鏡の中の記憶〈一〉
「――妖怪っていうんだったら雲外鏡の方が有り得るかもな」
そこまで言い切った時、溯春は周囲の異変に気が付いた。東雲がいないのだ。
自分の前方で鏡のニオイを一枚一枚確認していたはずなのに、姿が見えない。急に進んだわけでもなさそうだということはすぐに分かった。気配が全くないからだ。
「……食われたか?」
東雲が、ゴーストに。しかし溯春の顔に動揺は浮かばなかった。そこから見受けられるのは面倒臭いという感情だけ。
その感情のまま気怠げに首を動かして周りを見た溯春だったが、不意にその動きを止めた。
「…………」
視界に入る鏡に、誰も映っていない。先程までは何の異常もなかったはずだ。
だが今この瞬間は、溯春がいる場所には反対側の鏡が見えた。鏡の中で鏡が反射して、吸い込まれそうなほど遠くまで空間が広がっているように見える。しかし、そこに溯春はいない。
ふっ、と溯春が鼻で嗤う。確認するように他の鏡も見て、やはり自分が映っていないことが分かると、左の口角だけを僅かに上げた。
「これが俺の正体ってか」
自嘲じみた声で言う。と、その時、溯春は視界の端で何かが動いたのを見つけた。無意識のうちに目でそれを追えば、その何かは鏡の中をどんどん移動していっているように見える。
速すぎて姿ははっきりとは分からない。分かるのは、それが黒い影のように見えるということだけ。
そこまで把握した溯春はうんと顔を顰めた。そこに疑問はなく、まるで影の正体を知っているかのようだ。
周りの鏡を睨みつけ、「クソだりィな」と嫌そうにこぼす。
「……片っ端から割るか」
言って、右手を伸ばす。いつもの言葉を発すればそこに大鎌が現れる。鏡の中には透けた大鎌だけが映り、なんとも奇妙な光景を生み出した。
その大鎌を、予備動作なく大きく振る。鏡に当たる。しかし水面を撫でたかのようにとぷんとすり抜け、鏡が割れることはなかった。
「…………」
溯春にも想定外の出来事だった。しかも割れなかった鏡は一枚だけではない。大鎌の軌跡上にあった全ての鏡が、全く同じような状態となっている。
鏡に残る波紋を見て、溯春は心底嫌そうな顔をした。
§ § §
「――溯春さん?」
溯春がいないことに気が付いた東雲はすぐに相手の名を呼んだが、返事はなかった。
背筋を伸ばし、スンスンと空気の匂いを嗅ぐ。耳も澄ませながら右に左にと首を動かしたが、溯春の痕跡を全く見つけられない。
「まじかー……」
通常であれば見つかるはずの残り香すらないことが、東雲にこれはゴーストの仕業であると教えていた。
しかし同時に困っていた。ゴーストクリーナーはハンドラーと追跡官の二人組で行動するが、ゴーストを処理できるのはあくまで処決官であるハンドラーの方だけだからだ。
つまり東雲がここでゴーストを見つけたとしても、溯春がいなければ消すことができない。その結論に達すると、東雲はバッと入口に戻った。
……つもりだった。
「ないじゃん……」
入口が。入ってきたはずの扉が。記憶の中でそれがあった場所には鏡があり、なくなるはずのない入口はどこにも見当たらない。
これはいよいよ困ったぞ、と東雲は険しい顔をした。溯春は今どういう状況だろうか。彼も自分と似たようなことになっていて、ゴーストを見つけてくれればまだいい。
だが、ゴーストを見つけようがない状況だとすると終わりだ。被害報告から考えると永遠にこのままではないのだろうが、しかしゴーストが解放してくれるのを待つということは、自分も被害者の仲間入りを果たすことを意味する。
仮に今ここでゴーストを見つけても同じだ。消すことができないのなら、やはり状況は変わらない。
「どーすればいいのーこれー……」
変な抑揚を付けながら天を仰げば、鏡の中の自分達も同じように困り果てた。
役立たず、馬鹿、駄犬――溯春に言われるであろう悪口が東雲の頭の中を駆け巡る。否定したくとも否定できるだけの材料が手元にない。ゴースト探しを続けたところで溯春がいなければ意味がないのだ。
そう考えると、追跡官というのはハンドラーがいなければ本当に役立たずだなと思えてきてしまう。
「あ、溯春さんを探せばいいのか」
突然浮かんだ解決策に、東雲はぽんっと手を打ち鳴らした。
ハンドラーがいなければ役立たずなら、ハンドラーと合流すればいい。元々は一緒にいたのだ、探せばどこかしらに手がかりは見つかるかもしれない。
とはいえ、その手がかりが何なのかは全く思い浮かばないが――と東雲が再び頭を悩ませそうになった時だった。東雲の視界に何かが映った。
「――タイヨウ?」
「ッ!?」
東雲はさっと身構えて、しかしすぐに身体の力を抜いた。そこにいたのは人間の女だったのだ。
若く、美しい女だった。きょとんとした顔で自分の方を向いている彼女を見て、東雲はある可能性に思い至った。
「もしかして、ここの職員の人っスか?」
きちんとした身なりの女は患者には見えない。それにこの部屋は閉鎖棟の中にある。職員であれば様子を見に来ることもあるかもしれないと考えると、東雲は困ったような笑みを浮かべた。
「すんません、今ここ危ないんで――」
「今日、お母さんから連絡があってね、来週なら来られそうだって」
「え? 何言って……」
自分の言葉を遮った女の発言に首を傾げる。しかしその間も女は笑いながら、「ここまで待ったんだもん、早く報告しちゃいたいな」と腹に手を当てて話し続けていた。
「えっ、と……報告って?」
「そうだけど、やっぱり嬉しいことは早くみんなに教えたいじゃない。タイヨウだって本当は楽しみにしてるんじゃないの?」
「……あー……そゆこと?」
まるで噛み合わない会話に、東雲はここがサナトリウムであることを思い出した。服装からしててっきり職員の方かと思っていたが、もしかしたらこの女は患者なのかもしれない、と考えを改める。
というより、患者の可能性の方が高いだろう。職員であれば今日この時間にゴーストクリーナーが来ると知っているため、巡回があってもここには近寄ろうとしないはずだ。それなのに女がこんな場所にいるということは、その予定を知らない、もしくは考慮できない状態なのだろう。
東雲はやっと理解したが、それでも状況は良くならない。むしろ危険な場所に部外者が、それも意思の疎通が難しい一般人がいるだなんて悪化でしかない。
「どうしよう……とりあえず、おれの傍にいてもらえます?」
コミュニケーションが取れずともそれだけ理解してもらえれば――と考えて女に提案した東雲だったが、目の前の光景に思考が止まった。
「は……?」
女が、いない。つい今しがたまでここにいたのに、一瞬だけ意識を逸らしている間に消えてしまったのだ。
「嘘じゃん……おれ今日厄日か何か?」
項垂れて、しかしすぐに顔を上げる。ここは危険なのだ、女を一人にするわけにはいかない。
「――ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいっ……」
「っ!」
聞こえてきた声に東雲は鏡の道を進んだ。角を曲がったところに見つけたのは先程の女。
ただ、服装が違った。しかし東雲にそこまで気にする余裕はない。そういうこともあるだろうと無理矢理自分を納得させつつ、女が見つかったことにほっと胸を撫で下ろす。そして「大丈夫っスよ。一緒にこっち行きましょう」と女に手を伸ばした。
が、女は消えた。歩いたわけではない。ただ消えたのだ。
「……なるほど?」
人間がそんなふうに消えることなど有り得ない。ここで東雲はやっともう一つの可能性に辿り着いた。この女は普通の人間ではなく、幻か何かなのだ。
「ってことはゴーストの罠? えー……追う? やめとく?」
腕を組み、ううんと首を捻る。その時だった。
「――いやぁああああああ!!」
「ッ!?」
また別の方から女の声。その声の緊迫感に東雲が慌てて駆けつければ、そこには半狂乱になった女の姿があった。
美しい顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくり、嫌だ嫌だと頭を抱えて首を振っている。「大丈夫っスか……?」現実ではないと分かっていても、東雲の口からは女を案ずる言葉が出る。だがやはり、女には届かない。
「もう嫌、耐えられない……助けてタイヨウ……」
女がゆっくりと顔を上げる。その悲痛に満ちた目を東雲が直視した瞬間、今度は後ろから声が聞こえた。
「私に君は責められない」
そこにいたのは、同じ女ではなかった。
「支部長……?」
暗い表情の朱禰が、東雲を見つめる。直後。
――ガシャンッ!
東雲の見ている景色が、ガラスのように砕け散った。




