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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第六章 朽ちることすら許されず
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孤高と従順の牙〈二〉

 目にも留まらぬ速さで逃げ出した大蜘蛛は、しかしそう長い距離は逃げられなかった。狼が追ってきたからだ。


 街中を抜け、古い工場跡地に差し掛かったところで大蜘蛛の逃走は終わった。撤去されずに残っていた廃屋が大蜘蛛の進路を阻んだのだ。

 どちらへ進もうかと迷うように減速した瞬間、狼の前脚が大蜘蛛を捉えた。走ってきた勢いそのままに地面へと押し付け、長く鋭い爪が大蜘蛛に突き刺さる。


 ――ギィィィッ……!


 まるでガラスを爪で引っ掻いたような嫌な音は、大蜘蛛の悲鳴だった。体を捩り、八本の足で必死に狼を追い払おうとする。狼は大蜘蛛を踏みつけたまま鬱陶しそうに体をブルブルと揺らし、近くにあった足の一本に食らいついた。


 嫌な悲鳴がまた、空気を切り裂く。だがその悲鳴に突如、別の音が混じった。


「――溯春くん!!」


 朱禰だった。車から降り、悲痛な面持ちで朱禰が狼を見つめる。いつもの冷静さはそこになく、忙しなく揺れる瞳が彼女の動揺を表す。


「……私はまだ、君を殺したくないよ」


 朱禰が訴えかけるも、狼は反応しなかった。大蜘蛛に突き刺した片脚を上げ、爪を立て、そして再び大蜘蛛へと振り下ろす。

 だが、大蜘蛛には当たらない。寸でのところで避けたからだ。そして自分を押さえつける力が片脚分弱まったのをいいことに、大蜘蛛はそれまでよりも激しく暴れ出した。


 大蜘蛛の足が狼の顔を狙う。既に捕まっている一本はそのままに、残りの七本の足を全て駆使して狼を自分から引き剥がそうと試みる。

 そのあまりの手数の多さに、狼が少しだけたじろぐ。いくら牙があると言っても、足の数が違うのだ。大蜘蛛を押さえつけつつ捌くには、前脚一本と口だけでは到底足りない。


 狼が大蜘蛛の相手に手こずっていると気付き、朱禰はキッと視線を強めた。「《キルコマンド実行申請》」虚空から朱禰の手に大鎌が現れる。だがまだ、実体は持たせない。実体を持たない大鎌ではゴーストは殺せないが、傷をつけることはできる。

 朱禰は決意したように大鎌を構えると、狼に向かって走り出した。


 だが――


「――ッ!?」


 ブンッと狼の尻尾が振られて、朱禰の身体を弾き飛ばした。


()……」


 大鎌を支えに朱禰が立ち上がる。そして顔を上げた彼女の目に映ったのは、今にも大蜘蛛の首に食らいつかんとしている狼の姿だった。


「《ID検索指定》――……っ」


 咄嗟に言いかけて、しかし朱禰は口を止めた。考えるのは、この大鎌のシステムの仕組み。

 大鎌は使用ごとに指定した個体しか処理できない。毎回一体ずつ申請するのは、その個体が本当にゴーストなのか確認しなければならないためだ。間違って人間やただの動物を指定したとしても、このシステムは魂を斬り裂く大鎌に処理権限を付与しない。


 だから、朱禰にはそれ以上言えなかった。あの狼は、今の溯春は紛れもなくゴーストだからだ。


 その処理権限を申請して、通ってしまったら――その後を想像して、朱禰の表情が険しくなる。

 魂に付与されているこのIDは、ゴーストと溯春で同一になる。つまりあのゴーストのIDをシステムに確認させるということは、あれが溯春だと記録に残すことと同じ。

 そして、通常はゴーストが人間に戻ることなど有り得ない。仮に溯春が人間に戻ったとしたら、その時システムは溯春を何と判断するのか。


 今ここで自分がしようとしていることは、溯春の未来を潰すことになるのではないか?


 考えて、朱禰の身体が固まる。早く溯春を止めなければならないのに、誰も自分の動きを阻んでいないのに、それなのに身体どころか指先すら動かすことができない。


 その時だった。大蜘蛛に食らいつこうとしていた狼が、朱禰の方をちらりと一瞥した。


「ッ……!」


 金色の瞳が朱禰を嘲笑う。お前にはどうせできやしないと言うかのように冷たい眼差しを向け、そして一瞬のうちにまた大蜘蛛へと視線を戻す。


 その行動が、その時間の短さが、朱禰を余計に惨めな気分にさせた。


「溯春くん……!」


 声を上げる。しかし狼には届かない。

 凶暴な形をした前脚が大蜘蛛に振り下ろされる。長く鋭い爪が大蜘蛛の体を引き裂く――ことはなかった。

 狼の動きが、その巨躯に絡みついた鎖に止められたからだ。


 それは追跡官に与えられている武器。つまりはここに追跡官が、あの黒狼が溯春だと知らない誰かがいる。


「ッ、誰が……!」


 誰も呼んでいないのにどうして――朱禰が慌てて顔を上げる。この件は全て極秘に処理しなければならない。たとえ自分の部下でも事情を知らない者に関わらせるわけにいかない。


 けれどそんな朱禰の焦燥は、鎖の主を見てすうと消えていった。


「人間は殺させませんよ、溯春さん」


 そう言って狼を睨みつけたのは、病院にいるはずの東雲だった。

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