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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第五章 嗤う幻影と忘却と
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安息を乱す虚像〈二〉

 深夜ということもあって、建物の中も真っ暗だった。照明は非常灯のみ、入ってすぐにある受付ですらほとんど明かりはない。「夜分遅くにすみません」相手への負担を実感して東雲が謝る。しかし伊井野は全く気にしていない様子で、「いえいえ」と笑った。


「元々夜勤もありますから大して影響はありません。朱禰さんから事情も伺っていますしね。それにこちらとしても、昼間よりこの時間の方が仕事が少ないので都合が良くて」

「患者さんは?」

「大抵は寝ています。()()の患者達は可能な限り現場から遠い部屋に移し、それ以外はスタッフを増やしてしっかりと見守っています。安心していただいて結構ですよ」


 朗らかに話しながら伊井野が建物内を進んでいく。「件の部屋のある棟は現在閉鎖しています」少し声を落として説明を続ける。


「問題の部屋に入ると錯乱するって聞いてるんですけど、患者以外もってことでいいんスよね?」


 資料にあった内容を確認するように東雲が問えば、伊井野は「ええ」と頷いた。


「比較的症状の落ち着いていた患者もそうですが、お見舞いに来ていらしたご家族や従業員にも被害が出まして」

「その方達はどうなったんです?」

「……()()にいますよ。患者として」


 渋い顔で伊井野が答える。それを聞いて溯春は全く顔色を変えなかったが、東雲は同調するように眉尻を下げた。


「ここに、ってことはまだ治ってないんスか……」

「元々健康で、程度の軽かった方はしばらく療養したら落ち着きました。ですが発見の遅かった方々は……」

「どういった症状なんスか? プライバシーに配慮したのか、あんま詳しく引き継がれてなくて」


 東雲の問いに伊井野が視線を落とす。「一応離人症の一種だろうと診断されているのですが、」と言って、納得がいかない様子で言葉を続けた。


「しかし同じ病名の患者さんとは明らかに違うんです。自我の喪失、と言えばいいんでしょうか。自分が誰だか分からなくなり、それを非常に怖がるんです。解離性健忘と言えばそうなのかもしれませんが、それにしては元の自分を酷く恐れているようにも見えるんです。忘れているのでそんなはずはないんですけどね。あとは……鏡も」

「鏡?」


 問い返した東雲に、「鏡のことも恐れているんです」と伊井野が付け足す。


「問題の部屋に鏡があるんですよ。そのせいか、あの部屋で錯乱状態になってしまった人達はみんな鏡を怖がるんです」

「へえ……ってことは、その鏡を見てみたら良さそうっスね」

「……そう単純な話ではないかもしれません」


 伊井野が気まずそうに顔を顰める。東雲が首を捻って続きを促せば、伊井野は「一枚だけじゃないんですよ」と苦々しい表情で言った。


「昔いた、鏡に固執していた患者のために用意されたもので、それはもう大量にあるんです。先遣で来た管理局の方も、ゴーストが鏡にまつわるものかもしれないし、それか全く関係はなくて、ただ精神的に不安定になったタイミングで大量の鏡に囲まれたからかも、と」

「なるほど……。ちなみに大量というのは」

「部屋をミラーハウスにできるくらいですかね」

「おお……」


 東雲が声を漏らした時、ちょうど周りの景色が変わった。閉鎖棟に入ったのだ。元の建物から廊下で繋がっていたそこは鍵付きの扉で隔たれていたものの、そこまで特別な雰囲気は感じられない。内装こそ建物の違いもあって差はあるが、特に古びているわけでも、荒れ果てているわけでもなく、ただ人の気配が全くないだけだ。


 同じく非常灯でほんのりと照らされた廊下を歩き、階段を上がっていくと、伊井野がある階で足を止めた。


「この先です」


 彼が指し示すのは廊下だった。右手には扉、左手には窓が並ぶ。「あの一番奥の部屋です」そこは廊下の終わりにある部屋。伊井野はそれ以上近付きたくないのか、困ったように東雲達に目を向けた。


「管理局からはあの中にゴーストがいるのでは、と。開けるだけで部屋に入らなければ平気なんですが、どうにも気味が悪くって……」

「分かりました。おれ達が行くんで、しばらく離れててもらえます? あと鍵って……」

「ああ、これをどうぞ。私は受付にいても? もう少し近くの方がいいでしょうか……?」

「受付でいいっスよ。逃げるタイプのやつだと危ないんで」


 東雲が答えれば、伊井野はほっとしたように肩の力を抜いた。「では、よろしくお願いします」深く頭を下げて去っていく。遠ざかっていくその足音を聞きながら、「ンじゃおれらも行きましょうか」と東雲は溯春と共に歩き出した。


「つーか溯春さん、少しくらいは愛想良くしてくださいよ。全部おれに喋らせるのはいつもどおりっスけど」

「お前が必要なこと聞きそびれなきゃ別にいいだろ」

「あっ、もしかして褒めてます? ちゃんと対応できたねって褒めてくれてます?」

「黙れ」


 いつもとは違う溯春の横顔を見ながら、東雲はむふっと頬を緩ませた。声は普段と同じく冷たいのに、服装のせいか随分と柔らかく感じる。これは今後も眼鏡くらいはかけておいてもらってもいいのでは――と考えながら歩いていくと、伊井野が言っていた部屋の前に着いた。

 鍵を開け、ドアノブに手をかける。「どうします?」東雲が確認するように溯春に問えば、溯春は「一応警戒はしとけ」とどうでも良さそうに言った。


「ま、変なニオイもしませんし、伊井野さんも開けるだけなら問題ないって言ってましたしね。ンじゃいきますよ!」


 ガッ――東雲が勢い良くドアを引く。と同時に「ひっ!?」と悲鳴を上げれば、溯春が呆れたように東雲を見やった。


「鏡で驚くとか本物の犬かよ」

「あっ、鏡……いやでもこれはびっくりするでしょう!?」


 東雲が部屋の中を指差せば、部屋の方からも大勢の人影が彼を指差した。――鏡だ。全身鏡のように大きなものから、手鏡ほど小さなものまで、無数の鏡が部屋の中にあるのだ。

 それはただ、部屋の壁を覆うだけではない。最初の鏡までの距離は数歩ほどで、天井にも貼られた鏡を見る限り、今見えている鏡の反対側にも鏡がある。

 それはまるで部屋の中に迷路でも作られてるかのよう。部屋の外から大方の状態を把握した東雲は、「おっふ……」と声を漏らした。


「本当にミラーハウスじゃん……こんな部屋に長時間入れられたらゴースト関係なく頭おかしくなりそう……」

「探せるか?」


 溯春の問いは言葉が足りなかったが、東雲には彼が何を指しているのか考えるまでもなかった。ニオイでゴーストを探せるかと聞いているのだ。


「そりゃ時間をかければいけると思いますけど、まず出所を探すのが大変そうっスね。一緒に探すべきニオイってあります? この部屋の状況だと鏡を好むゴーストとかっスかね。あと合わせ鏡をすると悪魔が出てくる、みたいな都市伝説あったような……」


 東雲は記憶を辿るも、それらが伝承上ではどんな姿をしているかというのは分からなかった。先日の針女のように誰かを襲うゴーストであれば、正体が分からずとも被害者のニオイを追えばいい。もしくは被害者に付着したゴーストのニオイでもいい。だがそういった明確な目印がないとなると、無数のニオイの中から対象のゴーストのニオイを探すのは一気に難しくなる。

 そもそも全てのゴーストに共通するゴーストそのもののニオイというものは非常に微弱で、追跡官であってもよく嗅がないと見つけられない。例えるなら見通しの悪い濁った水の中で、透明なガラス片を探すようなもの。しかしそのガラス片に色が付いていれば格段に探しやすくなる。

 その色となるのが伝承だ。目撃情報や、現場から推測されるものでもいい。ゴーストそのもののニオイは弱くとも、ゴーストのカタチを表すニオイの強さは普通の物質と変わらない。


 そしてそれを考え、追跡官に教えるのがハンドラーである溯春の仕事だ。ハンドラーの持つ処決官という肩書きは、ゴーストの処理だけでなく追跡官をどう動かすか判断する役割も表す。


 だから東雲が指示を求めるように溯春を見るのは当然のことだった。そしてその溯春も、自分で考えろと嫌そうな顔をすることは勿論なく、「それか鏡自体がそうか」と考えるように呟いた。


「え」


 鏡自体が()()――その意味を考えて、東雲の眉間にうんと皺が寄る。


「それは……この鏡を全部嗅いで回れと?」

「鏡のゴーストならそうなるな」

「うわぁ……」


 溯春の指示に東雲の首が仰け反る。しかし仰け反った先にも鏡が見えるものだから、東雲は諦めたように「はあ……」と大きな溜息を吐いた。


「とりあえず入りましょうか。じゃないと嗅げないですし」

「さっさと見つけろよ」


 同意を得た東雲が部屋に足を踏み入れる。その後ろから溯春が続くも、特に異変は起こらない。


「ちなみに鏡のゴーストってどんなのがいるんです?」


 順番に鏡へと顔を近付けながら東雲が問いかける。あまり磨かれていないのか、鏡はどれも綺麗とは言い難く、東雲は拭きたくなる気持ちをぐっと堪えた。


「あんま多くねェだろ。ぱっと思いつくのは照魔鏡(しょうまきょう)か」

「照魔鏡?」

「そいつの正体を映し出すんだと。つっても照魔鏡ってのは言っちまえばただの鏡だからな、ゴーストが道具になるって例は聞かねェから微妙なところか。妖怪っていうんだったら雲外鏡(うんがいきょう)の方が――」


 そこで溯春の声が突然途切れた。何の前触れもなく、唐突に。


「溯春さん?」


 不思議に思った東雲が振り返っても、そこに溯春はいなかった。

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