トルストイ「イワン・イリッチの死」
……驚くほど読みやすかった。
ロシア文学のイメージは、序盤で断念した「罪と罰」であった。次々と湧いてくる固有名詞の数々、唐突に説明されるキャラクター設定、哲学めいた謎々問答たち。
某小説投稿サイトの創作論者が聞いたら、嘲笑を超えて無表情になりそうな要素の数々である。
しかし、トルストイ作「イワン・イリッチの死」では、そうした要素はない……いや、序盤に少し兆候は見えたが、そこを乗り越えればスラスラと読めた。トルストイの文体の影響もあるだろうが、翻訳の米川氏の手腕あってこそかもしれない。
AIに勧められるまま、恐々と選んだ一冊目であったが、大正解だったようだ。
そんなわけで、以下は内容に関するエッセイである。
(今後の話でも、前書きで「読み終えての雑記」、本文で「内容への感想」を示していく。前書きではネタバレはしないが、本文はネタバレ注意である。)
「死」は私たちにとって身近な概念である。
映画やマンガの登場人物たちは、あまりに簡単に命を落とす。私自身、物語の結末として登場人物に「死」を与えてきた。だがこれらは、いずれもフィクション世界でのことだ。作者の脳内で、花を添えられ、フィルターをかけられ、綺麗に包装された代物なのだ。
では、現実の死は? 高齢化が進む現代社会において、誰かの最期に立ち会ったことのある方も、決して少なくないはずだ。私もとあるきっかけで、終末期医療の現場に幾度か足を運んだ。……彼はおおよそ助からない。その事実を理解していようが、私は必ずこのセリフを残していた。
「またね」。
今思えば、あまりに無責任な言葉であったかもしれない。その可能性の影は、病室を出た瞬間からすでに自覚していた気がする。それでも私は、「少しでも生きる希望になれば」なんて理由を探し出して、取り返しのつかない言動に正当性を付けていた。だが、もしかしたらその言葉は、一種の自己防衛だったのではないか。来たる衰えを否定し、避けられない死から目を背け、私自身に希望を与えていたのでは?
一体、彼はどう感じただろう。人は表向き、他者を傷つけぬよう振る舞う。しかし、善人の腹の底を疑ってしまうとき、胸の内に嫌な想像が広がる。私の無責任さは、彼を苛立たせ、憎悪を生み、苦しみへの一助となっていなかっただろうか。
そして、私が死ぬときはどう感じるだろうか。マンガではナレーションで済む死だが、ここは現実だ。安らかで、他者を憎まず、過去を誇りながら迎えられる死など、本当に有り得るのか?
トルストイ作「イワン・イリッチの死」を読み終えた後、率直に感じた問いである。
物語は、地位を得た官吏「イワン・イリッチ」の葬式から始まりを告げる。彼の友人、家族、使用人……その大半が、彼の死に対して一種の距離を置いている。もちろん、形式的な悲しみや、社会的に求められる態度は示す。だが、その裏には「彼の死が自分にとって何を意味するか」という打算が透けている。
ここで私は、ある言葉が頭に浮かんだ。「葬式とは、生者のための儀式である」。よく聞く言葉だが、イワン・イリッチの葬式にはピッタリの表現だろう。彼らは悲しむべきなのに、どこか忙しない。むしろ「ようやく面倒が片付いた」とでも言いたげな空気すらある。
現実の私たちも似たようなものかもしれない。葬儀の最中、頭に浮かぶのは故人の思い出だけではない。式の段取り、予定の組み替え、親戚との距離感……。死者に向き合っていながらも、生者たちの事情が浮かんでいるだろう。
そうして、物語は彼が死にゆくまでの日々を描く。わずかな身体の違和感から病が判明し、治療を受けても症状は悪化の一途をたどる。痛みは増し、医者の言葉は空虚に響き、家族の態度には形式的な思いやりしか感じられない。イワン・イリッチは、周囲との距離が広がっていくのを自覚しながら、自らの人生の意味を疑い始める。
出世と体裁を支えに築いてきた人生は、本当に正しかったのか。そんな答えのない問いが彼を苛み、孤独だけが深まってゆく。やがて、世界はほとんど彼に背を向けたように感じられる。
そんな作中で、とりわけ印象に残った場面がある。
物語の終盤、イワン・イリッチの息子が彼の手に接吻し、涙を流すシーンだ。中学生である彼は、「イワン・イリッチが死にゆく」という現実を正面から捉えている、数少ない一人だった。
私たちは彼のように、死にゆく個人に対し、真正面から感傷を向けられるはずだ。だが、イワン・イリッチの妻や友人たちは違った。彼女たちは、死がまだ避けられるかのように振る舞い、絶望的な状況にハリボテの希望を持ち込もうとする。心では彼の死を理解しているにもかかわらず、あえて目をそらし続ける。そして葬儀の場になると、一転して閉じ込めていた本音を解放し、己の生活の整理へと向かう。
この歪な行動原理の根にあるのは、おそらく「社会性」なのだろう。それは人間の基本的な習性であり、社会構造・社会倫理から離れて生きられる者はいない。その過程で、個人そのものに向き合う重要性が、抜け落ちてしまう瞬間があるのではないか。「彼が死んだからあのポストが空く」、「彼女が死んだから葬儀の準備をし、書類をまとめなくては」――そうした認識は人生において必要なものだ。しかし、構造的な変化にばかり目を向けるうちに、取りこぼしてしまう何かがあるのではないだろうか。
……私とて同じである。これまでの感想は、イワン・イリッチの死とは関連のない、「死を見送る側」の視点でしか考えていない。「死を迎える側」の視点には、まだ一歩も足を踏み入れていなかったのだ。
では、イワン・イリッチ本人はどうだったのか。
彼は死の恐怖に苛まれ、怒り、拒絶し、もがき続ける。自分の一生を「正しかった」と言い張りながら、心の底では虚しさを悟っている。その姿は、生者たちの不誠実さとは比べものにならぬほど、残酷で、赤裸々で、逃げ道がない。
だからこそ、物語の最後に訪れるあの一瞬には、形容しがたい感覚を覚えた。トルストイは「光」という比喩を用いたが、それが何を意味するのかは、我々の解釈次第だろう。
あれは「悟り」なのか、それとも「逃避」なのか。答えを出せずにいるのは当然かもしれない。私はまだ、その地点に足を踏み入れたことがないからだ。死を「自分の終わり」として実感したことがないからだ。
読みながら、私は彼の苦悩に寄り添ったつもりになっていた。だがそれは単なる想像、単なる同情でしかない。イワン・イリッチが最後に触れた光に、私はまだ触れたことがない。本当に光があるのか、それは当時のトルストイですら知り得ないだろう。
救いなのは、そうした生の最後に、彼が一つの結論を出せたことである。社会的な成功・高額な報酬を求め、外見的な綺麗さを追求してきた彼であるが、死を前にして、思考は自分の内へと向く。彼が最後にたどり着いたのは、社会的役割としての「イワン・イリッチ」ではなく、人としての「イワン・イリッチ」だった。あの光が「死の受容」であるならば、それは彼にとって、やがて死を迎える人類にとっても、希望のように感じる。
またしても、願望めいた希望である。だが、死を実感できない私たちに残されているのは、結局のところ「願うこと」だけなのだと思う。死を理解できないゆえに、かつての生者たちへ想像を巡らせようとする。その行為こそが、私たちができる精一杯の向き合い方なのかもしれない。
締めを台無しにするが、その願いすらも自己防衛の一形態なのだろうか。人にとって、死への忌避感はそれほど大きい。だからこそ、等身大の死を描き出すトルストイの筆さばきには、感嘆することしか出来なかった。
次は、ツルゲーネフ「はつ恋」の予定です。




