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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第六章 朽ちることすら許されず
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孤高と従順の牙〈一〉

 溯春が東雲の病室から去って、一時間後のことだった。病院にやってくる面会の人間もいなくなり、院内が静まり始める時間。


 その静かな空間の中、ぼんやりと溯春との会話を思い返していた東雲の視界を突然遮るものがあった。着信を知らせるホロディスプレイだ。

 東雲は出る気になれなかったが、しかし表示された朱禰の名を見て、渋々その着信に応えることにした。


「はい、しの――」

〈東雲くん、溯春くんの居場所分かる!?〉


 東雲が名乗るのも待たず、朱禰が慌てた声で問いかける。


「え、なんスか急に……」

〈いいから! あとニュース見て!〉


 言われて、ホロディスプレイにニュースを映し出す。するとどの局も同じ内容でもちきりだった。街中でのゴースト目撃情報だ。

 映っているのは黒く大きな狼。動物で言えば象すらも超える巨躯を持った狼が、隠れることなく街中を駆けているのだ。


「ゴースト!? 待った、これめちゃくちゃヤバい奴じゃ……!!」

〈そんなことより早く溯春くんの居場所こっちにも共有して!〉

「は、はい!」


 珍しい朱禰の様子に、東雲も慌ててホロディスプレイを操作した。共有しろとの言葉どおり、朱禰からも溯春の位置情報が見えるように設定する。

 いくら溯春が元囚人とはいえ、本来はバディである東雲だけの権限だ。しかし今の東雲に朱禰の意図まで考えている余裕はない。それどころか設定する際に目に入った位置情報がニュースで映されている現場近くだと気が付いて、「朱禰さん、これ……!」と東雲の頭の中は真っ白になった。


「まさか溯春さん、コイツ狩りに行ったんですか!? 一人で!? どう見ても無理でしょう、あんな凶暴そうなヤツ!!」


 狼のゴーストの力は映像を見ただけでは分からない。しかし狼という動物自体が獰猛なのだ。どんな怪異かも分からないが、ゴーストであればその獰猛さを引き継いでいると考えて間違いない。

 そして人間と狼という動物の戦いならば、武器がなければ狼が勝つ。その狼があんな巨体を持ったならば、いくら大鎌を使っても人間である溯春が一対一で敵うはずがない。

 そう心配した東雲だったが、朱禰からは全く想定していなかった言葉が返ってきた。


〈あれが溯春くんだよ〉


 東雲は朱禰が何を言っているか分からなかった。「え……?」ただただ声を漏らすことしかできない。しかし朱禰が彼の理解を待つことはなかった。


〈東雲くん、誰に何を聞かれても溯春くんは自宅にいるって押し通して。今ダミーの位置情報とバイタル送ったから、それを見せて納得させて〉

「待ってください、一体何が……」

〈溯春くんも生の亡者(ライフクリンガー)なんだよ〉

「は……」


 朱禰の言葉に、今度こそ東雲の思考が止まった。


『――あいつらの存在が胸糞悪いからだよ』


 初めて生の亡者(ライフクリンガー)の存在を東雲が知った時、彼らを殺したい理由を聞いた東雲に溯春はこう答えたのだ。それくらい溯春は生の亡者(ライフクリンガー)という存在を憎んでいて、生きていることすら認めていない。

 それなのに、そんな彼自身もまた生の亡者(ライフクリンガー)である――東雲が事態を飲み込みきれずにいると、朱禰の深刻そうな声が聞こえてきた。


〈あんなことになってるってことは、きっと溯春くんは正気を失ってる。だから私が止めに行く。君は彼が戻れるように周りから事実を隠して〉


 強い語調に東雲の理解が一気に追いつく。しかし焦燥感は増した。


「で、でも! 溯春さんが正気じゃないってことは、支部長も危ないってことっスよね!? あんなのただの人間が一人で相手にできるワケがないでしょう!?」


 あのゴーストを止めに行くのが溯春から朱禰に変わったところでその事実は変わらない。ゴーストに、溯春に自我があれば違うが、朱禰の口振りではそれを期待することはできないのだ。


〈……彼を狩るのは私の役目だ〉


 低い朱禰の声が、東雲の口を止める。


〈私は彼が生の亡者(ライフクリンガー)だと知った上で外に出した。溯春くんと約束してるんだ。いつか彼が人間性を失ったら、その時は私が処分するって〉

「そんな……」


 処分する――その意味は考えずとも東雲には理解できた。今の溯春はゴーストそのもの。人間の肉体がどうなっているかは分からないが、仮に文入(ふみいり)のようにどこかで眠っているだけだとしても、ゴーストとなった魂を処分すれば結果は同じ。肉体に戻るべき魂はこの世から消え去るのだ。

 朱禰の言葉が示す未来に、東雲の顔が血色を失う。


〈だから頼んだよ、東雲くん〉


 そう言って朱禰は通話を終了したが、東雲は何の反応も返すことができなかった。



 § § §



 風を切る。地面を蹴る。時には壁を足場に、時にはビルの屋上すらも飛び越えて。

 時折響く悲鳴すらも聞こえないかのように、巨大な黒狼は走り続けた。


 そして、止まる。それは街のど真ん中。

 突然現れた巨大なゴーストに近くにいた人々は驚き、恐れ慄きながら一目散に安全な方へと逃げていく。


 残ったのは、狼の前にいる男だけ。


「は……なんだこれ……」


 男が顔を引き攣らせる。若い男だった。年齢は東雲よりも少し下くらいで、大学生のような服装をしている。

 男は少しの間、目の前に現れた狼を呆気に取られたように見ていたが、不意にニィと笑みを浮かべた。


「お前格好良いじゃん。そういうゴースト好きよ、俺」


 そして、ポケットから何かを取り出す。それを口に当てて息を吹き込めば、ピィーッと笛のような甲高い音がした。


 狼の耳がピクリと動く。不快そうに耳を後ろに向け、次の瞬間には歯を剥き出しにして唸り声を上げた。


「は? なんで効かねぇの?」


 男は不思議そうな顔で何度も何度も音を鳴らした。しかし狼の態度は変わらない。それどころかどんどん唸り声を強くして、バッと勢い良く前脚で男を殴りつけた。


「ッ……嘘だろなんで!!」


 男が間一髪で狼の攻撃を避ける。その顔は驚愕に染まり、「意味分かんねぇ!」と苛立った声を上げる。


「どんなゴーストでも操れるんじゃねぇのかよ……!」


 男が独り言のように言えば、狼の目がギョロリと男を睨みつけた。「チッ!」その敵意に男が舌打ちをする。「仕方ねぇな……!」思い切り息を吸い込み、手に持っていた笛にその息を吹き込んだ。


 ピィーッ……――笛の音が響き渡る。それは先程のものより更に少しだけ高かったが、嫌な音であることには変わりない。

 その音で、風がざわめく。狼はただただ嫌そうに唸っただけだったが、しかし突然勢い良く顔を上げた。


 狼の目にはまだ何も映らない。だがその耳をピクピクと動かして、視線の先の音を聞こうとしている。

 そして、笛の音が止んだ直後。


 三体のゴーストが姿を現した。


「流石に弱ったら操れるだろ!」


 男が高らかに笑う。彼が笛を吹けばゴースト達は狼に狙いを定め、一気に突進して距離を詰めた。

 あるモノは牙で、あるモノは爪で狼を狙う。複数のゴーストからの攻撃を一度に向けられた狼は体勢を低くし、そして――


「……は?」


 ――ゴースト達を一掃した。


「いやいやいや、ないだろ。なんだよそれ……」


 男が呆然と目の前を見つめる。あるゴーストは狼に首を噛まれ、あるゴーストは前脚で踏み潰され、またあるゴーストは狼が口に咥えた獲物(仲間)を振り回したせいで壁に叩きつけられている。

 あっという間の出来事だった。一瞬ではないが、襲いかかった数を考えればそれに等しい時間。


 狼がもう一度頭を振れば、その口に捕らわれていたゴーストが千切れてぼとりと落ちた。狼の口から流れるのは、そのゴーストの緑色の体液だけ。狼は不味そうに首を振ったが、すぐに空いた口で足元にいた別のゴーストの頭を掴んだ。そして、今度は狙ったように引き千切る。

 その瞬間、最後に残ったゴーストが奇声を発した。人間に近い姿をしたそのゴーストに、狼が迷うことなく前脚で飛びつく。グチャリという音と共に、濁った赤色の飛沫が上がる。


 ゴーストはどれもまだ生きていた。しかし、まさに虫の息といったところ。その惨状を目の当たりにした男はガタガタと身体を震わせ、「嘘だろ……」と弱々しい声を漏らした。


「なんなんだよ、お前……こんな化け物どこにいたんだよ……!」


 怯える男の姿を、狼の金色の瞳が捉える。返り血を浴びたその姿は、これまでよりも一層凶悪に見えた。

 ピクリピクリと鼻を不愉快そうに動かし、低く、雷鳴のような唸り声を響かせる。


 ――そして、狼が男に襲いかかろうとした時だった。


「ッ、付き合ってられるか!!」


 男の姿が歪む。一瞬にして大きく膨れ上がった身体からは四本の足が生え、かと思えば人間の特徴が消え失せて、完全に姿が変わった。

 大蜘蛛だった。狼に引けを取らないほどの、巨大な蜘蛛。


 男だったその蜘蛛は宙へ糸を吐き出すと、目にも止まらぬ速さでその場から逃げていった。

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