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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
最終章 狭間を揺蕩う亡者の最期
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悪夢に代わる安らぎ〈二〉

「――自殺発生箇所の中心はこのあたりっス」


 しばらく車で移動した後、東雲が停車して溯春に告げた。二人で車を降り、周囲を見渡す。

 そこは背の高いビルの立ち並ぶオフィス街だったが、人の姿はほとんどなかった。夜ということもそうだが、このあたりで異常事態が発生しているせいで避難させられたのだろう。


「近くにいますね。微かにあの子のニオイが……」


 東雲が空気のニオイを嗅ぎながら呟いた時、溯春は上を見ていた。その視線が向く先には二〇階はあろうかというビルの屋上がある。「溯春さん?」返事のない溯春に東雲が問いかけた直後、溯春はそのビルに向かって走り出した。


「え、ちょっと待って!」


 東雲の声を無視して溯春が向かったのは、目的地のビルと別のビルの間だった。人目のないそこに入り込むと、全身に影を纏って姿を変える。追ってきた東雲は「駄目って言ったのに……!」と顔を青ざめさせ、今まさに地を蹴った狼の首にしがみついた。


「――――ッ!!」


 一瞬にして狼が高く跳び上がる。しかし一蹴りでは当然屋上までは届かない。狼はビルの壁を足場にして、猛烈な速さで屋上へと駆け上がっていく。

 東雲はその風圧と重力によって地上へと引っ張られる自分の身体を必死に狼の方へと引き寄せた。無理矢理飛びついたせいで掴めているのは狼の毛だけ。この狼が溯春だと考えると急に邪魔だと放り出される恐れもあったし、そもそもこの毛の束が抜けてしまえば地面へ真っ逆さまだ。

 その恐怖と戦いながら東雲が掴まり続ければ、やがてふわりと身体が重力から解放された。眼下に見えるのはビルの屋上。目的地に着いたのだと安心した次の瞬間、溯春が身体を人間に戻す。「えっ……」掴む場所を失った東雲は突然の出来事に顔を引き攣らせ、しかし持ち前の身体能力でどうにか無事に屋上へと着地した。


「ッ……こっわ……落ちるかと思った……」


 ダンッ、と足から伝わった振動が全身の怪我に響く。その痛みと戦いながら恐怖だけを伝えれば、溯春がどうでも良さそうに「お前が勝手に付いてきたんだろ」と顔を顰めた。


「わあ、すごいとこから来た」


 明るい声が聞こえ、溯春と東雲はその出所の方へと顔を向けた。そこにいたのは文入だ。溯春も、途中でニオイに気付いた東雲にも驚く様子はない。

 文入もまたそれが当たり前のような顔をして、「やっぱり来てくれた」と溯春に笑いかけた。


「ていうかお兄さんも同じだったんだね。話には聞いてたけど、大きい狼とか格好良いじゃん」


 そう笑う文入は前回会った時と同じだった。無邪気に、そして嬉しそうにしている姿は年頃の少女そのもの。

 そんな文入を見て、東雲が眉を顰める。初めて会った時は溯春の語る少女の正体に懐疑的だった。だが今はもう、疑いはない。他者を自殺に見せかけて殺せる生の亡者(ライフクリンガー)で、この一時間で何人も殺している殺人犯。そう思うと嫌悪にも近い感情を抱いたが、同時に疑問も浮かぶ。


「なんで急にこんな……人を殺すの、平気じゃないって言ってただろ?」


 東雲の問いに、文入は「パパに頼まれたから」と微笑んだ。


「確かに平気じゃないけど、必要だって言われたらやるしかないじゃん? なんか撹乱したかったんだって」

「でもだからって……!」

「あたしに選択肢はない。狼のお兄さんなら分かるでしょ?」


 文入が溯春に問いかける。その問いに溯春が答える気配はなかったが、文入は構わず口を動かし続けた。


「あたし達には拠り所が必要なんだよ。あたしの拠り所はパパ……パパが望むなら叶えなきゃ。じゃないと居場所がなくなっちゃう」


 文入の言葉に東雲が眉根を寄せる。「なんだよそれ……」苦しげに呟いたが、文入は「そういうものなの」と肩を竦めただけだった。


「狼のお兄さんに殺されかけた人ね、金井(かない)さんって言うんだけど……パパはもういらないって言ってる。まだギリギリ生きてるのに、助ける気はないみたい」


 言いながら文入が視線を落とす。「嫌いじゃなかったんだけどね」と付け足した文入に、溯春がやっと口を開いた。


「理由は」

「弱いから」


 文入は短く答えると、大きく息を吸いながら空を見上げた。


「あたし達の力ってね、死んだ時にどれだけこの世を恨んでたかに比例するんだって。聞いたよ、お兄さんは刑務所の事故で死んだんでしょ? その事故でたくさん死んで、お兄さんはその様子を見ながら死んだんでしょ?」


 文入の目が、溯春を見つめる。


「お兄さんが世界を恨んだのはその事故のせい? それとも、生の亡者(ライフクリンガー)だった奥さんを殺したせい?」


 少女の問いに、東雲は溯春が僅かに動揺したのを悟った。文入は気付いていないだろうが、近くにいる東雲には確かに感じ取れたのだ。

 だが、無理もないと思えてしまう。東雲は溯春の事情はほとんど知らない。朱禰との会話で察せた部分もあるが、その会話で出てきた女性との関係性も、そして彼が悲惨な事故で()()()()()ということも初めて聞く。そしてそれらの苦痛を考えれば、むしろ取り乱さなかったことが不思議なくらいだ。


「……それも〝パパ〟ってのが教えてくれたのか?」


 だから東雲には、その溯春の声の落ち着きようが意外だった。文入の言葉は明らかに挑発しようとしたものだったのに、溯春の声は至っていつもどおりだったからだ。

 そんな溯春の反応に文入はつまらなそうな顔をすると、「うん。パパも人から聞いたみたいだけど」と頷いてみせた。


「まあ何にせよ、そんな人にはあたし達じゃ敵わない。不幸に優劣なんてないと思うんだけどね、でもカタチとして現れちゃってるからさ」


 文入が困ったように笑う。少しだけ泣きそうに目元に力を入れ、「パパはお兄さんが欲しいみたい」とゆっくりと首を振った。


「だから金井さんは捨てられちゃうし、あたしも……役に立たなきゃ、同じ」


 項垂れるように、ぽつりとこぼす。弱々しい少女の姿に東雲が顔に悲痛を浮かべる。


 その直後だった。


「――だから?」


 溯春が冷たく言い放った。いつかのようにナイフを取り出し、「だったら素直に死ねるだろ」と口端を上げる。


「溯春さん!」

「うるせェな、同情でもしたか? 要するに人殺しが人殺しに捨てられるって話だろ。しかもその理由だって本人も分かってる。その話のどこに同情の余地がある?」

「それはそうですけど……! でもアンタ前にこの子のことはゴーストになったら殺すって言ってましたよね!? 自分で言ったことなのに守らないんスか!?」

「嘘に決まってんだろ」

「嘘って……」


 東雲は眉根を寄せると、バッと溯春の前に立ちはだかった。


「アンタが平気で嘘を吐く人間だっていうのは分かりました。分かりたくないけど……でも、()()は駄目です。殺して解決だけはしちゃいけない」

「邪魔するならお前ごと殺るぞ。お前じゃ俺を止められないのはもう理解してるだろ」

「溯春さんにおれを殺す気がないのも理解してます」

「あ?」


 溯春が怪訝な声で問い返す。そんな彼を見つめ、「だってさっき助けてくれましたよね」と東雲は続けた。


「金井って人と戦ってる時、おれアンタの攻撃受けちゃいましたけど……でもアンタは途中で止めてくれましたよ。その後おれのこと踏んづけてきたの、あれって止血してくれてたんスよね? 最初はびっくりして痛めつけたいだけかと思いましたけど、あの時アンタの足には最低限の力しか入ってなかった。おれを助けてくれたってことは、溯春さんにおれを殺す気はありません」


 東雲は言い終わると、やはり強い眼差しで溯春を見つめた。二人の間に、少しばかり沈黙が落ちる。


 それを破ったのは、溯春の低い声だった。


「――自惚れんなよ」

「ッ!?」


 一瞬のことだった。東雲が気付いた時にはもう、眼前に溯春の足が迫っていた。

 咄嗟に手で受けるも、それを上回る力であっさりと蹴り飛ばされる。鼻腔に触れた狼のニオイで溯春の本気を知った東雲だったが、その時にはもう彼の身体は少し離れたコンクリートの地面に叩きつけられていた。


()っ……」

「お兄さん!」


 倒れ込む東雲に文入が駆け寄る。「そいつに擦り寄ったって無駄だぞ?」と溯春が嗤うが、文入は「そうじゃない!」と首を振った。


「普通に考えておかしいでしょ、今の! お兄さん達が喧嘩するのはあたしに関係ないけど、二人って仲間なんじゃないの!? なのになんでそうやって平気で切り捨てるようなことができるの!?」

「……馬鹿らしいな。お前も東雲に同情したのか。金井って奴が捨てられるところを見たからか?」


 心底呆れたようにこぼす溯春に、文入がムッと眉間に皺を寄せる。「なんでそんな考え方しかできないの……!」悲しげに声を上げれば、上体を起こした東雲が「いいって」と苦笑いした。


「溯春さんがああいう人なのは分かってるから。それより今はあの人に殺されないようにしないと。おれはきみのしたことを許せないし、捕まえたいと思ってるけど、死なせたいわけじゃない」

「お兄さん……」


 東雲の優しい声に、文入が肩から力を抜く。「……ありがとね」泣きそうな顔で笑い、そっと顔を下へ向けた。


「みんなお兄さんみたいに優しかったら良かったのに」


 ぽつり、小さく呟く。すると文入は顔を上げ、そのまま東雲の方へと近付けた。


 ――文入と東雲の額が、こつんと合わさる。


「ッ、馬鹿お前……!」


 その光景にこれから起こることを察した溯春が声を上げるが、もう遅かった。

 文入の身体から力が抜け、東雲に倒れ込む。東雲はそれを当たり前のように受け止めると、文入を丁寧に地面に寝かせた。


 そして、ゆらりと立ち上がる。


「あなたを殺せれば、パパはあたしを捨てないと思うんだ」


 その文入の言葉は、紛れもなく東雲の声だった。

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