不可侵への侵食
ビルを出た東雲はニオイを追って走っていた。息は切れていないのに、その表情は険しい。
それは身体中の痛みのせいか、それとも直前に目にしたもののせいか。
考えることを避けるかのように、東雲は一心不乱に足を動かし続けた。
いくらビルから出る時間がかかったといえど、東雲の身体能力は人間を遥かに超える。重症を負っていようと関係ない。身体の機能さえ無事ならば、追跡官は痛みを押して動けるように訓練されている。
だから、東雲がニオイの元に追いつくまでそう時間はかからなかった。
――はずだった。
「……なんで」
目の前の光景に東雲が言葉を失う。そこは大通りを逸れた小道。背の高いビル群を抜け、比較的小さく古いビルが立ち並ぶあたり。
寂れた建物に囲まれた袋小路が、血に染まっている。
血の海の中心には、頭のない男の死体があった。ビルの上にいた、あの男のものだ。
血のせいで分かりづらいが、服装も、ニオイも、間違いなくあの場で識別したとおりのもの。文入の言う〝パパ〟だと確信していた男が、文入を殺したであろう男が、文入と同じ状態で死んでいる――何が起こっているのか、東雲には全く理解ができなかった。
どれくらいそうしていただろうか。東雲が時間の経過を知ったのは、背後から声をかけられたからだ。
「東雲」
「ッ……」
東雲がバッと後ろを振り向く。声の主、溯春と目が合う。
「溯春さん……」
その姿を見た瞬間、東雲の頭は急速に冷静さを取り戻した。そして、気付く。自分は全く集中していなかったと。
あらゆることから気を逸らすためにこの男のニオイだけを追い続けて、他のことには注意を払っていなかった。
だから、記憶がない。この男の頭が破裂する音を聞いた記憶も、彼が誰かと一緒にいたと判断できるような記憶も。
自分の失態に気が付くと、東雲は「すみません、おれ……」と声を震わせた。
「何も見てねェのか」
「……ごめんなさい。おれが追いついた時にはこの状態で……おれ、全然他のこと気にかけてなくて……」
叱責を覚悟してぎゅっと目を瞑る。いや、叱責だけならいい。恐ろしいのは失望だ。溯春に使えないと思われてしまえば、彼は自分で手がかりを辿ろうとするだろう。そして、今後東雲を関わらせない。
それは即ち、溯春が人間性を失っていく機会を多く作ってしまうということ――東雲はぐっと眉根を寄せると、「全部調べ直しますから……!」と顔を上げた。
「だから溯春さんが自分でやるのは……!」
「必要ねェよ」
「……え?」
溯春の言葉に首を傾げる。だが、東雲の表情は険しい。必要ないという言葉が何を意味するのか分からない。
そんな東雲の一方で、溯春は既に大鎌を出していた。まだ実体のない状態だ。溯春はそれを持って死体に近付くと、「《ID検索指定:目の前の男》」と大鎌に指示を出した。
〈検索エラー。対象を捕捉できません〉
「…………」
「……あの、溯春さん?」
溯春の行動に東雲が恐る恐る問いかける。「その死体、人間っスよね?」確認するように尋ねれば、「他に何に見える」と溯春が答えた。
「いや、だって……その大鎌ってゴーストを狩るためのもので……」
「鎌はな。だがこの安全装置の方は過ってそれ以外を狩らないようにするためのものだ」
「……ん?」
「人間だろうが動物だろうが、たとえそれが死んでたとしてもこいつは調べられるんだよ」
溯春はそう言って大鎌を示すと、そのまますっと消し去った。その行動はもう必要がないからだということは東雲にも分かったが、しかし溯春が何を言いたいのかいまいち理解ができない。
「だから調べたってことっスか? でも今調べられなかったじゃないスか。溯春さんの話なら死体でも分かるんスよね?」
問いかけながら東雲は必死に思考を巡らせた。最初に溯春が〝調べ直す必要はない〟と言ったのは、恐らくこの大鎌の機能を使う気でいたからだろう。そして実際に使ったが、その結果はエラーで、死体の男の名前を知ることはできなかった。
だから、手詰まりのはずなのだ。「……やっぱりおれ調べますよ」結論に至った東雲が提案すれば、溯春が「無駄だ」と冷たく答えた。
「エラー内容聞いてたか? 対象を捕捉できないっつってただろ。データがないワケでも、データを見つけた上で参照権限がないワケでもない。大鎌のシステムがこの死体を見つけられなかったんだ」
「でも〝対象を捕捉できない〟ってエラーは結構聞きますよ? それとは違うんスか?」
「俺の知覚とリンクしてる。俺がはっきりと見て指定しているものと一致してたら捕捉できないなんて有り得ない。……要するに、大鎌のシステムにとってこの死体は透明だったんだよ」
そこまで聞いて、やっと東雲は事態の異常性を理解した。溯春が調べても無駄だと断言した理由もどことなく分かる。
あらゆるものを識別できるはずのシステムが、存在すら認識できない。溯春の知覚を使っているのに、急にそれが見えなくなってしまうのだ。そんな人間を調べても何も出てくるわけがない――溯春が言いたかったのはそういうことだろう。
東雲はどうにか状況を理解したが、しかしまだ分からないことがある。
「そんなことが可能なんスか? 透明って、データを消してるとかっていうレベルじゃないっスよね」
「やりようはある」
「やりよう?」
「ジェイルブレイク」
溯春の言葉に、東雲の記憶が刺激された。
「それって、禮木が言ってた……」
「あいつの使い方だと本来の意味とは違うけどな。だが、あいつの言う方で考えればそれで説明がつきそうな気がする」
「気がするって……珍しいっスね。溯春さんがそんな曖昧なの」
東雲は溯春が曖昧な言い方をするのは聞いたことがなかった。言葉は少ない代わりに、その口から出てくるのはいつも断定的なものだったからだ。たまに推量を話すことはあっても、〝気がする〟だなんて感覚的な言葉は使わない。そう考えるとどこか不安を感じて、東雲の眉間には力が入った。
「はっきりと言えるワケねェだろ。禮木の頭の中は理解できない。だから俺には方法が浮かばない。だがもし理解できたら、全部説明がつくかもしれない……それだけは感じるんだ」
「そんな漠然としてるのにやりようはあるって断言したんスか」
「現実に起こってるだろ」
言われて、東雲はうっと顔を顰めた。それを言われてしまうと何も言い返せない。溯春の話しぶりはまるで机上の空論について語るようなものだったが、しかし確かに現実に起こっていることなのだ。その時点で〝やりよう〟はあって、しかも実行できているということ。
ただ……――東雲はそこまで考えると、不満そうに口を尖らせた。
「でもそれって、やっぱ何も分からないってことじゃないっスか。ここまで来たのに、そんなの……」
〝パパ〟を追い、それらしき人物を見つけた。この男が〝パパ〟であってもそうでなくとも、少なくとも文入を殺害した可能性は高いのだ。
その人物を捕らえられると思ったのに、こうして死なれては全てが無に帰されたように感じてしまう。
東雲が暗い顔をしていると、溯春が「だがこいつじゃないことは分かっただろ」と東雲に目を向けた。
「どういうことっスか……?」
「こいつが何をどこまでやったかは知らない。本当に文入を殺したのかも、そもそも誰なのかすらもな。それでも、こいつを殺した奴は知ってるはずだ」
溯春の声が低くなる。その瞳が、暗さを帯びる。
「ゴーストを操る笛に、検索システムの妨害、それから生の亡者……そいつなら何かしらは知ってるはずだ。ついでにこのグロい殺し方もな。文入の死体のニオイで分かったが、少なくとも人間の技術ではねェよ」
「生の亡者ってことっスか?」
「可能性はある」
そう溯春は何気なく答えたように見えたが、東雲の表情は晴れなかった。「溯春さん」深刻な声で呼びかける。「なんだよ」鬱陶しそうに自分を見た溯春の目はもういつもどおりだったが、それでも東雲の不安は拭えない。
「そいつのこと、人間として追うんスよね?」
ゴーストの力に頼らず、そして殺害を目的とせず――言外に込められたものに溯春も気付いているだろう。だが真剣な目で溯春を見つめる東雲とは対照的に、「しばらくはな」と答えた溯春はどうでもよさそうな様子だった。
「しばらくって、また……」
「ニオイはここで途切れた。次が見つかるまでは、使えるモンは何でも使うしかねェだろ。狼の知覚が必要なら迷う理由はない」
その答えに、東雲がくっと眉根を寄せる。
「じゃあおれのことも使ってくださいよ。バディ解消とか言われましたけど、まだ正式に申請してないんで無効です」
「お前のどこに利用価値が?」
「ひっどい! おれ追跡官っスよ!? ニオイも音も普通の人間よりずっと……あ」
「気付くのが遅ェ」
呆れたように言う溯春を見ながら、東雲は頭からサァッと血の気が引くのを感じていた。
自分は犬の知覚や身体能力を持つ人間だが、溯春は狼そのもの。自分にできることは溯春にもできるのだ。本人に隠す気がなくなっているのなら、今までのように今後は自分にやれと指示を出すこともないかもしれない。
「あの、狼と犬ってどっちが嗅覚強いんスか? ほぼ一緒っスよね? そうっスよね? そうって言って!!」
声が大きくなったのは、なんとなく答えは分かっていたからだ。野生で生きる狼と、人間に家畜化された犬。しかも溯春の力はゴーストのものだ。どちらの知覚の方が優れているかなど、今この状況では考えたくもない。
「あ! でもおれ溯春さんの本性ごまかせますよ! 他の追跡官じゃ無理です! 重要でしょ! ねえ!!」
現実から目を逸らすように東雲が声を張り上げる。周りの状況とは不釣り合いなその大声に、溯春はただただ「うるせェ……」と顔を顰めるだけだった。




