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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
最終章 狭間を揺蕩う亡者の最期
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此岸に繋ぐ鎖と代価〈三〉

 その時溯春が見たのは、にわかには信じがたい光景だった。


『ねえ、狼のお兄さん。もしもう駄目だって思ったらちゃんと呼ぶから、その時は絶対に遅れないって約束してくれる? 引き摺られてたら時間かかっちゃうでしょ』

『暇だったらな』

『そこは〝任せとけ!〟って言うとこじゃ――』


 それは突然、何の前触れもなく。

 目の前で自分と会話していた文入の頭が、その瞬間()()()()()のだ。


 例えば握り締めた生卵がぐしゃりと潰れるように。

 例えば水の入った風船が地面に落ちて割れるように。


 けれど違うのは、その力が見えなかったということ。内側からの圧力があったとしか思えない軌跡を描いて、文入の頭部は四方に飛び散った。


「は……?」


 硬直した東雲の顔は赤く染まり、文入の頭があった場所からは血が噴き出している。


 一体今、何が起こったのか――それを理解する前に溯春は身体を狼に変えていた。ぐるりと東雲を隠すように立ち、耳を、鼻を、目を凝らす。

 この異常な出来事は自然現象では有り得ない。ならば考えられるのは攻撃。それも人の武器ではなく、ゴーストを使った何かだ。どこから来るか分からない攻撃に備え、全身の毛を逆立てる。


 そして、三秒ののち。狼の目に近くのビルの屋上に立つ男の姿が映った。いつか見た、文入と一緒にいた男だ。その男が今()()にいる。


 グルルルルッ……地響きのような唸り声が響く。腹の底にのしかかるようなその音に、呆然と立ち尽くしていた東雲がはっと意識を取り戻した。

 自分を取り囲む黒い被毛を見て、次にその持ち主が警戒する先を見る。金色の瞳に映っている男と同じ人物が、東雲の目に入る。


「ッ、あいつが!!」


 それは東雲らしからぬ声だった。怒りと憎しみと、ほんの僅かな殺意。文入の支配はもうないはずなのに、普段の東雲が持たない昏い感情が低い声に乗る。

 そしてそれに呼応するかのように、狼の唸り声もまた重たく、大きくなっていった。警戒から威嚇へ、威嚇から攻撃の前触れへ。地面に爪を立て、ギリ、とコンクリートを削る。鼻に寄せられた皺は深くなり、凶暴な形の牙が剥き出しになる。


 まるで獣そのものだった。その姿に東雲は溯春の怒りを感じ取り、そして……頭が冷えた。


「溯春さん!」


 一気に冷静さを取り戻し、狼に語りかける。しかし狼が東雲を見ることはない。その反応のなさに東雲はザァッと顔を青ざめさせると、黒い毛皮にしがみついた。


「駄目です、人に戻ってください! 一回落ち着いて!」


 ゴーストの力を使うたびに、心がゴーストに近付いていく――文入の言葉が蘇る。

 今の溯春が冷静ではないことは肌で感じていた。それが溯春自身の感情ならばまだいい。しかし狼の、ゴーストとしての攻撃性ならば話は別だ。これに身を委ねてしまえば、溯春が人間性を失う時が早まるかもしれない。そう考えると、東雲は溯春をこのままにしておけなかった。


「その姿になりすぎちゃ駄目です! 追うならおれができますから!」


 何度も長い毛を引っ張り、狼の意識を自分に向けようと試みる。しかし狼の唸り声は止まらない。「溯春さん聞いて! お願いだから……!」無理矢理顔を動かそうと太い首に手を回し、思い切り力を込める。


 するとようやく、狼に変化があった。人間に戻っていったのだ。

 するすると身体を小さくした狼はあっという間に人間(溯春)の姿に戻り、「おい」と嫌そうな声と共に東雲を睨みつけた。


「いつまで引っ付いてんだよ、気持ち(わり)ィ」


 溯春の声がくぐもる。東雲の腕が絡みついているからだ。「あ、ごめんなさい!」東雲は咄嗟に両腕を上げると、溯春の全身を見て名残惜しそうな顔をした。


「あの、狼の姿にならないに越したことはないんスけど……今度なったら思い切りモフっていいっスか?」

「踏み潰すぞ」

「ひっ」


 凶悪な目で睨まれ、東雲が竦み上がる。しかし「だってめちゃくちゃふわふわだったんスもん……」とぼそぼそと続けるあたり、毛皮に対する欲求はなくならなかったようだ。

 そんな東雲を無視し、溯春が元見ていた方を見やる。そこにはまだ男の姿があったが、溯春が人間に戻ったことに落胆したかのように肩を竦めると、身を翻して屋上から去ろうとした。


「あ! 逃げますよ!」

「お前が止めるからだろ。見失ったら踏み潰すぞ」

「ニオイ覚えたから大丈夫っス!」


 東雲はそう勇むと、屋上の出口に向かって走り出した。途中で溯春に振り返り、「先行きますよ!」と声を張り上げる。だが溯春の傍にあるものに気が付くと、「あ……」と動きを止めた。


 東雲の見ている先には文入の死体があった。しかし、ただの死体ではない。普通のそれには有り得ないようなおどろおどろしい空気が死体から染み出して、その場に黒い煙が立ち込めたようになっている。


「溯春さん、それ……」

「先行ってろ」


 今まさにゴーストになろうとしている文入の魂を見ながら、溯春が告げる。「こいつを殺したのは多分さっきの奴だぞ」と付け足せば、東雲は意を決したように頷いて、屋上から出ていった。


 残されたのは溯春と、文入のゴースト。頭部の潰れた死体ではその最期の表情は分からなかったが、ゴーストになろうとしている黒い塊からは悲壮が伝わってくる。

 なんで、どうして――言葉は発していないはずなのに、そう嘆いているように()()()()のだ。


 そうして幾ばくもしないうちに黒い塊は白くなって、形を持った。アナグマとも、猪とも言えるずんぐりとした体躯。頭頂部から鼻先までは象に似た形をしているが、それにしては鼻が短い。真っ白な毛並みに首にはたてがみと、実在の動物とは似つかぬ姿が、それがゴーストであるとはっきりと物語る。


「……《ID検索指定:獏》」


 いつの間にか溯春が手にしていた大鎌が、すうっと実体を持つ。

 だが、獏は溯春の方を一切見ていなかった。何かを探すようにしきりに首を動かし、嘆き悲しむような、誰かを呼ぶような、そんな鳴き声を虚しく響かせている。


 その音に聞き入るように溯春は目を伏せると、「もう忘れろ」と静かに告げた。


 ヒュンッ……――大鎌が風を切る。ぼとりと、獏の首が落ちる。


「こんなに早く狩る気はなかったんだがな」


 その溯春の独り言と共に、獏の体もまた消えていった。

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