鏡の中の記憶〈二〉
東雲が女に出会う少し前。溯春の周囲では、ブンッ……ブンッ……と低い音が響いていた。その音が聞こえるたびに鏡が波紋を立てて、また別の音が鳴ればこちらもまた別の鏡が波紋を立てる。
溯春が大鎌を振り回しているのだ。額には微かに汗が滲み、着てきたコートは近くに脱ぎ捨ててある。
苛立ちをぶつけるように何度も何度も大鎌を振るっていた溯春は最後にガンッと柄で地面を叩くと、「チィッ!!」と盛大に舌打ちをして遠くの鏡を睨みつけた。
その鏡の中で、スッ……と影が動く。溯春の額に青筋が浮かぶ。
「ったく、手間かけさせやがって……! 《ID検索指定:鏡の化け物》!」
〈検索エラー。対象を捕捉できません〉
「ああ!? 見えてるだろうが!」
〈検索エラー。対象を捕捉できません〉
「ッ、クソシステムが……!」
ヒク、と溯春の頬が引き攣る。怒りをやり過ごすように周囲に目をやれば、また別の鏡の中で影が動くのが見えた。
「……あいつじゃねェのか?」
影を睨みつけ、呟く。この状況を作り出したゴーストはあの影だと思っていた。最初は自分の正体だと思ったが、自由に全ての鏡の中を行き来している時点でそれだけではないと考えたのだ。
だから割れないと分かっている鏡を何度も叩き、影を追い、大鎌による処理の対象となるようはっきりと視界に入れた。しかしそれでも大鎌のシステムは足りないと言う。
ならば前提が間違っているのだ。あの影が今回のゴースト……ではない。
「じゃァなんなんだよ……――っ」
溯春がぼやいた瞬間、彼の目の前に何かが飛んできた。それまでと違って鏡の中ではなく、外に。
それは溯春のいる位置から二メートルほど進んだところに着地すると、ゴロンゴロンと重たい動きでその半分ほどの距離を転がって、止まった。
「あ……?」
首だった。人間の生首だ。
鬼のような形相をしているが、どうにか男性のものだと分かる。黒髪で、溯春には見覚えのない男だ。
これは何だ――溯春がそう疑問に思った時、今度はバタンッと大きなものが首に向かって倒れた。黒いスーツに包まれた首なしの身体と、そして、もう一つ。
「…………」
首なしの身体が握り締めていたのは、ゴーストクリーナーの使う大鎌だった。つまりは同僚、顔見知りかもしれない。
溯春はそれに気付くと記憶を辿った。あまり他のゴーストクリーナーの顔は覚えていない。そもそも付き合いどころかまともに挨拶すら交わしたことがない。
それでも溯春は、そのゴーストクリーナーを見たことがあると思い出した。
「こいつ確か……」
「――あたしを、人として殺してくれるの?」
「ッ!」
後ろからの声に溯春がバッと振り返る。そこにいたのは少女、生の亡者の少女だ。
「――人殺し! 人殺し! お前はそうやって自分を正当化して人を殺す! ゴーストだって言い張って、生きた人間を殺すんだ!」
今度は別の方から、禮木の声が。見れば禮木が血まみれで笑い声を上げている。
どちらも最近見た光景だ。だが、少し違う。少女も禮木も、誰かに向かって話しているのだ。
「……なるほどな。正体を暴くってそういうことか」
鏡に映った対象者の過去を読み取り、そしてそこから正体を暴く――溯春はそっと口端を上げた。
順当に考えればこれは自分の記憶だが、しかし確実に違うと分かる。何故なら少女と禮木が話しかけている誰かとは自分で、その自分はこの角度で彼らを見れるはずがないからだ。
それに何より、自分は首の落ちたあのゴーストクリーナーが死んだ現場にはいなかった。
溯春は一通り起こっている出来事に納得すると、改めて周囲を見渡した。
相変わらず鏡の中を影が移動している。溯春の目が追いついた瞬間にまた別の鏡へと移動するのは、まるで挑発しているかのよう。しかしそれが、溯春の顔を怪訝に染める。
時折一瞬だけ捉えられる形は溯春も知っているものだった。だから影は自分だと思った。
だが、違う。自分はこんなふうに遊んだりはしない。獲物と見るやいなや襲いかかるのが自分の本性だ。
そう表情を険しくした溯春の前に、よく知った姿が現れた。
大鎌を持ち、毒となる誘引剤を咥えたまま何かを見ている――それは溯春自身だった。先日ガーゴイルと相打ちになりそうだった自分の姿。
これを見た人間は酷く怒っていたが、しかし仮に彼が間に合わなくとも問題はなかった。だから自分の身を差し出したのだと、溯春の口からは「はっ……」と乾いた笑みがこぼれる。
そして、誘引剤を取り出した。酷い顔色の自分を見ながら、その原因となったそれを咥え、火を付ける。
大きく息を吸って煙を吐き出せば、鏡の中で影が暴れた。キィキィと鏡を軋ませ、かと思えば一枚、また一枚と鏡の中に像が結ばれる。
影だ。それまで一枚の鏡にしか映らなかった影が全ての鏡に映り込んで、興奮したように甲高い音で鏡を鳴かせている。
「やっとらしくなってきたじゃねェか」
鏡の中で暴れる影は、檻の中で涎を垂らす獣のよう。愉快だと言わんばかりに溯春が嗤えば、鏡の鳴き声も大きくなった。
しかし、それ以上の動きはない。「……やっぱ鏡は鏡か」溯春はつまらなそうに呟くと、大鎌を持っていない方の手でナイフを取り出した。
「……鏡ならちゃんと映せよ?」
挑発するようにニィと笑い、ナイフを自分の首に走らせる。血が噴き出る。「ッ……」痛みに顔を顰めながら、溯春は周囲に目をやった。
相変わらず鏡の中では影が興奮したように騒ぎ立てている。だが、変化はない。溯春を映さない鏡は、彼が何をしたところでその行動を虚像に反映しない。
それでも、一枚だけ。たくさんの鏡の間から、影が血を流す鏡が見えた。
「《ID検索指定:間抜けな鏡》」
ぼそり、溯春が言う。大鎌が実体を持つ。
その大鎌をぐっと握り締め、溯春は血まみれの鏡を叩き割った。




