此岸に繋ぐ鎖と代価〈二〉
『狼のお兄さんは、ずっと人間ではいられない』
神妙な面持ちで告げた文入に、溯春は何も言わなかった。しかし東雲は違う。どういうことだと言わんばかりに彼女を見て、その真意を促す。
「どんなに頑張ったって、あたし達はいずれ人間じゃなくなる。狼のお兄さんも気付いてるはずだよ。だから早く終わらせたいんじゃない?」
その言葉に東雲が溯春へと視線を移す。だが彼から見えるのは、文入を見る溯春の背中だけ。その背から彼が自分に説明する気がないことを悟ると、東雲は「……〝パパ〟がそう言ったの?」と文入に問い返した。
「違うよ。生の亡者って結構新しいものだから、パパもその先は知らないみたい。だけどなんていうか、感じるんだよね。ゴーストの力を使うたびに、少しずつ自分の心がゴーストに近付いてるって。もしかしたら見た目はこのままかもしれない。人間として振る舞うこともできるかもしれない。だけどいつか、この心は完全にゴーストになる」
文入の話を聞きながら、東雲はもう一度溯春を見た。否定の言葉が聞きたかったのだ。
しかし、やはり溯春に話す気配はない。「溯春さん……」一歩前に出て溯春の横に並ぶ。するとその黒い瞳は一瞬だけ東雲の方を見たが、すぐにまた下へ向けられた。
「そんな……」
東雲の口から吐息のような声がこぼれる。頭の中に、黒狼が暴れ回る姿が蘇る。
今日一日だけで溯春は何度その力を使っただろう。どれだけの時間ゴーストの状態になり、どれだけ彼の精神に影響を与えただろう――考えただけでも恐ろしくなる。
溯春が何も言わないのがまた東雲には不気味だった。元々口数の多い方ではないが、必要なことははっきりと口にするのが溯春だ。
だがここまで文入の話を聞いて、溯春はまだ一度も声を発していない。その意味を考えると、自然と東雲の顔は険しくなっていく。「ゴーストに近付くって、どういうこと……?」恐る恐る文入に尋ねれば、「一言で説明するのは難しいかな」と返ってきた。
「あたしの場合は人の悪夢がないと生きていけないみたいな、そんな存在だと思う。実際誰かを見るとその人の悪夢がちょっと欲しくなるしね。狼のお兄さんは……そもそもどんなゴーストかよく分からないから、あたしからはなんとも。とりあえず金井さんを殺そうとした時みたいな感じじゃない? 野性味溢れる猛獣的な?」
両手で引っ掻くふりをしながら文入が答える。「そんな適当な……」その気楽そうな姿に東雲は眉を顰めたが、文入は「だってあたしじゃ分かんないもん」と口を尖らせた。
「狼のお兄さんに聞いてよ。さっきから無視されてるけど」
そう言って文入は不機嫌そうな表情になったが、すぐに「ま、そういうことだからさ」と話を切り替えた。
「だからあたし達には拠り所が必要なの。拠り所があれば、人としてそこに踏み留まる力になる。お兄さん達、あたしのこと殺さないんなら刑務所に入れるのかな。でもそうしたらあたしはきっとすぐ死んじゃうよ。たとえ身体は生きてても、あたしの心は死んで本当にゴーストになる。だってパパっていう拠り所がなくなるから……人間でいる力がなくなっちゃうんだもん」
文入が暗く笑う。その目で東雲を見つめ、「やっちゃったね」と話し続ける。
「金髪のお兄さん、優しいけどちょっと無責任だよね。あたしのことを殺さずに法律で裁こうとするのは偉いと思うよ? 正義感いっぱいで立派って感じ。でも、その先は全く考えてない。お兄さんが今ここであたしを守ってもあたしは結局死ぬし、狼のお兄さんのことだってそう。この人をさっきみたいに説得しちゃうのってさ、拠り所を奪うことと同じなんだよ。それがどれだけ怖いことか考えられる? 何をしてでも避けたいことなのに、お兄さんは無責任にその人から大事なものを奪ったんだよ。狼のお兄さんがあなたを殺せないっていうのを利用して、その大事な拠り所を捨てさせたんだよ」
その言葉を聞いて東雲が顔を強張らせる。溯春の様子を窺うも、その横顔からは何も読み取れない。
だから、恐ろしい。否定がないことが東雲の思考を悪い方へと導く。生の亡者を全員始末することが溯春にとって人間性を保つための拠り所だったのなら、自分の行動はその邪魔をしてしまったのだ。
今の溯春が文入をどうしようとしているか、まだ確信は持てていない。だがもし、もしもう彼女を殺すことをやめていたとしたら。文入の言うように、溯春が人でいるための力を奪ってしまっていて、そしてもし本当に手遅れなのなら――思考に沈む東雲の耳に、「ああでも、それでいいかも!」という文入の明るい声が届いた。
「もう狼のお兄さんは元の考えには戻れない。きっとすぐに心も人じゃなくなる。そうなったら多分パパが迎えてくれるよ。お兄さんを欲しがるパパの望みが叶うんだ!」
文入は興奮したように両手を広げると、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。「これならいらないって言われないかなぁ」小さく呟いて、東雲に「ありがとね?」と笑いかける。
「ッ……!」
東雲の顔が悔しげに歪むも、その口から言葉は出ない。その時だった。
「さっきからうるせェな」
ずっと黙っていた溯春が、やっと声を発した。
「うるさいって……溯春さんのことっスよ!?」
東雲が驚愕の面持ちで溯春を見る。そこには驚き以外にも悔しさややるせなさが浮かんでいたが、溯春は「だから?」と素知らぬ顔で問い返した。
「『だから?』!? 『だから?』って何スか!? もうちょっとちゃんと言葉にしてくださいよ!」
「なんでだよ」
「――ッアンタが心配だからに決まってるでしょう!?」
東雲の声が大きく響く。必死の表情で溯春を見る東雲の目は涙こそないが赤くなり、わなわなと唇を震わせている。
「だって、おれ……なんも分かってなくて! 溯春さんが生の亡者は全員殺すって言ってるの、ただの執着っていうか、過小評価してたってワケでもないですけど……でもそんな、人でいるために大事なことだったとは思ってなくて! だからなんてことしちゃったんだっていうか、その……」
「お前、自分を過大評価しすぎだろ」
「……え?」
溯春は心底呆れたような顔をしていた。自分との温度差に、東雲の口がぽかんと開く。
「お前なんぞにそんな影響力ねェよ。本当すぐ図に乗るな」
「え……え?」
きょとんとした東雲は、溯春と文入を交互に見た。だが文入もまた驚いたような顔をしていて、東雲の望む答えは返ってきそうにない。
そんな二人の反応を置き去りに、一人白けたような顔をしている溯春はふうと大きな溜息を吐き出した。
「ま、いずれ化け物に成り下がるっつーのは間違ってねェだろうな。だがそんなのとっくに受け入れてるんだ、別に今更騒ぐことでもねェんだよ」
「……怖くないの? 人じゃなくなるかもしれないのに」
問いかけたのは文入だった。目をまんまるに見開き、信じられないと言わんばかりの表情で溯春を見ている。
「人じゃねェのは今もだろ」
溯春はどうでも良さそうに返すと、「ただ、」と言葉を続けた。
「最後のだけは否定しとくわ。お前の〝パパ〟の望みは叶わねェよ。そうなる前に俺は自分で自分の首を落とす」
そして文入を見て、「だからお前は刑務所にぶち込んでやる」と口角を上げた。
「お前が生きようが死のうがどうでもいいがな。だがゴーストが出たなら、俺はその首を狩りに行く」
その言葉に一番反応したのは東雲だった。きょとんとしたのは一瞬だけ。その次に溯春を見つめ、そしてすぐに嬉しそうに笑みを浮かべる。
文入は呆然として固まっていたが、東雲が「じゃあ安心だね」と笑いかけると、はっとしたように目を瞬かせた。
「え、っと……それは、安心なの……?」
「安心じゃないの? 人のまま死にたかったんでしょ? だから〝パパ〟の言うこと聞いて、人でいようとしてたんじゃないの?」
「そうだけど……でも、ゴーストとして殺されるのは変わらなくない……?」
「なら『もう無理!』って思った時点でおれ達に言えばいい。そしたらきみがゴーストになってすぐ対処できる。ほとんどゴーストでいる時間がなかったなら、それは人として死んだってことと同じじゃない?」
「……雑」
そうこぼす文入は、しかし次の瞬間には「ふはっ」と笑い出していた。「それなら確かに心配いらないのかな」呆れたように笑い続ける彼女に、東雲が「ま、そうならない方法を探すのが一番だけど」と言いながら溯春を追い越して歩いていく。
「でももしおれらと来てくれるなら、もう〝パパ〟の顔色を窺う必要はないよ。どうせ〝パパ〟のところで頑張ったって、人として死ぬことはできなかったんだ。きみにとっては大事な人なのかもしれないけど、『捨てられるかも』って怖がって言うこと聞くのは違うと思うしさ」
笑っていた文入は、その東雲の言葉ではたと動きを止めた。そして、瞳を揺らす。
犯罪者として刑務所に入れば、自由を失う代わりに人として死ねる。一方ここで逃げれば、自由ではいられても人として死ぬ機会を失う――その二つの選択肢を前に、迷うように視線を彷徨わせる。
「……本当に、呼んだら来てくれるの?」
怯えと希望の混ざった眼差しで東雲を見つめる。「後から『捕まえるための嘘でした』って言わない……?」不安げに問いを重ねれば、東雲は心外そうに「おれは溯春さんじゃないよ」と苦笑を返した。
「あの人はすぐ嘘吐くけど、おれは約束を守るよ。溯春さんのことは引き摺ってでも連れてくから安心して」
「……でもあたし、人殺しだよ? そんな相手との約束守るの?」
「きみがおれを信じて約束してくれるなら、おれもきみとの約束は守るよ」
文入の前まで来た東雲はそこで足を止めると、少し屈んで相手と目線を合わせた。柔らかい印象の垂れ目が弧を描いて、優しく文入に笑いかける。
「だからおれ達と一緒に来てくれる? きみの犯した罪は消えないけど、少なくとも、もうこれ以上無理して人を殺さなくて良くなるから」
「…………」
文入はすぐには答えず、東雲をじっと見つめていた。次に溯春を見て、また東雲に目を戻す。「……人が良すぎない?」呆れたように笑って、唇を噛み締める。
「あたし、優しい人に弱いんだよなぁ……」
言いながら顔を俯かせる。その涙声に東雲は文入の意思を悟ると、そっと小さな背中を溯春の方へと押した。
ゆっくりと、文入の足が動き始める。その様子を溯春は何も言わずに見ていたが、少し進んだところで文入が顔を上げた。足は動かしたまま、涙の浮かぶ目はゆるく細められている。
「ねえ、狼のお兄さん。もしもう駄目だって思ったらちゃんと呼ぶから、その時は絶対に遅れないって約束してくれる? 引き摺られてたら時間かかっちゃうでしょ」
「暇だったらな」
「そこは『任せとけ!』って言うとこじゃ――」
文入の言葉は最後まで続かなかった。パンッ……と、何かの弾けるような音がそれを阻んだからだ。
「は……?」
東雲が固まる。全身に感じるのは、生暖かさ。そしてその目に映るのは、頭のない文入の身体だった。




