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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第六章 朽ちることすら許されず
42/58

世界の向こう側〈一〉

 ――溯春が目を開けると、ガラス越しに刑務所の天井が見えた。

 背中には慣れた感触。長時間動かなくても血流が滞らないよう、定期的に身体をほぐされるベッドだ。(ぼう)にあるベッドよりもよっぽど寝心地は良いが、しかしまどろみを感じることは一切ない。

 それに、首が動かなかった。安全のため上を向いた状態で保定されているからだ。両方のこめかみに触れていたヘッドホンのような機械が離れていくと、首も解放される。そして全身を閉じ込めていたガラスの蓋も開き、やっと自由になった溯春はベッドの上で上体を起こした。


「……気持ち(わり)ィ」


 額に手を当て、ゆるゆると頭を振る。VR酔いの症状だった。直前までいた仮想空間で、上下左右はおろか、重力を無視した体勢で動き回っていたせいだ。


「いい加減人間の感覚に合わせろよ……」


 何度目か分からない同じ文句。しかしこの文句が上に通ったことはない。

 この仮想空間へのダイブはゲームではなく刑務作業なのだ。作業の効率を重視し、作業員である囚人の感覚が度外視されるのは致し方のないこと。最低限命と健康の保証をされているだけで、それ以上は求めても無駄だった。


 ふらふらと頭を揺らしながら、溯春は机ほどの高さのあるベッドから足を下ろした。今日の刑務作業はこれで終わりだ。周りにはまだベッドで眠る者達がいるが、彼らは溯春の交代要員。目覚めることはない。

 溯春と同じように今日の作業を終えた者もいたが、溯春が彼らに声をかけることはなかった。彼らもまた、互いに声をかけない。皆一様にベッドから下り、部屋の外へと向かっていく。


 その時だった。


「ッ!?」


 ドンッ――どこかで轟音が響いた。同時に襲ったのは大きな揺れ。吐き気で足のふらついていた溯春は耐えきれずその場に倒れ、周りからも悲鳴のような声が上がった。


「何だよ……!」


 溯春が周りを見ようとした時、壁がバリバリッと呻き声を上げた。そして――


 ――無数の鉄骨が、溯春達の上に倒れ込んだ。



 § § §



 誰もいない公園で、水道から水が流れる音が響く。その水の音はただ流れるだけなく、強い勢いのまま何かに当たっているように聞こえた。雨は既に上がったとはいえ、つい先程まで小雨が降っていたことを考えると似つかわしくない音だ。


 その音の傍には溯春がいた。膝に手を突いて、腰と同じくらいの高さにある蛇口の下に頭を差し出し、そこから勢い良く出てくる水を後頭部で受け続けている。


「…………」


 冬場の水道水は冷たい。頭が冷やされる。ぼんやりと排水溝を見つめる溯春の目は金から黒に戻り、先程までの興奮も全く残っていない。ただただ水の流れていく音だけが、溯春の脳内を支配する。

 その沈黙を、突然表示されたホロディスプレイが遮った。ゆるりと目を動かせば、東雲の入院する病院からの着信だと分かる。

 溯春は緩慢な動きで蛇口の下から頭を引き抜くと、顔を流れていく水を気にすることなく着信に応じた。



 § § §



 ガラリと音を立て、東雲の病室が開く。開けたのは溯春だ。


「あ、溯春さん……って、なんでそんなびしょ濡れなんスか」


 中にいた東雲が顔を上げる。眠っていた彼が起きていることに溯春が驚くことはなかった。病院からの連絡がその件だったからだ。


「相手の顔は」


 東雲の疑問を無視する形で溯春が問いかければ、東雲は「……いきなりっスか」と渋い表情を浮かべた。


「お前が襲われた現場に行ったが、昨日から降り続いた雨で何も残ってなかった。ゴーストは出たがな」

「ゴーストが? 偶然……じゃないっスよね」

「だろうな」


 つかつかとベッドの横まで歩き、しかし座ることなく溯春が会話を続ける。その様子に東雲は一層表情を暗くしたが、溯春が気に掛ける気配はない。


「それで、相手の顔は?」

「……見てません」

「ニオイは」

「……覚えてません」


 溯春の問いに、東雲が俯いて答える。きゅっとシーツを握れば腕に痛みが走る。だが今は、そんなことは気にならなかった。


「嘘吐いてるだろ」


 厳しい声が降ってきて、東雲はまた手に力を入れた。強く握りすぎたせいで腕だけでなく胴体も痛い。しかし、何も返すことができない。


「言え。何を覚えてる」

「……言いません」


 東雲はそう小さな声で答えたが、その声には明確な意志があった。それを感じ取り、溯春が顔を顰める。不快だと言わんばかりに「言っとくがハンドラーとしての命令だぞ」と低い声で続けたが、東雲は「分かってます」と首を振った。


「それでも、言えません」

「――あ?」


 その声に東雲の肩がびくりと跳ねた。あまりに不機嫌で、攻撃的で、責め立てるような音だったからだ。

 まるで怒りに殴りつけられたかのような感覚が東雲を襲う。ぎゅっと身を強張らせて続く攻撃に身構えたが、その次が来ることはなかった。


「あの……?」


 恐る恐る東雲が顔を上げれば、溯春は病室から出ていくところだった。「溯春さん!」咄嗟に呼び止めて、しかし「どこ行くんスか……?」と弱気に問いかける。


「お前には関係ない」

「関係あります! おれはアンタのバディで――」

「解消だ」

「……え?」


 東雲は言われたことをすぐに理解できなかった。呆然とする彼に溯春が目を向ける。その視線の温度のなさが、東雲の理解を妨げる。

 だが、溯春がそれを待つことはなかった。


「命令に従えない犬はいらない」


 無表情に言い放ち、病室を後にする。彼の出ていった扉が閉まっても、東雲はそこを見つめたままだった。

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