真実である以上、感情であれ苦悩であれ、そこに現れた現実から目を背けることができない。
だからこそ、アンナへの恋を前にして彼が苦しむ姿は、ニヒリストというよりも、一人の等身大の若者が、理想と現実の狭間で引き裂かれる姿に見えるのだ。
一方で、作中の多くの登場人物は、彼に多かれ少なかれ「恐ろしさ」を感じている。おそらく、ニヒリズムのせいではないだろうか。それは、従来の自分の思想・観点を無に帰す姿勢であり、その視線を向けられることで、自身の価値観が揺らぐことへの恐怖があったのだと思う。
初めはバザーロフの姿勢に惹かれていた、もう一人の主人公アルカージイ。彼にも実は、旧来の貴族的な価値観が染み付いてしまっていることが判明する。
また、バザーロフの思想に感銘を受けた者たちも、真に彼の求める「ニヒリズム」を貫いていたわけではない。
作中、真摯にニヒリズムと向き合っていたのは、バザーロフただ一人のように思えた。
その「ただ一人で向き合っている」ことこそが、彼をさらに孤独へと追い込んでいく。彼のニヒリズムは、最初から誰かと共有されることを予定していない。むしろ、人と人をつなぐあらゆる価値──友情、敬意、愛──を「虚構」とみなして解体してしまうため、他者との幸福な関係を築くことそのものが困難になる。
その意味で、バザーロフが孤立していくのは、当然の帰結といえる。
しかし、孤立の深まりは同時に、彼の存在を照らし出してもいる。思想に忠実であろうとすればするほど、彼はあらゆる思想に対し、審判の場に立たされる。そして、誰よりも強く、他者と接触しなければならなくなるのだ。
皮肉なことに、バザーロフは他者を否定すればするほど、他者によって揺さぶられ、影響され、人間的な痛みを受け取ってしまう。
ニヒリストであり続けるというのは、決して冷たい人間になることではなく、むしろ世界に対して敏感でなければ不可能なのだろう。
だからこそ、彼の最期の場面は胸を締めつける。死を手前にしているにも関わらず、自身の主義に基づき、冷静に世界を捉えようとする。それでいて、自身が愛してしまった人と「会いたい」なんて感情を洩らしてしまう。
そこには、ニヒリズムの完全敗北でも、感情への全面降伏でもない、複雑で多層的な「人間」としての姿がある。
彼は最後まで、自分の価値基準で世界を計り続けようとした。その結果が悲劇であれ、そこには確かに「真剣に生きた人間」が残った。
そんなわけで、バザーロフは「否定する人」である前に、「誠実な人」だったと感じてしまった。おそらく、彼がこれを聞いたら「くだらない感傷だ」と一笑に付すだろう。
何はともあれ、私たちが人生のどこかで「ニヒリズムの欠片」を抱くのだとすれば、バザーロフの姿は、その欠片をどう扱うべきかの鏡となる。
虚無に陥ったときこそ、自分の感情や弱さを誤魔化すのではなく、そのまま引き受けて前に進もうとする姿勢。それこそが、彼が最期に示した、静かで力強い答えなのだと思う。
……「父と子」の事前情報として、ニヒリズムが題材となっていることは知っていた。しかし、結局のところ、「父と子」はニヒリズムを礼賛する物語でも、完全否定する物語でもなかった。
ただ一人の若者が、世界を疑い、世界に傷つきながら、それでも世界と向き合おうとした、その誠実な軌跡を描いた物語なのである。
ツルゲーネフのように、不完全でありながらも魅力的な人物、描けるようになりたいですね。
次は、ドストエフスキー「地下室の手記」の予定です。




