断末魔の嘆き〈一〉
「いっ……!」
「ごめんね、もう少し我慢して」
東雲の手当てをしながら朱禰が眉尻を下げる。攻撃の途中で止まったとはいえ、巨大な狼の爪に貫かれた肩の傷は深く、大きい。
しかし幸いなことに出血は止まっていた。その傷を消毒して、医療用のステイプラーで傷口を塞ぐ。その上から緑色のジェルシートを貼れば、東雲は「ひっ……」と情けない悲鳴を上げた。
「冷たかった?」
「……それもありますけど、これ苦手なんスよ。貼った後に……あーほらきたきたきた! これっス、これ。このジュワーって感覚が嫌いで」
「単純な怪我ならこれだけで治してくれる優れものなんだけどね」
「でも傷が大きいほどこの不快感がすんごくて……」
しゅわ、と顔をしわくちゃにする東雲に苦笑をこぼすと、朱禰は手当てを再開した。と言っても、もうほとんどやることはない。件のシートはどんな怪我にも使えるもので、これさえ貼っておけば数日で傷は治癒するのだ。
「増血剤は……やめておこうか。病院で投与されていたものがはずだものね、摂りすぎたら危険だ」
「支部長んちって病院か何かですか? シートはともかくなんで薬まで……」
治療を終え、新しいシャツを着ながら東雲が周りを見渡す。洗練された家具が並ぶこの家は朱禰の自宅だ。一見すると怪我とは無縁そうな場所だが、東雲が到着してからというもの、治療に必要なものはなんでも出てきている。
しかも今着ているシャツもそうだ、と東雲は目を落とした。「君サイズのワイシャツはないんだ」と言って朱禰が出してきたこの黒いオーバーサイズシャツは、どう見ても男物。しかし新品ということもあって、東雲は聞いていいものか、と唇をきゅっと引き結んだ。
「……いざという時のためかな」
そう言って朱禰が視線を向けたのは溯春だった。部屋の出口である玄関のすぐ近くに立ったままの彼を見て、東雲が「ああ……」と事情を察する。「でも彼には必要なかったって後から気付いたんだけど」朱禰は困ったように言って、「だから無駄にならなくて良かったよ」と東雲に笑いかけた。
それにつられて、東雲も笑い返そうとした時だ。
「――いつまでここで待てと?」
溯春の苛立った声が和やかな空気を切り裂く。朱禰は治療に使ったものを片付けながら、「ほとぼりが冷めるまでだよ」と溯春に答えた。
「今回の件に君が関わっていないと証明する必要があるからね、しばらくはうちにいてもらう」
「偽装の間違いでは?」
「どっちでもいい!」
突然の怒声に、朱禰の近くにいた東雲が固まる。しかし溯春の表情は変わらない。冷ややかな目で朱禰を見たまま、眉一つ動かさない。
それがまた朱禰の感情を逆撫でて、「誰のためだと思ってるの?」という彼女の声は強く責め立てるような響きを持った。
「せめて君が東雲くんに怪我を負わせなければ、こんな面倒なことにはならなかったんだ。あれだけ目撃されてしまったゴーストと、彼に傷を負わせた犯人の関連に気付かれたら、君は最優先討伐対象になる。良くて刑務所へ再収容だ。だから東雲くんはこの怪我でも病院に戻れないし、君だってずっとここにいたってことにしておかないと、もう二度とゴーストクリーナーには戻れなくなるよ」
真剣な面持ちで朱禰が告げる。それでも溯春は顔色を変えなかった。「必要ありません」淡々と返せば、「何……?」と朱禰が怪訝を顕にする。横から二人の話を聞いていた東雲ですらうんと眉根を寄せ、理解できないと言わんばかりの様子で溯春を見つめた。
「ゴーストクリーナーになったのは生の亡者を追うためです。もう連中のニオイは分かっている以上、肩書きなんて必要ありません」
「君がゴーストクリーナーに追われる側になるって話をしているんだよ」
「大した問題じゃない」
そこでやっと、溯春は表情を変えた。今までよりもずっと冷たい雰囲気を放ち、暗く淀んだ目を朱禰に向ける。
「鎌で首さえ狙われなければ逃げ切れる」
その言葉は異様な空気を纏っていた。それがもたらす緊張感が、朱禰の身体を強張らせる。「君は……」震えるような動きで朱禰の口はその音を発したが、しかし言葉は続かない。
沈黙が訪れる――はずだった。
「駄目っスよ」
東雲が強く言う。溯春を睨むように見つめ、口を動かす。
「溯春さんは追われちゃいけません」
「あ?」
「アンタはゴーストクリーナーとして生の亡者を捕まえるべきです」
「無理だろ」
溯春が不快そうに眉を顰める。東雲に向き直り、「連中は生きてるべきじゃない」と忌々しげに断言する。
「ただの死に損ないの化け物だ。全員ぶっ殺さなきゃ駄目なんだよ」
「……自分のこともですか?」
「ああ。全部終わったら俺は俺を消す」
「なんでそこまで……」
東雲が悲痛に顔を歪めれば、話を聞いていた朱禰が目を伏せた。それを見て、溯春が「言ってもいいですよ」と朱禰に声をかける。しかし、朱禰は何も言わない。
「…………」
「はっ、こいつに事情話す気もないクセに偉そうなこと言ってたのか」
溯春の嘲笑を聞いても朱禰が口を開くことはなかった。ただ苦しげに黙り込むばかりのその姿に、溯春の目に苛立ちが宿る。
「やっぱりあんたは逃げてるだけだよ、響希さん。後始末しかできない人間が人に命令すんじゃねェ」
攻撃的な物言いだったが、それでも朱禰は何も返さない。
「つーか向こうだってこっちのことには気付いてるはずだ。東雲を襲ったのもそうだし、さっきの男を回収したのだってそうだ。なんだったらこっちが表沙汰にできないと高を括ってる可能性すらある」
気怠げにそこまで言うと、溯春は朱禰に見下すような目を向けた。
「舐められてるんだよ、あんたは。後処理を優先して深追いしてこないってな」
「――ッそれは君がいつも一人で突っ走るからでしょ!?」
やっと反応を見せた朱禰に、いつもの冷静さはなかった。顔に怒りと悲しみを浮かべ、「周りを置いていつも勝手にやっちゃうじゃない!」と声を荒らげる。
「陽咲のことだってそう、相談すらしてくれなかった! いくらあの子が君を頼ったんだとしても、〝殺して欲しい〟だなんて頼まれたなら相談してくれればよかった!!」
そう言って溯春を見上げた朱禰の呼吸は荒く、目には涙が浮かんでいた。その涙は悲しみによるものか、それとも怒りのせいか。
だが溯春はそんなもの気にも留めていないとばかりに表情を変えず、それどころか更に冷ややかな目で朱禰を見据えた。
「相談したらあんたは陽咲を殺したか?」
「ッ……」
「死んだあいつがゴーストになってやっと動いたんじゃねェか。しかも最初無視しようとしてたよな? あのゴーストが陽咲だって気付いてたくせに、俺に言われるまで見なかったことにしようとしてたよな?」
溯春の声に怒りが滲む。その声を向けられた朱禰は狼狽えたように目を泳がせ、「それは……」と小さく口を動かす。
「『それは』? 言い訳でもあんのか?」
溯春が責め立てるように続ければ、朱禰はきゅっと瞼を閉じた。




