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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第五章 嗤う幻影と忘却と
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鏡の中の記憶〈三〉

 溯春が大鎌で鏡を割った瞬間、東雲の見ていた景色が砕けた。「ッ……!?」東雲が咄嗟に腕で顔を覆う。その隙間から周りを見れば、割れた風景の中から溯春が現れた。


「溯春さ……――ッ、血が!!」


 東雲の安堵はすぐに掻き消された。溯春の首から下、左上半身が血で染まっていたからだ。染みた先が暗い赤色のニットということで見た目には分かりづらいが、それでも強い鉄の匂いがその流れた量を東雲に教える。よく見れば溯春の周りもいつの間にか血まみれになっていることに気付き、どんな重症を負ったのかとザアッと顔を青ざめさせた。


「見た目ほど深くない」


 慌てる東雲の一方で、溯春はどうでも良さそうにそう言った。左手でニットの襟を掴んで、傷口に押し当てる。その顔に苦悶はなかったが、しかし東雲には納得しきれない。


「その出血量で言いますか!? 一体何が……!」

「もう終わった。いちいち騒ぐな」

「騒ぎますよ! ていうかまた誘引剤吸ってる!!」


 あわあわと手を彷徨わせた東雲は、一瞬の躊躇いの後、溯春の口にある誘引剤を奪い取った。「おい!」突然の出来事に溯春が東雲を睨む。しかし東雲が「言い訳は聞きません!」と鼻息荒く言うと、溯春は不満そうな顔で引き下がった。


「それより溯春さん、早く手当てしないと! まだ立ってるってことは頸動脈は無事なんでしょうけど、でもその血の量はヤバいっスよ!」

「だから大した傷じゃねェって言ってんだろ」


 言いながら溯春はニットの裾を捲くると、その下に着ていたシャツを破いた。出来上がった布切れを手早く首に巻き付け、「これで十分だ」と東雲を睨む。

 東雲は何か言い返そうとしたが、傷がほとんど見えなかったことを思い出して口を噤んだ。恐らく溯春が意図的に手やニットの襟で隠したのだろうとは思うものの、それ以上出血が増えていないところ見る限り、本当に傷は深くないのかもしれないと納得するしかなくなる。

 東雲はぎゅっと顔をすぼめて怪我に関する言葉を飲み込むと、自分を落ち着かせるためにすうっと大きく息を吸った。噎せ返りそうなほどの血液と、同じくらいに強い誘引剤のニオイが東雲の鼻腔を、肺を侵す。だがそこに少しだけ混じっていた別のニオイに気が付くと、東雲はおや、と目を瞬かせた。


「溯春さんのそのシャツ、ワンちゃんの寝床だったりします? なんか狼臭がするような……」

「普段着ないんだから仕方ねェだろ」

「洗ってくればよかったのに。でもまあ、その誘引剤の匂いよりはマシなんスけど」


 今の溯春の体臭は誘引剤の独特な匂いに掻き消されてほとんど分からない。というより誘引剤の匂いを嗅ぎたくなくて、あまり溯春の方の空気は吸わないようにしていたのだ。気持ちを切り替えることに集中していてうっかり思い切り吸ってしまったが、鼻の奥に誘引剤がこびりついているように感じられて不快でたまらない。

 東雲は鼻を擦りながら「どうにかなりませんかね、これ」と言うと、「しばらく誘引剤禁止にしましょうよ」と溯春を見やった。


「こないだは平気でしたけど、でも絶対身体に良くないっスよ。特に怪我してる間は絶対駄目! 体調不良も毎回チェックしますからね!」

「うぜェ。つーかお前が仕事してねェのが悪いんだろ。本来追跡官がいれば誘引剤なんて滅多に使う機会なんかねェんだ」

「うっ……それは、その……今回は申し開きのしようもなく……」


 東雲の目が泳ぐ。溯春とはぐれたのはゴーストの仕業のため自分に落ち度はないと分かっているが、しかし溯春が一人でそのゴーストを片付けてしまったのも事実だ。

 たとえ不可抗力でも、役立たずだったのは否めない――東雲が言葉を探していると、溯春がコートを拾って部屋から出ようとしているのが見えた。


「あ、待ってくださいよ!」

「遅いのが悪い」


 そう言って東雲に構わず歩いて行こうとしていた溯春だったが、不意にその足を止めた。「待ってくれるんスか!?」東雲がぱあっと表情を明るくする。「お前先行け」部屋の外を顎で示した溯春は足を止めたまま、手に持っていたコートを着始めた。


「支度に時間かかるふりなんてしなくていいんスよぉ? 待ってくれるなら黙って立ってるだけで全然……あれ?」


 溯春を追い抜き、前へと出た東雲は廊下の先を見て首を傾げた。伊井野がこちらに向かってきているのだ。

 と同時に、「あ」と溯春に振り返る。「……そういうことっスね?」じっとりとした目で東雲が見つめれば、支度を終えた溯春は素知らぬ顔で「血まみれの奴よりいいだろ」とそっぽを向きながらドアを閉めた。


「つってもコートでほとんど隠れてるじゃないっスか!」

「――あの、東雲さん?」

「ああ、すみません! なんでもないっス!」


 東雲は近くに来た伊井野に向かって慌てて両手を上げた。さり気なく溯春の前に出て、血に染まった彼の左半身を隠す。自分より背の高い東雲に視界を塞がれる形になった溯春は「……邪魔」とぼそりとこぼしたが、東雲はどうにか無視して伊井野に笑いかけた。


「ちょっとこっちの話をしてて……それより伊井野さん、どうしたんスか? 受付にいるって言ってませんでしたっけ」

「そうなんですけど、凄い音がしたので。お二人の様子から終わったのかなと思ったんですが……まだ来ない方がよかったですか?」


 伊井野が不安げに一歩後ずさる。ちらりと部屋のドアを見て顔を強張らせた彼に、東雲は「もう大丈夫っスよ」と安心させるように言った。


「ちゃんと終わってますから。ただちょっと、その……」

「その?」

「だいぶ汚しちゃったんスけど……」

「え?」


 不思議そうに首を傾げた伊井野に、東雲がそっとドアを開けてみせる。するとそこに広がったのは元通りの鏡だらけの部屋――ではなく、大量の血の跡。その血液は何枚もの鏡を汚しており、東雲は「グロくてすみません……」と顔を強張らせた。


「これは……いや、あれって怪我されたってことですか? 早く手当てを!」

「あ、なんか大丈夫らしいっス」

「いや駄目でしょう! あの量は流石に……!」


 慌てる伊井野を見て、東雲はそうだよなぁ、と遠い目をした。ちらりと横目で溯春を窺うも、彼は心底どうでも良さそうにしている。「本人がピンピンしてるんで」東雲が付け加えてやっと伊井野も危険はないと判断できたのか、納得いかない様子ながらも「それならいいんですが……」と引き下がった。


「あー、掃除って今した方がいいっスか? 一応管理局から人を寄越せるんですが、今まだ営業時間外なんで」

「……いえ、急がなくて大丈夫です。それより今はとりあえず見回りに行かないと。あれだけの音じゃ患者さんを起こしてしまったかもしれません」


 その言葉に東雲ははっとして「本当にすみません」と頭を下げた。患者が起きている昼間の業務の方が忙しいと聞いているのだ。それなのにこんな時間に騒ぎになってしまっては、明日以降も伊井野達の通常業務に差し障るかもしれない。

 これは伊井野も気を悪くしたかもしれない――東雲が顔を上げながら相手の様子を見てみると、伊井野は確かに困った顔していたが、意外にも「いえ、いいんですよ」と穏やかに首を振っていた。


「こちらも朱禰さんのご厚意に頼っているんです。これくらいどうってことありません」

「支部長の?」

「そうです。最初はここのこともゴーストの仕業じゃないって、管理局の窓口に取り合ってもらえなかったんですよ。ほら、こういう場所ですから……被害内容からしても、ゴーストの仕業じゃなくとも起こり得ることだって。それを朱禰さんに相談したら、すぐに確認の人を寄越してくれて」

「へえ、支部長が」


 東雲は感心したように声を漏らした。「知り合いか何かだったんですか?」何の気なしに伊井野に問いかける。「それは――」伊井野が答えようとした時、溯春が「もういいだろ」と東雲の背を小突いた。


「仕事は終わったんだ。さっさと帰るぞ」

「え、でも……」


 突然の溯春の行動に、東雲が後ろ髪を引かれるように伊井野を見る。だが東雲が何か言うより先に、溯春の方が伊井野に向かって口を開いた。


「すみませんが、俺達はこれで」

「ええ。その方がいいと思います」


 伊井野に気にした様子はなかったが、その言葉に東雲は首を捻った。しかし誰も補足はしてくれない。溯春はさっさと歩き出してしまい、伊井野も自分達を見送っている。となると東雲は溯春について行くしかない。

 そうしてしばらく歩き、閉鎖棟を出た頃。突然溯春がその足を止めた。


「あら、若い人なんて珍しい」


 彼の前には見知らぬ人間がいた。物腰の柔らかい、初老の女だ。

 東雲は相手の姿をさっと見て、患者かもしれない、と身構えた。女の身なりは整っていたが、パジャマのような衣服を着ているのだ。流石に従業員はこんな姿で歩かないだろう、と東雲は溯春の一歩前に進み出た。


「お騒がせしてすみません、すぐに帰りますんで」

「いいのよぉ、賑やかなのは楽しいもの。そうだ、甘いものはお好き? ちょうどケーキを焼いたところなの」

「え?」


 反応に窮する東雲の後ろから、「ああ、()()()()!」と伊井野が慌てて駆けてきた。


「お客さん達はお急ぎなんです。ケーキは僕がいただきましょう」

「あら、そうなの? たくさんあるから、全部一人で食べたらお腹を壊しちゃいそうだけど」


 女が困ったように頬に手を当てる。「朱禰さん、って……」声を漏らす東雲に、女がにっこりと笑いかける。


「また来てね。そちらの黒髪のお兄さんも」

「ッ……」


 ピクリと、溯春の指先が強張る。しかし、それに気付いた者はいない。


「ふふ、私の夫にそっくり。二人並んだら娘はきっと間違えてしまうわね」

「…………」


 溯春は女に答えなかった。顔を少し背け、ただ聞くだけ。そして「……失礼します」と静かに言うと、戸惑う東雲に目配せをして女を通り過ぎていった。

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