罪悪感の上に成り立つ信頼
その日は雨が降っていた。明け方からしとしとと降り始めた雨は昼前には本降りとなり、夕方近くなってやっとその勢いを落ち着かせてきている。
病院の個室でその雨を眺めていた溯春は、部屋の外から近付いてくる気配を感じて目線をドアに移した。
「先生と話してきたよ」
入ってきたのは朱禰だった。病室内を歩き、ベッドの横で止まる。彼女が見ているのは東雲だ。全身に痛々しく包帯が巻かれ、そうでないところにもいくつか赤紫色の真新しい痣が見て取れる。
眠ったまま、来客の気配にすら反応しない東雲を朱禰は辛そうに見つめると、「普通の傷じゃなかったって」と溯春に話しかけた。
「そもそも追跡官じゃなければ死んでた。幸い管理局の提携病院に運ばれたから助かったけど、そうじゃなければ追跡官だと気付かれずに諦められていたかもしれない……彼にここまでできるなんて、人間の仕業じゃない」
ぐっと、朱禰が眉間に皺を寄せる。そして溯春に目をやって、「独自に生の亡者を追っていたんだろう?」と続けた。
「だったら相手は彼らかも。現場周囲にゴーストの出没情報はなかったから」
「でしょうね。覚えのあるニオイだ」
「……〝パパ〟って人?」
「ええ。ですが本人じゃないと思います。多分あの文入とかいう小娘みたいに唆されている奴かと」
溯春の言葉を聞いて、朱禰の顔は更に険しくなった。「これ以上探るなってことじゃないの?」心配そうな目で溯春を見つめる。
「あの少女が絡んでるなら東雲くんを自殺と見せかけて殺すこともできたはずだ。それなのに生かしてるってことは、何か伝えたいことがあるのかも」
「だとしても関係ありません。こいつが襲われたのは不注意だからですよ」
「君が狙われなかったのは周りに気を配ってるからだって? わざと君じゃなくて東雲くんを狙ったかもしれないじゃない。……君には手を出せないと感じた、とかさ」
「何にせよ襲われる方が悪い」
不安そうな朱禰の一方で、溯春の様子はいつもと変わらなかった。時折ちらりと東雲を視界に入れるが、それだけだ。表情を変えることも、声に感情を滲ませることすらない。
そんな溯春を朱禰は一層辛そうに見つめて、しかし交わらない視線にそっと東雲へと目を落とした。
「……禮木の話はどこまで信じてるの?」
「俺は結構気に入ってますよ」
やっと、溯春の表情が変わる。小さく口角を上げて朱禰を見る。その気配に朱禰がつられて溯春を見れば、溯春はゆっくりと口を開いた。
「生の亡者が意図的に作られたんだとしたら、作ったそいつを始末すれば全部解決する」
そこに暗い悦びを見つけて、朱禰はさっと目を逸らした。白いシーツの皺を見つめながら、「……そうだね」とどうにか同意を絞り出す。
「もしかしたら、その人物なら元に戻す方法も知っているかもしれない」
そこまで言うと、朱禰は音もなく大きく息を吸い込んだ。膨らんだ胸が無理矢理背筋を伸ばす。その動きと共に顔を上げ、「必要なら別の追跡官を手配するよ?」といつもの調子で問いかけた。
「東雲くんの回復もいつになるか分からない。その間一人でゴーストを相手にするのは難しいだろう」
「いりません。一人でも仕事はできる。見張りが必要ならあんたがやってくださいよ。短期間ならイレギュラーな対応でも通るでしょう」
「好都合って思ってない?」
あまりに淡々とした溯春を見かねて問いかける。朱禰は未だ、溯春から東雲を心配する言葉を聞いていない。口にしないだけかとも考えたが、別の追跡官の話を出しても顔色一つ変えないのは何故か――追跡官という見張りがいなくなることを歓迎しているとしか思えず、朱禰の表情がそれまでと違った険しさを持つ。
しかし、やはり溯春の様子は変わらない。
「他にどう思えと?」
本当にそれしか感じていないかのように、溯春が小さく首を捻る。そんな彼を見て、朱禰の唇にきゅっと力が入った。
「人は駒じゃないよ、溯春くん」
「分かってますよ」
「情を持て、って意味なんだけど」
真剣な目で朱禰が溯春を見つめる。それでも、溯春が表情を変えることはない。
「必要ありません」
「必要だよ。それは君を人たらしめるものだ」
「だったら尚更いらない」
「……私にも情はない?」
その質問の後の時間が、朱禰にはとても長く感じられた。緊張が全身を包む。目に熱を感じる。
しかし、実際にはほんの一瞬。息継ぎすらする間もない出来事だと気付いたのは、溯春が息を吸い直すことなく口を開いたからだ。
「ありませんね」
そこには迷いも、躊躇いもなかった。考えてすらいないだろう。それすら必要ないくらいに溯春にとっては当然のことで、再考の余地もない。
そう思い知らされて、朱禰は「……だったらもう、付き合いきれないよ」と声を落とした。
「頼んだ覚えはありません。全部あんたが勝手にやってることでしょう」
「――ッ、じゃああのまま刑務所で一生怯えながら過ごしたかった!?」
思わず声を荒らげてしまった自分に気付き、朱禰ははっと東雲の様子を確認した。規則正しい寝息を立てる彼の様子に変化はない。それに安堵したように息を吐き出すと、朱禰は冷静を装って溯春に顔を向けた。
「人間性を失うことを恐れる君だから、私は君をあそこから出したんだ。外で元に戻る方法を探せるように自由にしたんだ。決して他者を蔑ろにしてまで獲物を探させるためじゃない」
「違うでしょう。あんたは俺を利用しているだけだ」
「っ……」
朱禰が必死に取り繕った表情が、溯春の一言でくしゃりと歪む。そんな彼女を見た溯春は会話に飽きたような顔をすると、窓際から部屋の出口へと歩き始めた。
「あんたは分かってたはずですよ。俺を外に出せば、生の亡者を一人残らず殺しに行くって」
ドアに手をかけ、溯春が朱禰に目を向ける。
「あんたも生の亡者は殺したいんですよ。でも奴らはゴーストと分類されないし、あんたに人殺しはできない。だから俺を自由にした。妹を見殺しにした罪悪感から逃げるために」
「ッ――!!」
パシンッ! ――乾いた音が響く。唇をきつく結んだ朱禰が溯春を睨みつけ、顔の前に上げた手をぎゅっと握り締めた。
まるでそれ以上何もすまいと言うかのようだった。震えるその拳を見て、溯春は顔を少し横に向けたまま、嘲るように口端を上げた。
「あんたがやったのは後始末だけだ。ゴーストになった陽咲を狩って怖気付いたのはどこの誰ですか。半狂乱になった母親を施設に入れて安心してるのは誰ですか。忘却が救いになる? 俺が誰だか忘れて笑いかけてくることが救いと言えるんですか」
溯春の声に愉悦が滲む。責め立てるようなその声に、朱禰の顔に悲痛が浮かんだ。
「母に……会ったの……?」
「親父さんにそっくりだって言われましたよ。常套句でしょう、あの人の。まァ、前回は親父さんの若い頃にって話でしたが」
楽しそうに話していた溯春の目が、暗く濁る。
「俺どころか親父さんが死んだことすら知らない。自分の子供が何人いるかすら分かってない。でもあんたはそれでいいんでしょう?」
溯春の言葉に、朱禰は何も返せなくなっていた。忙しなく瞳を動かし、唇を震わせ、浅い呼吸を繰り返す。
そんな朱禰を白けたように見ると、溯春は「俺にはどうでもいいですがね」と続けた。
「俺は俺のために生の亡者を殺します。あんたは今までどおり後始末だけしていてください」
言い残して、病室から去っていく。朱禰を振り返ることもせず、その背に罪悪感を漂わせることもなく。
「っ……なんでいつもこうなっちゃうかなぁ……」
その朱禰の涙声は、静かな雨の音にすら掻き消された。




