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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
最終章 狭間を揺蕩う亡者の最期
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此岸に繋ぐ鎖と代価〈一〉

 東雲の身体がビルから離れた直後。地上へと自由落下するその身体を、大きな狼が追いかけた。

 空中で東雲を捕まえ、ビルの壁を蹴る。ガラスが砕ける音など気にせず狼はまた上へと駆け上り、屋上に到着すると同時に口に咥えていた東雲を吐き出した。


 仰向けに地面に投げ出された東雲の目は閉じられたまま。その腹に向かって、黒い革靴を履いた足が振り下ろされる。


「――ッ!! ……げほっげほっ……何するんスか!?」


 衝撃で開いた目は足の主、溯春を睨みつけた。


「なんだお前か」

「『なんだお前か』って……確かめ方なら他にあったはずでしょう!? アンタもうおれのこと踏みたいだけなんじゃありません!?」


 そう憤るのは間違いなく東雲だった。起き上がろうとする彼を見て、溯春が踏みつけていた足をどける。「高さは悪くねェな」鼻で笑えば、東雲は「んなッ……!?」と思い切り顔を歪めた。


「おれにそういう趣味はありません! どっちかっていうと……って待った! 何しようとしてるんスかアンタは!!」


 血相を変えた東雲の目にはナイフが映っていた。溯春が手に持っているものだ。しまうどころかこれから使うと言わんばかりに持ち替えて、未だ眠っている文入の方へと歩いているのだ。


「まさかまだ殺す気ですか!?」


 東雲が声を張り上げる。視界の端では文入が微かに身動ぎし始めたが、まだ完全には目覚めていないらしい。

 これでは逃げることもできないではないか――そう思って東雲が溯春を見つめれば、溯春は面倒臭そうに溜息を吐いた。


「なんだよ、殺されかけたクセにまだ庇うのか?」

「当たり前でしょう!? 人がなんのために飛び降りたと……!」

「やっぱお前かよ」


 溯春が嫌そうに眉間に皺を寄せる。脳裏を過るのは先程飛び降りた東雲の姿。文入は自分の身体を優先しようとしていたのに、東雲の身体は彼女の意志を無視して飛び降りたように見えたのだ。

 しかし、東雲が自ら死を選ぶとは思えない。ならば何故そんなことをしたかなど、今の東雲の発言を聞けば考えるまでもなかった。


「動けたんならもっと早く動け」

「あの子の意識が逸れたから動けたんスよ! つーか中断したならもう再開しないでください! 人殺しは駄目って何度言わせるんスか!」

「こいつは人じゃねェよ」


 迷わず答えた溯春に、東雲がそれまでの勢いを静めた。


「人ですよ。溯春さんだって人です」


 真剣な目で溯春を見つめる。生の亡者(ライフクリンガー)を人と見做さないことなど、東雲には考えられなかった。確かに人外の力を持っているが、溯春も、文入だって東雲にとっては間違いなく〝人〟なのだ。金井という自分を襲ってきた人物ですらそれは同じ。

 それなのに自分を含めた生の亡者(ライフクリンガー)全てを化け物とする溯春の考えは、東雲には受け入れられない。どうか理解してくれと願いながら、東雲は「ねえ、溯春さん」と落ち着いた声で話し始めた。


「なんであの子はまだ生きてるんスか?」

「あ? お前が邪魔したからだろうが」

「違いますよ。だって溯春さん、さっきおれを助けたついでにあの子のこと殺せたはずですよね」

「…………」

「中身を確かめたかったのかもしれません。でも、狼化してる時も自我はあるんスよね? だったらわざわざ人間に戻らなくても確認できたはずです。それなのに人間に戻って殺そうとしてるってことは、溯春さん、あの子のことは人間として向き合いたいってことなんじゃないスか?」


 真剣な東雲の問いかけに、溯春の顔色は変わらない。


「めでてェ頭だな。たまたまだよ」

「今もおれの話聞いてくれてるのに?」

「…………」


 溯春の眉がピクリと動く。東雲はその変化に気が付くと、すうと息を吸い込んだ。


「溯春さん、本当は人殺しなんてしたくないんじゃないスか? ――――ッ」


 その瞬間、東雲は自分の首筋に冷たいものが触れたのを感じた。ナイフだ。少し離れたところにいたはずの溯春が一気に距離を詰め、文入を殺すために持っていたナイフを自分に突きつけている。

 ピリリとした感触が首筋に走る。皮膚が裂かれ、そこから温かい血液がつうと流れていくのを感じる。


 それでも東雲は一歩も引かなかった。殺意に満ちた黒い瞳が自分を睨みつけているにもかかわらず、逃げたいとは微塵も思わなかった。

 そもそも、溯春が自分に向かってきたのは分かっていたのだ。避けようと思えば避けられた。避けなかったのは、()()()()()と気付いたからだ。生の亡者(ライフクリンガー)であることを隠さなくなった今の溯春なら、避ける間など与えずに攻撃できたはずだ。それなのに彼はそうしなかった――その事実が、東雲の足をそこに縫い留める。


「溯春さんは正気じゃないから、陽咲さんって人を()()()んスよね」

「…………」

「殺して欲しいって頼まれたから、そこまでしてその人のこと殺したんスよね」

「…………」


 朱禰との会話を思い出しながら、東雲が話し続ける。


『正気なんてとっくに捨てましたよ。だから陽咲(ひさき)を殺せたんです』


 そう朱禰に告げた溯春は無表情だったが、東雲にはそれこそが彼の中にある感情を物語っているように感じられた。

 恐らく溯春は陽咲を殺したくなかったのだ。だが彼女が苦しんでいることを知っていた。生きているのが耐えられないほど苦しんでいるのを知っていて、そんな相手にもう終わらせてくれと頼まれたなら――以前サナトリウムで目にした幻が、東雲の脳裏に蘇る。


『もう嫌、耐えられない……助けてタイヨウ……』


 あの女性がきっと陽咲だったのだろう。そしてこれは、溯春の記憶だ。

 あんなふうに悲壮と苦しみに満ちた姿をずっと見続けていたならば。それを終わらせてくれと、涙ながらに頼まれたなら。


 自分ならどうするだろうかと、ふと考える。

 それでも生きてくれと言えるだろうか。それとも、どうにかして相手の望みを叶えようとするのだろうか。


 溯春はどんな気持ちで、自分の全てを捨てて相手の命を奪ったのだろうか。


 考えれば考えるほどに辛くなる。口では乱暴なことを言いながらも東雲(自分)の命を守ってくれるような人間が、大事な人を手に掛けなければならなかったなどと。助けたいのに、助けるためには命を奪うしかなかったなどと。

 そんなことをすれば、確かに正気でいるのは難しいかもしれない。


 だが――東雲はそっと、溯春を見据えた。


「今の溯春さんは間違いなく正気っスよ。正気じゃなかったら、おれはとっくにアンタに殺されてます。だから……」


 たとえその目に、強い殺意が込められていようと。その感情を(ぎょ)せるのであれば、それは正気以外の何物でもない。


「だから、殺さなくていいんスよ。生の亡者(ライフクリンガー)は生きてちゃいけないと思ってるんだとしても、正気のアンタに人殺しはできません。誰かを助けるためにそのできないことをやり遂げた人が、誰も助けられないのに同じことをしようとしちゃ駄目です。そんなことをしたら、過去のアンタの行動まで全部貶められてしまう」


 溯春に語りかけながら、東雲は首筋のナイフに手を伸ばした。指先でナイフを掴み、軽く力を入れる。


 しかしまだ、押し返すことはできない。東雲は少しだけ眉根を寄せると、逆にぐっと引き寄せた。


「ッ……何して……!」


 つぷりと刃が傷口に沈む。その行動に溯春が目を見開く。彼が腕に力を込めた方向は、傷とは反対側。指先からそれを感じ取ると、東雲は「ほら」と笑った。


「このまま押してもいいっスよ。正気捨てておれを殺してください。そしたらアンタを邪魔する人間はいなくなる」

「……そんなやり方で俺が引くと思ってんのか?」

「五分五分っスかね。溯春さんならむしろ腹立てて普通に殺るんじゃないかってヒヤヒヤしてます」


 その言葉どおり、笑みを浮かべる東雲の頬は少しだけ震えていた。「つーか正気のままでもおれのことなら殺せそうっスよね」今気付いたと言わんばかりに呟いて、眉間の皺を深くする。それでも東雲は指に力を込め続けると、「でも、」と無理矢理明るい笑顔を作った。


「もしおれを殺すのに正気が邪魔で、溯春さんがそれを捨てちゃったら……今のアンタは、本当に人間じゃなくなると思うんです。ゴーストになるくらいの強い感情が勝って、その感情のままに動く化け物になっちゃうと思うんです」


 きゅっと、指先に力を入れる。今度は引き寄せるのではなく、引き離す方へ。


「おれはまだ、溯春さんに人間でいて欲しいっス」


 その言葉と共にほんの少し力を強くすれば、ゆっくりと刃が皮膚から離れ始めた。溯春の目は未だ東雲を睨みつけたままだが、それでも彼の腕の力が弱まっているのを東雲は感じた。「お、引いてくれます?」わざと茶化すように言えば、溯春がムッと眉を顰める。「調子乗んな」低い声で吐き捨てると、ナイフを持つ腕から力を抜いた。


「お前なんかのために化け物になってやるのは癪なだけだ」


 不貞腐れたように言う溯春に、東雲が満足気に笑う。「溯春さんにとって価値の低い人間でよかったってことっスかね」楽しげに言った時、「――無理だよ」と高い声が聞こえてきた。


「あ、起きた」


 東雲が見たのは文入だった。いつの間にか起きていた彼女は立ち上がり、溯春達を見ている。

 しかしその表情は暗い。「無理って何が?」溯春からナイフを引き取りながら東雲が問えば、少女はゆっくりと口を開いた。


「狼のお兄さんは、ずっと人間ではいられない」

「え……?」


 文入の言葉に驚いたのは東雲だけ。同じ内容を聞いた溯春は何も言わず、ゆっくりと視線を下に落とした。

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