エマの消息
そこは、王都の平民街でも奥まっていて、治安の宜しくない所にある、見落としてしまうような、無造作に表札が掛けてあるだけの小さな店だった。
ギギギギーと言う、建付けの悪い音のするドアを押して中へと入っていく。
店内は、カウンター席とパーテーションで区切られたテーブル席が1つあるだけの狭い空間だった。
もう夜も更け、ここに来るまでの道々にある他の店はけっこうな賑わいを見せていたのに、この店はその喧騒が嘘のようにひっそりとしていた。
常連客なのだろうか、カウンターの一番奥、入口が見える位置に座ってロックグラスから酒をチビチビと舐めている男と目があった。
「マダムは?」
そう声をかけてカウンターの席に勝手に座る。
「さあ、野暮用とかで少し前に出ていったが」
カウンターの男が視線も向けずにそう答えた。
BGMも無い店内に、沈黙が広がる。
「そうか、約束をしていたんだが」
男をしっかり目に捕らえて答えながら、ジャケットの内ポケットるから手紙を取り出してピラっと広げて見せると、男は始めて顔を上げてその紙を見た。
そして、男は壁をトトトトトンと軽快に叩いた。
すると男の横の木の壁がスッと開いて、そこから小柄な女が出てきたのだった。
「あら、宰相閣下いらっしゃいませ」
女はカウンターの中へと入り、目の前に立ってニコリと人好きするような笑顔を向けた。
「あらじゃないだろう、そっちが今日この時間にやって来いと言ってきたのだろう?」
ジトっと半目で見つめながら言うと、
「ふふ、最近ちょっと物騒でね、用心しているのよ」
言葉とはチグハグな呑気な口調で返事をしつつ、注文も取って無いのに、ロックグラスに透明な酒をトクトクと注いで目の前に差し出してきた。
「栗の蒸留酒か、良く手に入れたな。国内では品薄だろう、特に王都じゃ」
その酒は、ここ十年ほどの間に有名になったキャンベル領の特産品の栗の蒸留酒で、主に東の辺境侯爵家門の男爵家が、そこの領地の商会から海外の国々へと販売していく戦略らしく、王国内での取り扱いは極めて限定的で、逆にそれがプレミアム感を出しているようで、投機的に値段が釣り上がり、幻の酒などと呼ばれているのだが。
「ふふ、あたしのパトロンが強いルートを持ってるのよ、って知ってるくせに白々しい。はいこれ、お・つ・ま・み」
そう言うと、ピスタチオの入った小さな籠を差し出して奥へと下がって行った。
籠の中のピスタチオを避けて敷き紙を回収すると、ポケットに入れてあった金貨をゴソリと取り出して、カウンターに置いた。
「また来る」
そう言って立ち上がり、背を向けてドアに向かおうとして、思い返したようにグラスを手に取って、グッと一気に煽った。
意地ましいとは思うが、初めて口にした幻の酒だ、残す訳にはいかない。
鼻腔から仄かに薫る栗の匂いと喉から胃の噴門までがカッと熱くなる強い酒精に、なるほど美酒なりと目尻が下がってしまう。
「旨かった、また宜しく」
そう言い捨て、今度は本当に店をソッと出るのであった。
「あんまり、宜しくはしたくないのよね~」
そう奥の部屋の覗き窓をソッと開けて帰っていく客を見送りながら呟いたのは、この店の店主エマであった。
エマは、かつてはエマ・パール男爵令嬢と呼ばれていた貴族令嬢。
今、その男爵家は取り潰しされた為、いや、取り潰しの前に父男爵によって貴族籍から離籍されたので平民となった。平民となったと言うか、エマは元々平民だった。
貴族だったのは、父男爵が住んでいた娼館に来た時に、贔屓にしていた売れっ子娼婦の母に
「お前の娘はもうすぐ成人だな、俺に譲れ」
そう言うと、娼館のオーナーに話を通して母を身請けして、母のおまけの娘のエマ共々男爵が借り上げていた平民街の邸に連れていかれ、その後エマだけ更に男爵家に連れ去られ、貴族学院に強制的に入学させられて、色々合って退学されるまでの、ほんの半年だけだったのだが。
パール男爵の妾腹の娘と言う触れ込みだったが、実際エマがパール男爵の子である確証ははっきりしない。
所詮娼婦の娘なのだから、父親っぽい人は何人もいて、母は綺麗な顔に柔和な笑顔を向けながら、
「貴方の娘よ、貴方に良く似ているわ~」
と、上客にはみんなに同じように言っていたのだから。
別に認知を求めている訳では無かったようで、母なりの娼婦ジョークだったのだろう、に。
それが15年も経ってから利用されるなんて思っても無かったと、馴染んだ娼館を出る時に言っていた。
父男爵は、隣国で娼婦の後妻を国王の公妾にした子爵が好き勝手していることを聞き及み、同じことをしようと目論んだのだろう。
そんな浅はかな思惑は、他の貴族には筒抜けだったろうに、謎の自信でエマに第1王子ウィリアムか高位貴族の息子を籠絡せよ、そんな指示を出したのだった。
言外に母の身を人質に取っていることを匂わせて、エマを駒として使う男爵に、エマはきっと身を持ち崩すだろうになと思いつつ、従わざるを得なかった。
エマは母が客にしていた手練手管(肉体関係以外)を思い出しつつ駆使して辿りに辿って、なんとか高位貴族の騎士団長の息子を落とすことに成功し、そこから第1王子の元まで辿り着けた。
この日、報告した男爵に初めて誉められたのだが、全然嬉しくは無かった。
だが、エマですらそんなに上手く行くはずないよな~と思っていたように、稚拙な計画はあの昼の食堂での騎士団長の息子ブライアンの婚約破棄宣言で突如破綻した、突如じゃないな、とうとうだな、とうとう破綻したのだった。
メアリー公爵令嬢に首根っこ引っ掴まれて、職員室に連行された時、
(あ~これで一貫の終わり、国家転覆罪とかで処刑されちゃうかな~お母さんだけでも助けて貰えないかな~)
そんなことを、変に冷静に考えていたのを今でも思い出す。
私にとって男爵なんて何とも思って無いから、取り調べには男爵からの命令含めて思惑をペラペラ話し、出来れば平民街の別邸で人質にされている母を助けて欲しいと懇願した。
学院長は私の話しに目を回してあまり役には立ってくれなそうと思ったけれど、澄ました貴族令嬢然として余りに自然にその場に同席していたメアリー様が、
「そうね、勿論よ。彼女の身柄は私が預かります」
と、宣言し、ブライアンとウィリアム王子は学院長に押し付けて、私は公爵邸に連れ去られ、とんでもなく豪華な客間でお茶を頂いている間に、気付けば母が無事助けだされた。
その後は、メアリー様だけでなく公爵様から聞き取りを母共々受け、結論から言うと、貴族令嬢エマ・パールは貴族学院退学、貴族籍離脱の上平民の身へと落とされると言う罰が与えられた。
だけど、別に元々成りたくて成った身分じゃないし、貴族令嬢って言う柄じゃない。
貴族令嬢って言うのは、メアリー様とかあのブライアンの婚約者のアマリア様とか、ああ言う凛としていて、冷たい氷のような緊張感のある仕草の一つ一つ全てが美しい女性のことだと思うしね。
そう言えば、ウィリアム王子の婚約者の公爵令嬢は、まあ見た目は綺麗なんだけれど、隣のアマリア様と比べるとなんとなく違うんだよね、まあ私と比べたら天と地ほどの差があるんだけどね。
寧ろ、脅されて言うことを聞かされていた奴隷のような身の上から解放されて、本当に安堵した。
メアリー様から貴族間にエマブライアン騒動の波紋が広がり不穏な空気が漂っていたようで、私の身の危険もあるから、場末の娼館へと売られて娼婦にされたと言う噂を流したと聞かされたけれど、それだって元々あのまま娼館に居たら、成人した日に客を取ることは暗黙の了解で、娼婦の子は娼婦、それは私の世界では当たり前のことだったから、
「別に構いませんよ。実際に、この後母と二人で暮らすのに私たちに出来る仕事ってそれしか無いと思ってますし」
そう答えた。
それを聞いた時のメアリー様は普段は全く動かない表情筋が歪んで、眉間に深い皺が浮かんだのは驚いた。
「そう、そうよね。そんなことも思い付かないなんて、失態だわ。貴女やお母様だけじゃない、そんな状況を放置し続けているわたくしが、この国が悪いわね。それが今回の問題の本質なのね」
そう強く言葉を呟いたメアリー様は、普段はいつもキチンと顔を上げているのに、この時は目線を下げていたのが印象的だった。
滅多に見ることの無い、憂いを含んだ姿は忘れられない、内緒だけどね。
「エマ、貴女エマを捨てられる?お母様と一緒に暮らす為に、わたくしにその身を預けることが出来るのかしら?」
メアリー様がそう言って、それから色々あって、私はナナとなったのだ。




