境界の咎人〈前〉
関東第一刑務所、所長室。その部屋に入ってきた溯春を見て、彼を出迎えた烏丸は「あら」と首を傾げた。
「何かあった?」
じっと、溯春を見つめる。溯春は無表情のままその視線を受けて、「なんでですか」と淡々と返した。
「だってなんだか、憑き物が落ちたような顔してるから」
「変わってないと思いますけどね」
適当に答え、溯春がソファを見る。烏丸はそこに座るよう手で促したが、溯春は「まだ予定があるんで」と首を振って断った。
「長居は必要ないでしょう? 話したいことがあるとか」
「ええ、そうね」
溯春に合わせるように烏丸もまたソファには座らず、背もたれに手をかける。少しだけ目線を下げた烏丸はゆっくりと顔を上げると、「今日来てもらったのはね、」と口を開いた。
「実は……禮木くんが亡くなったの」
溯春の目が、僅かに見開く。しかしすぐに元の表情に戻ると、「……死因は?」と落ち着いた声で尋ねた。
「一応、急性心不全ってことで片付けられたわ。囚人のバイタルは監視されているから発見は早かったんだけど、彼、直前に相当興奮してたみたいで……独房が血の海だったらしいの。頭も酷く打ち付けてあって……処置が間に合わなかったみたい」
烏丸が声を落とす。「いろんな要因が重なった結果なのよ」静かに付け加えて、溯春の反応を窺う。
「そうですか」
「もっと動揺してもいいのよ? 少し感情が揺れるくらいだったらゴースト化に影響はないって分かってるんだから。無理に感情を押し殺し続ける必要はないわ」
「動揺する必要もないんで」
「でも……あなたは、あの事故の後も彼を恨まなかったじゃない」
烏丸の眉がハの字を描く。しかし溯春は全く表情を変えず、「あれ全部が奴の意図したことじゃないですから」と答えた。
「……あなたは人じゃなくなったのに?」
その問いに溯春は答えなかった。だが、微かに口角が上がる。それは穏やかに微笑んでいるとしか表現できない表情で、烏丸は驚いたように目を丸くした。
「やっぱり何かあったのね。彼らへの敵意がなくなるくらいには」
「別になくなっちゃいませんよ」
「でも別人みたいだわ。息を吹き返した時のあなたはまるで獣のようだったのに」
「そりゃ突然あんなことになれば誰だって混乱するでしょう」
「私あの時、結構怖かったのよ」
そう言った烏丸の顔は困ったような表情をしていたが、声色には冗談めかした響きがあった。その雰囲気のまま自分の両肩を腕で抱いて、「何が起こったのか、訳が分からなかったわ」と話し出した。
「死亡を確認したはずのあなたが急に動き出して、かと思えば正気を失うくらいに怒ってて……しかも鎮静剤だって全然効かない。『ああ、私ここで死ぬのかな』って本気で覚悟しちゃった」
「……それは申し訳ないとは思ってます。その後のことも」
ばつが悪そうに溯春が目を逸らす。「本当に?」不満げな烏丸の声に溯春が視線を戻せば、烏丸は真剣な顔で溯春を見つめた。
「だったらちゃんと話して。どさくさに紛れたとは言え、あなたのことを隠蔽するのはそれなりに大変だったんだから」
長い睫毛に縁取られた烏丸の目が溯春を見上げる。思い悩むようなその表情は、どこか艶めかしい。
僅かに熱のこもったその目を溯春は見返すと、「話すほどのことでもないんですよ」と言って、ゆっくりと瞬きをした。
「ただ……前ほど必死になる必要はないと思っただけです」
静かに呼吸して、もう一度瞬きをする。そして部屋の時計に目をやると、「用事がそれだけなら行きますよ」と言って身を翻した。
「ああ、予定があるんだったわね。わざわざ来てもらってごめんなさい。禮木くんほどの有名人の死となると、対面じゃないと教えられないから」
「分かってます」
溯春は軽く頷くと、所長室を後にした。




