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ツルゲーネフ「はつ恋」

 前回に引き続き、驚きから始めさせていただこう。


 ……内容が想像より暗くなかった。

 ロシア文学には「暗さ」がつきものだと、私は思い込んでいた。それは内容というよりも、文章全体のトーンについてである。


 それは「罪と罰」の紹介文で得た先入観だろうか、あるいはロシアという雪深い土地が、勝手に重苦しい表現を連想させていたのかもしれない。いずれにせよ、前回読んだ「イワン・イリッチの死」は、想像通りの暗いものだった。


 だから私は、ツルゲーネフ作「はつ恋」に対しても、それなりの覚悟でページをめくったのである。


 しかし、拍子抜けであった。

 そこにあったのは、一人の青年の苦い恋物語。大げさに言って「それだけ」であった。


 もちろん主人公にとっては大事件だったろう。しかし読者としての私は、肩透かしを食らった気分だった。陰鬱などころか、むしろあまりに個人的で、あまりに刹那的な出来事にすぎない。友人が、少し照れながら昔の恋を語っている――そんな気安さすら感じた。共感しながらうなずける箇所も、いくつもあった。


 だが思い返せば「イワン・イリッチの死」も、誰にでも訪れうる死の一つであった。別にロシア文学は、特別な憂鬱や絶望を描き出すものではないらしい。


 この気づきを得られたという点で、「はつ恋」は既存のロシア文学へのイメージを破壊してくれた。もちろん、主人公たちの機微の表現には、繊細かつ心揺さぶられるものがある。決して展開がほのぼのしているという訳ではない。だが、重厚とは必ずしも暗さを意味しないことを、この小説は教えてくれる。


 エッセイを通じて、徐々に読みづら……読みごたえのある物語へステップアップする――そんな想定をしていたが、ご破算である。内容は人を選ぶかもしれないが、初めてのロシア文学作品としておすすめしたい。


 そんなわけで、以下は内容に関するエッセイである。

 ……正直、何を書けば良いか迷っている。


 この小説は、前書きでも触れたように「友人の恋愛事情を聞いたとき」のような読後感であった。前回の「イワン・イリッチの死」では、私にとっても(もちろん皆さんにとっても)共通する「死」についてを論ずることができた。しかし「恋」というものは、そう簡単に共通認識として扱えるものではない。


 恋は、死と違って多種多様なのである。言わずもがな分かるだろう。作中冒頭でも、四十代のおじさんたちが「初恋」談義をしているが、彼らの初恋の相手、その後の顛末等々も、てんでバラバラである。その中で、特に複雑な心情を抱えているように見えるのが主人公だった。


 もちろん、友人の恋愛事情を聞くのは面白い。では、現実ではない主人公の恋愛に、私たちは全く興味を持てないのだろうか? 答えは否に決まっている。もしそうであれば、私は途中でKindleを閉じ、「つまらなかったです」の九文字で感想文を終えていたに違いない。


 この小説の面白さは、派手な事件や劇的な展開にあるのではない(確かに衝撃的な場面もあったが)。きっと、日常の中で揺れる恋心や、思春期特有の微妙な心理を描くところにあるのだろう。主人公たちの会話や回想を通して、喜びや切なさ、迷いや戸惑いが自然に伝わってくる。それはまるで、友人の淡い恋の話に耳を傾けながら、思わず笑ったり、少し胸が痛んだりする感覚に似ている。


 中でも、自分とは異なる経験の中に、かつて自分が抱いたことのある感情を見つけ出す瞬間――そのわずかな共鳴が、ページを先へめくる推進力を生み出しているのだと気づかされた。自分だけのものと思っていた感情が、他者と共有できることが分かるのだ。これこそが読書体験、いや、コミュニケーションの本懐かもしれない。


 ……と、ここまで長々しく語ってきたが。


 この小説を受けて、正直、真面目に話す気は起きないでいる。

 映画に例えるなら、アクション映画なのだ。今の頭に浮かんでいるのは、こねくり回された理屈でなく、不定形のエネルギー体なのである。


 だから私は、主人公の心情に対して「わかる〜」と考えなしに共感していた。この時間が、本を読んでいる最中の九割だった。以下に続く文は、その勢いのまま、たらたらと感情を並べたものだ。


 読後に感想を調べていると、「なぜあんなヒロインに惹かれるのか分からない」という意見を見かけた。しかし私は、その視点自体がすでに達観していると思った。年上のヒロインに「支配される側」の感覚が理解できていないのだ。


 ヴラジーミルは十六歳の少年である。目の前に可憐なジナイーダがいる時点で、惹かれない理由などどこにあるだろうか? それに彼女は、周囲の男たちを惚れさせ、弄ぶこと自体に快楽を見出している。そんな場に巻き込まれた少年が、冷静に「この構造から脱する」などと考えられるはずがない。


 作中でも語られるように、報われようが破滅しようが、衝動のまま走り出してしまう――それが青春であり、恋の本質であろう。


 こういった青春というものは、ほぼ全員にあると思っている。SNSで「男子校陰キャの俺に青春なんてなかった」という嘆きを見かけたが、男子校には男子校の、陰キャには陰キャの青春があったはずだ。それを嘆いてしまうのは、望んでいた青春の形と異なっていたからではなかろうか。だとしても、あの頃の無敵感、それでいてすぐに崩れそうな心の均衡が、青春以外の何だったと言うのか。(もちろん例外はある。あくまで導入としての戯れ言である)


 本作の主人公ウラジミールは、そんな青春の儚さや弱さを、遺憾なく我々に見せてくれる。特に共感してしまったのは、ありふれた哀愁や絶望が、あの時期では自身を演出する材料の一つとなってしまうことである。つまり、哀愁や絶望を感じると、もちろん悲しみが湧いてくるとともに、どこか嬉しさの芽が生えてくるのだ。そんな自分の中の自己憐憫に気付くと、それに対して嫌気がさす。また絶望が湧いてくる。この負のサイクルが、見事に描き出されていた。


 あるいは、青春特有の視点の狭さである。ジナイーダに誰か好きな人ができたと察したとき、彼は知っている男たちの中からその候補者を探してしまう。また、彼女に声をかけられただけで、世界が一瞬で色づいてしまう。そんな反応の単純さと過剰さも、まさに思春期そのものだった。


 そういうわけで、ツルゲーネフの描写力には圧倒されてしまった。


 そして、物語の終盤。

 ジナイーダが父に鞭を打たれる音――あの瞬間、胸がひどく締め付けられるような思いをした。フィクション世界を挟んだ私ですらそうなのだ、ヴラジーミルはどれほどの衝撃を受けただろう。


 それまでのジナイーダは、奔放で気まぐれで、男たちを弄ぶ妖精のようにすら見えた。だが、あの音が響いた瞬間、彼女は突如として姿を変える。いや、彼女の一面を新しく知っただけなのである。彼女の笑顔は天性のものではなく、あの家庭で生きるために身につけた、かすかな鎧だったのではないか――そんな疑念を抱けたのは、終盤中の終盤になってからだった。私も、ヴラジーミルも、全く気付いていなかった。


 青春も、恋も、人を盲目にする。だったら初恋なんて尚更だ。ヴラジーミルが夢中になって見つめていた彼女は、あくまで彼自身が見たいと願った姿だったらしい。ジナイーダという人物の全てではなかったのだ。


 そう聞くと、私自身、少し耳が痛くなってしまう。ジナイーダも、父も、そして自分自身に対してでさえも、ヴラジーミルは「見たいもの」を見ていた。だが、それは仕方ないことなのだ。「見たいもの」なしで憧れを抱くことなど、誰にも出来やしないだろう。


 小説冒頭の描写を見るに、過去の思い出はヴラジーミルが「手帳へメモしたもの」という形式らしい。序盤を読んでいた私は、「四十代にもなって、よくここまで鮮明に」と、少し引き気味に感心したものである。だが、読後になって、その感想は改めることとなった。


 こんな初恋、私だったら老人ホームに入っても思い出してしまう。

 いや、思い出してしまうどころか、きっと、ふとした拍子に再生されてしまうだろう。何十年たっても色褪せない記憶というものがあるとすれば、それは成功した恋より、こんなふうに不格好で、痛々しくて、妙に眩しい恋なのかもしれない。

 結末が性癖に刺さる方もいるかもしれません。私の場合は脳が破壊されてしまいました。


 次は、ツルゲーネフ「父と子」の予定です。

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