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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第六章 朽ちることすら許されず
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狂気の押し合い

 ぽたぽたと鮮血が落ちる。それは狼の爪の刺さる場所、東雲の肩から。大蜘蛛の男に向けられた攻撃を、間に飛び込んだ東雲が受けたのだ。


「いッ……」


 あまりの痛みに東雲の口から声が漏れる。苦痛で険しい顔をした東雲は、ゆっくりと狼を見上げた。


「そのまま押してくださいよ。そしたらこの人殺せますよ」


 しかし狼は反応しない。それでも東雲は狼を見つめ続けた。近くにある狼の口は、東雲すら簡単に飲み込めそうなくらいに大きい。尖った牙は凶器そのもの、それ以外の歯ですら噛まれたらひとたまりもなさそうだ。


「東雲くん……」


 朱禰が不安げに名を呟く。大鎌を握る手に力を込め直す。彼女の目は狼の一挙手一投足を見逃さまいとするかのように瞬きすらせず、いつでも踏み込めるように軸足を少し前に移動させる。


 その場の空気は緊張感で張り詰めていた。最初に動いたのは――狼だ。

 グルルッと短く唸り声を上げた狼が東雲から爪を引き抜く。「溯春さん……!」東雲の目には希望が宿り、しかしその視界には大きな牙が飛び込んできた。


「ッ、溯春くん駄目!!」


 朱禰が悲鳴を上げたのは、狼が東雲の身体に食らいついたからだ。「離しなさい!」朱禰が狼の方へと飛び込む。大鎌を振るう。だが狼はその斬撃を軽々と躱すと、ブルブルと頭を振って東雲を口の中から放り出した。


「くっ……!」


 受け身も取ることもできず、東雲が背中から地面に叩きつけられる。しかしその手は尚も狼を拘束する鎖を握ったまま。そして狼が朱禰の方を向くと、東雲はそれに気付くと同時に強く鎖を引いた。


 ……だが、そこに手応えはなかった。


「えっ……――ッあ!?」


 ドンッ――東雲の肩を衝撃が襲う。それは狼の爪に貫かれた方、傷口の上から何かが東雲を地面に押さえつける。


「いい加減鬱陶しいんだよ」


 そう忌々しげに言ったのは溯春だった。黒狼はもういない。代わりに酷く不機嫌そうな溯春が仰向けに倒れる東雲を見下ろすように立って、その足で彼の傷口を踏みつけている。


「ぃ……やめっ……!」

「やめたらまた喚くだろ?」


 東雲の顔に苦悶が浮かぶも、溯春は暗く笑うだけで力を緩めることはしなかった。「なんでっ……こんな……」東雲が弱々しく問いかける。だが、溯春が答えることはない。


「――溯春くん」


 溯春の首元に、透き通った大鎌の刃が添えられる。溯春はそれに気が付くと、ゆっくりと目だけを大鎌の持ち主へと向けた。


「これじゃァ殺せませんよ」


 冷たい声で溯春が言う。その視線の先にいた朱禰はきゅっと眉根を寄せて、「分かってる」と苦しげに絞り出した。


「まだ、人に……戻れたんだね……」

「便利でしょう、何かと」


 答えながら溯春が顎で示したのは地面に落ちた鎖だった。黒狼と人間、その大きさの違いを利用して鎖から抜けたのだ。


「その足をどけて」

「どうしてです?」

「どうしてって……東雲くんが苦しんでいるだろう!?」


 朱禰が声を荒らげれば、溯春はニィと口端を上げた。


「それが何か?」

「ッ、いい加減にして!」


 溯春の首に突きつけられた刃が、その肌に触れる。


「東雲くんはただでさえ重症なんだよ。これ以上悪化させれば本当に命が危ない」

「でしょうね」

「だからその足をどけてって言ってるんだよ! またバディを死なせるの!?」

「分かった上で断ってるんですよ」


 まるで会話にならない溯春の反応に、朱禰はぐっと顔を歪めた。苛立ち、不信、嫌悪――溯春に対する負の感情が滲み出す。

 しかし溯春は相変わらず涼しい表情のまま。それどころか一人興奮する朱禰を面白がるかのように目を細め、嘲笑するような笑みを浮かべている。


「正気、なんだよね……?」


 あまりの反応に、朱禰が縋るように問いかける。


「いいえ?」

「……冗談も大概にしてよ」


 そう朱禰が低い声で言えば、溯春はすっと笑みを消した。


「正気なんてとっくに捨てましたよ。だから陽咲(ひさき)を殺せたんです」

「ッ……」


 溯春の言葉に、朱禰の顔に悲痛が浮かぶ。すると溯春はおもむろに手を上げて、首元にある大鎌の柄を押した。大した力を入れている様子はないのに、大鎌は押されるがまま、溯春の首元から離れていく。


「やっぱりあんたには無理でしたね」


 溯春が呟けば、朱禰の手の中から大鎌が消えた。溯春が持ったからだ。そして彼が手にした途端、大鎌は完全に消え去った。


「とりあえずそいつはもらいますよ。〝パパ〟って奴の居場所を吐いてもらわにゃなりません」


 言いながら溯春が大蜘蛛の男に目をやる。まだ辛うじて息はあるが、もう長くはないだろう。


「邪魔はしませんよね? 禮木(れぎ)の言うとおり生の亡者(ライフクリンガー)が人為的に作られたんだとしたら、そいつが陽咲を苦しめた張本人かもしれないんですから」

「…………」


 朱禰はもう、何も答えなかった。苦しげな顔のまま虚空を見つめるばかりで、話を聞いているかさえ定かではない。


 溯春はそんな朱禰の反応を肯定と受け取ると、足元へと視線を移した。そこには傷口を踏みつけられ、今にも苦痛で意識を失いそうな東雲がいる。「静かにできるじゃねェか」溯春はそう笑うと、上着を脱いで乱雑に丸めた。続いて足を離せば、傷口からドッと血が溢れ出す。溯春はその傷口の上に丸めた上着を落とすと、「押さえとかねェと本当に死ぬぞ」と言って東雲から離れた。


「そはる、さ……」


 虫の鳴くような声で東雲がその名を呼ぶ。だが、溯春が振り返ることはない。

 迷うことなく瀕死の男の方へと歩いていく溯春の背を見て、東雲が嫌な予感を覚える。――その瞬間だった。


 突然の閃光が、東雲達から視界を奪った。


「ッ!?」


 それは音もなく、ニオイすらなく。ただただ一瞬の光が東雲達を包み込む。


「――……ふざけんなよ」


 溯春の苛立った声が聞こえたのは、光が収まった後。その声に東雲が溯春の方へと目を向ける。「溯春さん、何が……」強すぎる光のせいで見え方がおかしい。それでも視界が奪われる前と同じ位置に溯春がいるのが分かった。

 そして、異変に気付く。


「溯春くん、彼は……?」


 訝しげに朱禰が呟く。それは今、東雲が抱いた疑問と同じもの。


「俺が知るワケねェでしょう」


 溯春が不機嫌そうな声で答える。


 彼らの視線の先に、先程までいたはずの男の姿はなかった。

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