断末魔の嘆き〈二〉
――そのドアを開けた瞬間、朱禰は女のすすり泣く声を聞いた。
室内は昼間だというのに暗く、重苦しい空気が漂う。綺麗に整頓された室内は以前訪れた時とほとんど変わらないのに、朱禰はどういうわけか不気味さを感じた。
それは、微かに血の匂いを嗅ぎ取っていたからかもしれない。
「溯春くん……? 来たよ。〝助けてくれ〟って、陽咲に何か……――ッ!?」
薄っすらと開いたドアの隙間から寝室を見て、朱禰は不気味さの正体を知った。
「陽咲! 溯春くん!」
大きなベッドに横たわる二人。彼らの下にあるシーツは、おびただしい量の血で真っ赤に染まっている。
「今救急車を……ッ」
ベッドに駆け寄ろうとした朱禰は、しかしその足を止めた。部屋の奥側に倒れる溯春の、その更に奥。ベッドのないその場所に、白に近い、灰色のマントを着た人影があったからだ。黒髪に赤い目を持つその女を朱禰は知らなかったが、しかし顔立ちだけは見覚えがあった。
いや、顔だけではない。女のすすり泣く声にも覚えがあった。何度も何度も聞いたことのあるその声は、妹の、陽咲のもの。しかしそれは有り得ないと、溯春の隣に横たわる妹と交互に見比べながら、朱禰が一歩後ずさる。
「……殺せ」
「ッ、溯春くん!? 息が……!」
消え入りそうな溯春の声に、朱禰がはっと現実に意識を戻す。改めて溯春を見れば、彼の腹には包丁が深く突き刺さっていた。しかし出血は少ない。ベッドをこれだけ赤く染めるには量が足りない。そう瞬時に悟り、無意識のうちに陽咲へと目を向ける。
陽咲の胸もまた、赤く染まっていた。この血のほとんどは彼女のものだ。
弱々しい足取りで妹に近付き、首に手を当てる。冷たかった。脈も触れず、呼吸も聞こえない。
「これは……」
心中――朱禰の頭の中に、その言葉が浮かぶ。そしてこれが妹の望みだということもすぐに分かった。苦しむ彼女の姿は何度も見たことがあったからだ。
「そいつを殺してくれ、響希さん……」
息も絶え絶えに溯春が言う。彼の目は虚ろで、朱禰が見えているかすら定かではない。
それでも朱禰には溯春が何を求めているのか分かった。彼の隣にいる女を、妹のゴーストを、彼は殺して欲しいのだ。
だが、朱禰の口からは全く違う言葉が出ていた。
「今救急車呼ぶから、もう少し頑張って……!」
溯春の傷口にシーツを押し当て、声を張り上げる。未だ聞こえるすすり泣く声を拒むように。しかし、声の主であるゴーストが危害を加えようとする気配はない。
このゴーストは泣き女だ――朱禰の中に答えが浮かぶ。理解する。これまでの陽咲の苦しみの原因はこれだと。死の淵にいる人間の叫びが聞こえるのだと、本人が口にするのを聞いた。しかし今この時まで真剣に捉えてこなかった。何故ならその症状が出る少し前に陽咲は自殺を図ったからだ。病院で息を吹き返し未遂に終わったが、そもそも自殺に至ったきっかけが流産とも知っていたから、朱禰は陽咲の精神が不安定になっているだけだと考えていた。
けれど、今はもう違うと分かる。彼女には本当に聞こえていたのだ。死を恐れ苦しむ人々の声が。死にたくないと自分に語りかけてくる声が。
泣き女は、死を予告する妖精。ならば腹の子の異変に気付けなかったと自分を責める陽咲がその力を得ても、何も不思議ではない。
「響希さん……!」
「ッ!?」
溯春が朱禰の腕を掴む。「頼むから……」擦れた声で、訴えかけてくる。
「俺じゃ駄目だった……陽咲は殺せても、そいつは無理だったんだ……!」
「今は喋らないで! 泣き女なら無害だから、それより早く君の手当てを……!」
「先にそいつを殺してくれ……! 陽咲をこれ以上苦しめるな!」
§ § §
その言葉でやっと自分は大鎌を取り出したのだ――蘇った記憶に、朱禰の目から涙が溢れる。
そんな朱禰を嫌悪するように、「ねェよなァ、言い訳なんて」と溯春が怒りに満ちた声で告げた。
「あんたは陽咲がずっと苦しんでたことを知ってた。あいつには死にかけの人間の叫びが四六時中聞こえてるって知ってただろ。当時は生の亡者を知らなかったとしても、あんたは陽咲が精神を病んだだけだと決めつけて、見ているだけで何もしなかった……最後の最後までな! あんたがいつまで経っても手を下さないから、あいつはゴーストになってまであんたの刃に自分から首を押し付けたんだぞ!?」
「ッ……!!」
そうだ、と朱禰の脳裏に苦い記憶が過る。溯春に言われ大鎌を出したものの、しかしそれを泣き女に向けることはできなかった。
あの時あのゴーストを殺したのは、他でもないゴースト自身だったのだ。
「なんであいつばっかり自分を殺さなきゃならない! なんで何度死んでも死にきれない!? あんたならもっと早くあいつの苦しみを終わらせられたのに、あんたは傍観を選んだんだ! 役目だのルールだのを言い訳にして、あんたはただ逃げただけなんだよ!!」
怒りに満ちた声で溯春が言う。その目には涙など微塵も浮かんでいないのに、彼の言葉には深い悲しみが乗っていた。苦しみが、不条理への叫びが、聞いている者の胸を締め付ける。
二人の会話を聞いていた東雲は、もう口を挟めなくなっていた。溯春が怒り以外の感情を顕にするのは初めて見る。いつも冷静な朱禰だって、溯春の責めに身を縮こませている。たとえ断片的にしか会話の意味を理解できずとも、溯春の怒りも、朱禰の後ろめたさも、そのどちらも感じ取れてしまう。
しかし、溯春の怒りは長くは続かなかった。自分を落ち着かせるように大きく息を吸い、吐き出す。そうして息を吐ききった時にはその目はいつもの冷たさを取り戻していて、「いい加減腹括れよ」と朱禰にかけた声は突き放すような音になった。
「あいつを救ってやれなかったことを後悔してるなら、あいつと同じ存在を許すな」
朱禰の喉がコクリと動く。涙が止まる。しかしまだ、その視線は下を向いたまま。「支部長……」痛々しい姿に東雲が声をかける。それでもやはり、朱禰は答えない。
だがその時、朱禰の前に突然表示されたホロディスプレイが重たい空気を破った。
「出ろ」
ホロディスプレイが着信を知らせていると気付き、溯春が朱禰に命じる。朱禰の唇が、きゅっと引き結ばれる。
「出なきゃここに逃げ込んだ意味がねェだろ」
溯春が苛立ったように言えば、朱禰はやっと動き出した。
「朱禰です。――……え?」
通話相手の声は朱禰以外に聞こえない。彼女がそう設定しているからだ。だから溯春も東雲も何の話かは分からなかったが、会話を続ける朱禰の表情で良くない内容なのだとは察することができた。
「……分かりました。まずは状況の把握を。緊急警報の準備も怠らずに。情報を確認し次第追って連絡します」
朱禰が言い終われば、ホロディスプレイが消えた。それで通話が終わったと判断し、東雲が「支部長……何が……」と朱禰に声をかける。
すると朱禰は神妙な面持ちで東雲と溯春を順番に見て、ゆっくりと口を開いた。
「――この一時間で飛び降り自殺が何件も立て続けに起こってるらしい」
その言葉を聞いて、溯春は何も言わずに朱禰の家を出ていった。




