悪夢に代わる安らぎ〈一〉
朱禰の家を飛び出した溯春は少し歩いたところで立ち止まると、ホロディスプレイを出した。特殊治安管理局の人間の権限を使い、彼女が得たであろう情報を探す。するとその情報はゴーストに直接関連する全ての公的機関に公開されていたようで、すぐに見つけることができた。
この一時間で飛び降り自殺が発生した位置とその情報、それから数時間前に街で目撃された黒狼のゴーストとの関わりについてもまとめられている。後半は溯春にとっては的外れとしか言いようのない内容だったが、管理局全体が勘違いをしているお陰で人手がばらけているようだ。
そしてそれらの情報のどこにも、溯春の名前はなかった。
「……揉み消しだけはうまいな」
ふっ、と嘲笑を浮かべる。この国の組織が情報操作を繰り返しているということは身を以て知っている。生の亡者の存在、かつて自分が命を落とした事故、そして黒狼のゴースト――どれもこれもが嘘ばかりで、公僕への嫌悪感が募っていく。
「――待ってくださいよ、溯春さん!」
突然溯春のすぐ横に車が停車して、そこから東雲が顔を出した。朱禰が管理局から貸与されている車だが、本人はいない。
溯春はそこまで把握すると、「足手まといは来るな」と言って歩き続けた。
「足手まといって……!」
車が徐行で追いかけてくる。その東雲の意図を察すると、溯春は狼の姿になろうとした。
「待った待った馬鹿!!」
「……馬鹿だと?」
ギロリと溯春が睨めば、東雲が「ひっ」と顔を強張らせた。ゴースト化するために黒い影を纏っている溯春の姿は、いつもの数倍迫力がある。
それでも東雲は気を取り直すように首をブンブンと振ると、「馬鹿は撤回するんで聞いてください!」と話を続けた。
「狼になるのは駄目っスよ、溯春さん。もう異常なことが起こってるってみんな気付いてるはずです。それなのに今この状況でその姿晒したら、他のゴーストクリーナーがみんなアンタを追いかけますよ」
言われて、そうだろうな、と溯春は今しがた見たばかりの資料を思い返した。朱禰の情報操作により自分との関わりには気付かれていないが、黒狼のゴースト自体は今も警戒対象だ。文入という正体の分からない敵よりも、目に見える黒狼を追いかけたくなるのは道理だろう。
「溯春さんが追いかけるのがあの子なのか〝パパ〟の方なのかは知りませんが、アンタ自身が余計なのに追いかけられてたら鬱陶しいだけでしょう?」
東雲は説得するように言うと、助手席のドアを開けた。真剣な目で溯春を見据える。
溯春はその目を白けたように見ていたが、ややしてから身に纏う影を収めた。そして車に乗り込み、「被害の中心点に行け」と東雲に指示を出す。「分かってますよ」東雲は嬉しそうに言うと、車を走らせ始めた。
――だが、会話はない。溯春が自分から話さないのはいつものことだったが、東雲は気まずそうに顔を眉尻を下げた。ちらりと溯春を見て、意を決して口を開く。
「あの、」
「黙れ」
「……まだ何も言ってないんスけど」
東雲が情けない顔で隣を見れば、溯春は前を向いたまま、「必要ないだろ」と答えた。
「お前の質問に答える気はない。獲物に関すること以外喋るな」
「……答えなくても勝手に聞きますけど?」
「喋るなっつってんだろ」
喋ることすら禁止されて、東雲の口がきゅっとへの字を描く。だが命令ほど強い語調ではなかったなと気が付くと、「あの子のこと見つけたらどうするんスか」と問いかけた。
「…………」
「獲物のことっスよ」
答えない溯春に東雲が指摘すると、溯春がギロリと鋭い目を向けてきた。あまりに凶悪な視線に東雲はびくりと肩を揺らし、「ああもう!」と焦れたように大声を上げる。
「またそうやって目で黙らせようとする! そういうの良くないっスよ!!」
しかし、それでも溯春は何も言わない。
「……分かりましたよ、喋りません。おれはおれで勝手にやりますからね」
不貞腐れたように東雲が言ったが、やはり溯春が何かを返すことはなかった。




