悪夢に代わる安らぎ〈三〉
東雲が薄く笑みながら溯春を見つめる。その彼らしからぬ表情に、溯春はぐっと眉間に力を入れた。
今の東雲は東雲ではない。文入だ。過去の彼女の発言から考えれば、今の東雲の身体は完全に文入のもの。そこに彼の意識は干渉できないのだろう。
そこまで考えて溯春が面倒臭そうな顔をした時、東雲――文入が「いや待ってなにこれっ……!」と騒ぎ出した。
「あっちもこっちもめちゃくちゃ痛いんだけど! このお兄さんこんな身体で平然と動き回ってたの? ていうか狼のお兄さんはこの怪我知っててさっきあんな強く蹴り飛ばしたの!?」
眉をハの字にしながら文入が全身を確認する。「痛っ」と時折こぼれる声は無意識だろう。「ボロボロじゃん……」苦しげに言って、「信じらんない」と溯春を睨みつけた。
「こんなの、このお兄さんが可哀想でしょ!」
その言葉と同時に文入が思い切り踏み込んだ。拳を溯春に叩きつけようとして、しかし「わっ……!?」と驚いた様子で彼を通りすぎ、タタタッとよろける。
「こっわ。追跡官って本当に身体違うんだ」
「使えなきゃ意味ねェけどな」
「っ!?」
攻撃に失敗した文入は、溯春の蹴りによって大きく弾き飛ばされた。屋上の手摺りにぶつかり、「っ……嘘でしょ、そんな躊躇ないの?」と苦しげに溯春を見上げる。
「まんまと乗っ取られる方が悪い」
そう溯春が素知らぬ顔で言えば、文入はニッと笑みを浮かべた。
「確かに。ていうか衝撃の割に大して痛くないんだね。これも丈夫だから?」
「だろうな」
「なるほど、だからこのお兄さんあんま怒ってなかったんだ」
ゆっくりと文入が立ち上がる。「でも傷に響いた分は痛いよ」不満げな顔をして、「次は失敗しない」と再び溯春へと向かっていった。
「ッ……!」
文入の拳が溯春の頬を掠る。失敗しないという言葉どおり、最初と違って文入は東雲の身体に慣れ始めていた。溯春に避けられれば次手に転じ、攻撃を受けても耐えて反撃をしかける。
それは時間が経つごとに精度を増していき、「めちゃくちゃ強いじゃん、このお兄さん!」と文入が楽しげに声を上げた時には、溯春の攻撃はほとんど当たらなくなっていた。
「すごいすごい、身体が勝手に動く! ほらほらほら! 狼にならなきゃお兄さんが不利だよ!!」
溯春が殴りかかればひらりと避けて、腰を落としてその腹を肘で狙う。しかし当たったのは間に差し込まれた溯春の手のひら。それを見るやいなや文入は地面に手をついて、左足で相手の顎を蹴り上げた。
しかしそれもまた、溯春の腕で防がれる。だが、全く効いていないわけではない。現に溯春は少しだけバランスを崩し、足が二歩後ろに下がる。その隙を突こうと文入が足払いをかければ、溯春の身体が宙に浮いた。
「ッ……うっぜェな!」
溯春は空中で体勢を整えると、ダンッ、と四肢を使って着地した。その目に苛立ちが浮かぶも、狼の姿になる気配はない。文入の、東雲の動きについてこられるあたり全くゴーストの力を使っていないわけではなさそうだが、最初に東雲を蹴飛ばした時ほど身体能力を上げていないことは明らかだ。更にその手にはナイフすらなく、そしてまた、素手で文入に向かっていく。
その姿に文入は彼の意図に気が付くと、「なんだ、やっぱり優しいんじゃん!」と興奮したように笑った。
「あたしのことは殺せても、このお兄さんのことは殺したくないんでしょ!!」
「ッ!?」
ドンッ――溯春の身体が階段近くのコンクリート壁に叩きつけられる。文入が力いっぱい蹴りつけたからだ。
溯春の背中からは硬いものが折れる音がして、「ケホッ……」と噎せる口からは引き攣るような呼吸音も聞こえた。
だが同時にその背から何かが軋むような音がし始めると、溯春の呼吸も徐々に落ち着いていった。
「へえ、治る時だけ狼のニオイが強くなるんだ。治すためにピンポイントで狼化してるってこと?」
文入が感心したように溯春を見る。溯春は呼吸を整えながら「まァな」と答えると、「お前は痛みが飛んでるみたいだな」と少しだけ表情を険しくした。
「そういえばそうだね。なんでだろ、途中から全然痛くなくなったんだよね。これって追跡官の体質だったりする?」
「……あァ」
「へえ、便利なの。でもできればお兄さんみたいに治って欲しいかな。痛くはないんだけど、怪我のせいか時々関節とか動かしづらくって」
確認するように腕を回す文入に、溯春は「なら動かすなよ」と顔を顰めた。東雲の身体が動かしづらい原因は溯春にも聞こえている。文入が東雲の身体で乱暴な動作をするたびに、その身体のあちこちから骨の軋むような音がしているからだ。
それが折れた骨に直接打ち込まれた固定具の音だと溯春は知っていた。痛みは感じなくとも、東雲の身体は悲鳴を上げているのだ。
「でも動くからさぁ」気楽そうに答えた文入は動きを止めると、「ていうかお兄さんさ、」と話を再開した。
「やっぱりパパが言ってたとおり狼じゃなくて人狼なのかもね。だから人間のままでも微妙に力が使えるんじゃない?」
「……どっちでもいい。どっちにしろ化け物だろ」
溯春が暗い声で答えると、文入は「そうだね」と言って肩を竦めた。
「あたしもね、よくわかんないの。獏って知ってる? 動物園にいるやつ。でも夢を食べるともいうよね。あたしはね、その獏なんだ。夢を通して相手と少しずつ仲良くなって、その人の悪夢を食べるの」
語りながら文入が胸に手を当てる。視線を少し落とし、「悪夢を食べるとね、」と話し続ける。
「相手が起きるまでその身体を使えるんだよ。悪夢の分の隙間が空くから、そこにあたしが入らせてもらえるの。でもいつの間にか、悪夢を食べなくても入り込めるようになっちゃった」
そこまで言うと、文入は困ったように顔を上げた。「これはもう獏じゃないよねぇ」溯春に向かって苦笑し、「でもあたしもお兄さんと一緒」と言葉を続ける。
「もう獏でもそれ以外でもなんでもいいかなって思ってるの。だって今の方が効率良くパパの手伝いができるからさ。少し仲良くなった方が確実だからそうしてるけど、ゆくゆくは初対面でも身体を貸してもらえるようになりたいよね」
文入が言い終わると、溯春は心底呆れたような面持ちになった。
「……そいつがお前に身体を取られたのは、ただのお人好しだからか」
東雲の身体を見て、はあ、と溜息を吐き出す。
「まあ、そうなるのかな? 強く抵抗されなかったってことは、多分そうなんだと思う」
「……馬鹿が」
「そう言わないであげてよ。今どきこんな優しい人珍しいって」
文入はケタケタと笑うと、すっとその笑顔を消した。
「ところで治るってことは、即死させなきゃ駄目なんだよね?」
それは殺意を含んだ視線だった。東雲の顔で、東雲の見せたことのない表情をしている。溯春は居心地悪そうに身動ぎすると、「だろうな」と冷たい声で言った。
「だがあんま意味ねェぞ。肉体が死んだらゴーストに戻るだけ……次は完全に死ななくなる。唯一殺せるのはゴーストクリーナーだけだ」
「あ、それは大丈夫。パパが持ってる笛でね、ゴーストなら操れるの。金井さんはお兄さんをゴーストと勘違いして失敗しちゃったけどね」
「……なるほどな」
溯春はふう、と再び溜息を吐き出した。思い出すのは金井の行動。彼が笛を吹いた途端に三体のゴーストが現れ、自分に向かってきたのだ。
そんなものがあるとは知らなかった。きっとまだ、他にも知らないことがあるのだろう――溯春は「ますます〝パパ〟ってのが何者か知りたくなってきたよ」と文入に笑いかけた。
「大丈夫、ゴーストになったら知り合えるよ」
「ならまだ先か」
「ん?」
文入は溯春の言葉の意図を理解できないようだった。しかしすぐに馬鹿にされていると思い至ったらしい。ムッと顔を顰めて地面を蹴った。
「またそうやって強がりばっか!」
一瞬にして距離を詰めてきた文入の拳を、溯春が大きく跳んで回避する。そしてそのまま逃げるように走り出したかと思えば、突然体勢を低くして急停止した。
「強がりに見えるか?」
「っ!?」
視界に入った光景に、文入がビクッと動きを止めた。そこにあったのは彼女の身体だ。溯春が地面に寝かされていた文入の肉体にナイフを突きつけているのだ。
「お前、その身体に慣れるのに夢中になって本体のこと忘れてただろ。面白いか? そいつの化け物じみた身体が」
溯春が少女の首に刃を押し付ける。それを見て文入はやっと自分は本体から離れるように誘導されていたのだと気が付いたが、もう遅い。
いくら東雲の身体能力があっても、溯春の隙を突いて身体を取り返すことは不可能だ。だからといって言葉で説得しようにも、彼が応じないことはもう分かっている。
文入は状況を理解すると、迷うように目を泳がせ始めた。
溯春を見る。次に自分の身体を、そして東雲の身体を見る。その後は遠くを見て、また溯春へと視線を戻す。その繰り返し。
そうして何回か同じような行動を繰り返すと、文入は意を決したように溯春を見つめた。そして、走り出す。
向かった先は屋上の淵。転落防止のための手摺りに飛び乗り、溯春を振り返る。
「やれるものならやってみなよ。あたしの身体に傷つけたらこの身体で飛び降りてやる」
人質には人質を。そのために文入は苦肉の策で東雲の命を不安定な場所に置いたが、溯春に慌てる素振りはなかった。それどころか不可解そうな顔をして、「意味あるか?」と文入に問いかけている。
「ンなことしたところで、お前がゴーストになることには変わりねェだろ」
「そうかもね。だけど見過ごせるの?」
スリ、と文入が足を後ろにずらす。フェンスの幅は手のひら程度、ただでさえ足の裏が乗り切らなかったそれを、更にバランスの取りにくいつま先側で踏みつける。強風と不安定な足場のせいで、文入の身体が小刻みに揺れる。
「早く離して。飛んじゃうよ?」
文入が挑発するように問いかけた瞬間だった。文入を見ていた溯春が手を動かした。
ナイフを持つ手を上げる。そして――振り下ろす。
「な……!?」
目の前の光景に思わず止めに入ろうとした文入だったが、しかし身体が動かなかった。
「ちょ、何!?」
屋上へ戻ろうとする文入の意に反して、その足が勝手に動く。それは文入の望む方とは反対側。足場のない、地上六〇メートルの空中。
「――――ッ!!」
声にならない叫びは、誰にも聞こえることはなく。
文入の、東雲の身体が夜の空へと投げ出された。




