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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第六章 朽ちることすら許されず
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孤高と従順の牙〈三〉

『人間は殺させませんよ、溯春さん』


 力強く言い放った東雲だったが、しかしその顔色は悪かった。当然だ、瀕死の重症で数時間前に目覚めたばかり。病院から抜け出してきたのか、いつものスーツは着ているが、シャツもジャケットもとりあえず羽織ってきただけとしか思えない状態。呼吸は乱れ、額には汗が浮かんでいる。それが走ってきたせいだけではないことは、誰の目にも明らかだった。


 それでも、鎖だけはしっかりと握っていた。きつく引っ張り、狼が自由に体を動かせないようにしている。


「その人、生の亡者(ライフクリンガー)でしょう? だったら人間です! 人間は殺させま……――うわッ!?」


 啖呵を切るような東雲の言葉は、狼が鎖を引っ張り返したせいで無理矢理止められた。

 鎖を持つ東雲の身体が浮く。ブンッと勢い良く振られ、最初の位置から離れた地面に落とされる。

 ほとんど落下するように着地した東雲だったが、その腕は鎖を掴んだままだった。


「東雲くん、駄目だ! いくら追跡官でも彼には敵わない! 傷が開けば君の命が……!」

「じゃあ黙って見てろって言うんスか!?」


 自分を止めようとする朱禰に、東雲が大声を張り上げる。


「支部長が溯春さんを殺すの、ただここで見てろって言うんスか!?」


 東雲はそう叫ぶと、狼の方へと目を移した。

 最初はこの黒狼が溯春だと言われても信じられなかった。だが実際に今こうして対面してみれば、これは間違いなく溯春だと分かる。

 何故ならこの狼のニオイは知っていたからだ。これまで溯春から何度も感じたことのあるニオイ。彼は飼い犬のニオイだと言っていたが、それも嘘だったのだ。

 隠しきれない狼のニオイを隠すための嘘。飼い犬のニオイなどという溯春には有り得ない粗末な嘘が、より現実感を東雲に与える。

 東雲は歯痒そうに顔をくしゃくしゃにすると、「溯春さんも溯春さんだ!」と狼に向かって話し出した。


「アンタがその人のこと殺しに行っちゃうと思ったから黙ってたのに、自力でニオイ辿れるとか聞いてませんよ!?」


 東雲がちらりと見たのは大蜘蛛だった。狼に痛めつけられた大蜘蛛は力を失い、今も狼から与えられ続けている苦痛に呻き声を上げることしかできていない。


「ていうかアンタ、おれがアンタを護りたいと思うのは自由だって言ったじゃないスか! なのにその言葉実行したらバディ解消とかふざけてます!? 完全に罠! 詐欺! めっちゃムカつく! この極悪顔!!」


 東雲は一気に捲し立てると、鎖を持つ腕に力を込め直した。そして、狼を大蜘蛛からどけようと鎖を引く。

 しかしまた、東雲の身体が宙に浮いた。


「ちょ……!」


 バンッ、と東雲の背が建物の壁にぶつかる。「()って……」弱々しくこぼして、痛みの原因となった狼をじっとりと見上げた。


「ああそうっスか。そっちがその気ならおれだってやってやりますよ」


 低い声で東雲が言う。不満を顕にし、「勝負しましょう」と狼を見つめる。


「アンタとおれで根比べです。絶対にこの鎖緩めませんからね」


 東雲の声に、狼の鼻がピクリと動く。不愉快そうに鼻に皺を寄せ、大きな牙が顔を覗かせる。

 そして、その目が東雲の方を向いた時だった。


 ギャンッ! ――狼の悲鳴が上がった。一瞬の隙を突き、大蜘蛛の足が狼の胸を貫いたのだ。


「ッ、溯春さん!!」


 思わず東雲が鎖を緩める。慌てた顔で狼の方へと駆け寄りかけたが、ダンッと響いた大きな足音が彼を止めた。


 続いて聞こえたのは悲鳴。大蜘蛛の悲鳴だ。狼が思い切り大蜘蛛を踏みつけ、苦痛を与えているのだ。

 ギィィィッ! ――大蜘蛛が叫ぶ。体の中心を狼によって地面に押し付けられたまま、のたうち回るように足を動かす。狼に刺さっていた足も抜け、黒い毛皮で隠された傷口からはぼたぼたと血が滴り落ちた。


 しかし、それも束の間のこと。狼の胸から流れていた血はすぐに止まった。毛皮から覗いていた赤い血肉はグチャグチャと湿った音を立てながら、だんだんとその範囲を小さくしていく。

 東雲が呆気に取られたようにその様子を見ていると、一分もしないうちに狼の胸から傷が消えた。


「……マジ?」


 東雲の頬が引き攣る。喜んでいいのかどうかが分からない。何せ自己再生するゴーストは初めて見たのだ。

 ゴーストの命を奪えるのは、処理権限を付与された大鎌だけ――それがゴーストクリーナーにとっての常識だ。それ以外のものでは傷をつけることはできても殺すことはできない。

 だが、かと言ってその傷が一瞬にして塞がるかといえば、誰もがそんなことはないと答えるだろう。傷は傷なのだ。いくらゴーストといえど、再生するまでにはそれなりの時間がかかる。


 その常識が、目の前で覆された。東雲は驚愕で目を見開いたが、しかし同時に自分の中が納得感で満ちるのも感じていた。

 あの狼の傷は、一瞬にして治る。ならば今までの溯春の行動も説明できる。あれだけ自分の身体の傷に無頓着だったのは、すぐに治るからだ。

 先日見た首の切り傷も、恐らくは治っている途中だったのだろう。あんな大量の血を流すほどの傷が、たった数分でその出血を止めることなど有り得ない。


 納得と理解が東雲の頭をすっきりさせるも、やはり喜ぶことはできなかった。

 むしろ、抱いたのは絶望。直前の自分の発言を思い返し、なんて無謀なことを言ってしまったのかと顔を顰める。


「……これ、根比べして勝ち目あります?」


 東雲が目だけを朱禰の方へと向ける。その視線の先で、朱禰がなんとも言えない表情で首を横に振った。


「勝てない勝負しかけちゃったかも……」


 呆然と東雲が呟く。既に狼の怪我に驚いて鎖は緩めてしまっているが、改めて根比べを仕掛けられるほどこの勝負に希望が持てない。それにそもそも根比べに勝てたとして、何か意味があるのだろうか。勢いで口走ってしまったが、狼に溯春としての意識が残っていなければ完全に無駄な行動でしかない――東雲の思考がどんどん悪い方へと落ちていく。その時だった。


「ゴフッ……!」


 聞こえたのは誰かが噎せる音。咄嗟に東雲と朱禰がその音の方を見れば、そこには大蜘蛛がいた。

 しかし様子がおかしい。シュー……と音を立て、大蜘蛛がみるみる小さくなっていく。そしてもう一度「ゴホッ……」と噎せた時には既に人間の姿に戻り、口からは大量の血を吐き出していた。


「ッ、溯春さん! もうその人離してください!!」


 男は明らかに虫の息だった。先程まで暴れていたのが嘘のように手足はくったりと地面に放り出され、辛うじて開いている目は虚ろ。肺に血が溜まったのか何度も噎せているが、しかし本人の意志ではなく身体の反射による動きだということは考えるまでもない。


 もう、男は死の淵にいた。それなのに狼は男を離さない。その身体に前脚を押し当てたまま、それどころか改めてトドメを刺そうとするかのように空いている脚を振り上げる。


「溯春さん!!」


 東雲が声を張り上げる。

 ドッ……と、何かを貫く音がその場に響いたのは、その直後のことだった。

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