境界線の内と外〈二〉
刑務所の廊下を歩きながら、東雲が自分の手を鼻に近付ける。
「すっごくいい匂い……」
そう恍惚の表情で漏らせば、溯春が「……気持ち悪ィな」と顔を顰めた。
「しょうがないじゃないスか、烏丸さんに初めて会うんですもん。写真より綺麗な人初めて見ましたよ」
「別に変わらないだろ」
「変わりますー! 溯春さんて美的感覚大丈夫っスか? 烏丸さんといい、朱禰支部長といい、綺麗な人とよく話すクセにいつも平然としてますよね。もしかしてムッツリ?」
「……くだらねェ」
溯春が心底呆れたように溜息を吐き出す。そんな彼を見ながら、東雲は「支部長といえば、」と思い出したような顔をした。
「禮木の言ってたアカネって、支部長のことでしょう?」
「…………」
東雲が問うも、溯春はちらりと彼を見ただけで何も答えない。東雲はそれを肯定だと判断して、「なんで奴が支部長との関係まで知ってるんスか」と声を低くした。
「ここって溯春さんが入ってた刑務所っスよね。ってことは禮木とは囚人仲間なんでしょうけど、朱禰支部長とはこの仕事で知り合ったんなら、禮木とあの人のことを話す機会はなかったはずです。それなのに知ってるって、刑務所出た後も禮木に会いに来てたってことっスか?」
「お前には関係ないだろ」
「ありますよ! あいつは凶悪犯っスよ? そんな奴とどうして溯春さんが……」
「ここじゃ俺も奴と同列の扱いだったからだ」
溯春が冷たい眼差しを向ける。底冷えするようなその目に、東雲の眉間に力が入る。「……溯春さんは違うでしょう」力なく言えば、溯春はふっと鼻で笑った。
「違わねェよ、少なくとも司法に関わる奴らにとってはな。個人の感覚じゃなくて、国が俺も禮木も更生の余地なしって判断したんだよ」
「……でも、おれには全然違く見えます」
くっ、と東雲が眉根を寄せる。
「溯春さんは確かに怖いっスけど、普通の人とほとんど変わらないじゃないスか。だからこうして外にいる。でも禮木は……あいつは違う。何言ってるか分かんないし、どう見ても正気じゃない。あんな奴と溯春さんが一緒だなんて言わないでください。あいつは溯春さんのこと友達って言ってましたけど、溯春さんまであいつに合わせてやることはないんです!」
「随分自分勝手な言い分だな。これで俺が本気であいつに情を持ってたらどうするんだ?」
「ッ、それは……」
溯春に指摘された東雲は目を泳がせた。自分勝手な言葉だとは自覚していたからだ。論理的に説得するのではなく、ただ禮木とは関わって欲しくないという自分の気持ちをぶつけただけ。溯春があちら側なのだと思いたくないがために発した言葉だ。
だが、東雲は謝罪しようとは思えなかった。何故なのかは分からない。言葉にできない自分の中にある不満に何も言えずにいると、「ま、そんなんねェけどな」という溯春の声が聞こえてきた。
「それに禮木も、別に最初からイカれてたワケじゃない」
溯春が声を落とす。思い出すようなその目に、東雲の視線もまた自然と吸い寄せられる。
「確かに捕まった頃からワケ分かんねェ理屈ごねてたが、それでも一応会話はできたんだ。あそこまで悪化したのは刑務作業のせいだよ」
東雲の顔が怪訝に染まる。「……刑務作業?」鸚鵡返しに尋ねれば、溯春は「ヴューロディアのメンテ」と短く答えた。
「ヴューロディアって、NCSの……」
東雲もヴューロディアの名は聞いたことがあった。世界最古にして最大のNCS――かつて世界の人々が移住を目指した仮想空間だ。
しかし今ではもう使われていない。ヴューロディアは移住開始後三〇年余りで、〝移住先には適さない〟としてその役割を終えたのだ。
「メンテっつっても大抵こっちでもできることだが、中にはどうしてもヴューロディアにダイブしなきゃならねェモンもある。ただVRの危険性はお前も知ってるだろ? 脳に負担をかけすぎれば最悪死に至る」
話を続ける溯春に、東雲も記憶を辿りながら「ええ」と頷く。
「だから安全装置が付いてるんスよね? 肉体のバイタルサインをチェックして、閾値を超えたら強制ログアウトするように」
これはヴューロディアに限らず、全ての仮想空間を使用する時に用いられている安全装置だ。現実での感覚と全く遜色のない現在のVR技術では、意識していないと現実と仮想空間の区別がつきにくい。区別がつきにくいということは、仮想空間の中にいるのに自分は現実世界にいると勘違いして長居してしまうということだ。
すると置いてきぼりになった肉体は衰弱していってしまう。それを防ぐために、安全装置が肉体の疲労度合いに応じて数時間程度で警告を発し、それでも従わない者を強制ログアウトさせるのだ。
「奴は事故で一週間ヴューロディアに閉じ込めれた」
「一週間って……一週間脳が酷使され続けたってことっスか!?」
「そう言ってんだろ」
驚愕する東雲に溯春が面倒臭そうに返す。しかし東雲は何故そんなに落ち着いていられるのかと言いたげな顔で、「いやいやいや!」と声を上げた。
「それ普通に死にますよね!? 確か計算上では、仮想空間に連続で居続けられるのは三日とかそんなもんだったはずです。ダイブ中は自分では寝てると思ってても、脳はフル稼働し続けてるとかなんとかで……」
「そうだな。だがまァ、奇跡的に助かった」
ふう、と溯春が休むように息を吐き出す。そしてまた口を開き、「それからだよ、あいつがああなったのは」と続けた。
「脳みそだけじゃなく身体にもダメージがあったらしい。血がダラダラ流れんのも後遺症だ。俺が奴と知り合ったのはその前だよ、だから会話が成立する」
溯春の言葉に、東雲は先程の面会を思い返した。
まるで禮木の興奮に合わせるかのように溢れ出た血液、それを気にも留めない禮木と溯春。血が流れるのが当たり前だったのなら、彼らの対応も頷ける。
それに溯春は意味不明な禮木の発言の中から、自分に必要なものを拾って応対していた。初対面では到底不可能なことができたのは、彼が禮木という人間をよく知っているという何よりの証。禮木のあの状況が事故の後遺症というのなら、これまでの自分の態度はあまりに子供じみていたと恥じ入りたくなる。
「……そういう事情だったんスね。でもそんな大きな事故、聞いたことがありません。ヴューロディアのシステムは今でも現実世界とリンクして使われてるのに、そのメンテナンス作業で事故があったなら話題になるはずじゃ……」
「禮木が故意に起こした事故だからな。再現性がねェってことで安全装置の強化だけで終わった」
「故意?」
どういうことだろう、と東雲が不思議そうに問い返す。もう一度その意味を考えたが、やはり納得のいく答えは浮かばない。
「え、なんでわざと事故なんか起こしたんスか? 下手したら死ぬって分かるでしょうに」
「言っただろ、事故で悪化したって。ぶっ飛んでるのは元々だ」
さも当然のように溯春に言われ、東雲は「あー……」と声を漏らした。言われてみればそうだとすぐに分かる。何せ禮木が責任能力なしと判定されたのは、正式にレベル4の判決が下る前。その時点では刑務所に入ってすらいない。つまり刑務作業の事故の影響はなかったはずなのだ。
「でも溯春さんは、禮木の頭脳は信用してるんスね」
どこかつまらなそうな顔で東雲が言う。「……まァな」小さく返ってきた声を聞きながら、「でもこれからどうするんスか?」と続けた。
「禮木の話の信憑性は置いとくとしても、溯春さんがそれを参考にするって言うなら、〝パパ〟って人を追いかける理由を強くしただけっスよ」
「そうだな」
「やめてください。そんなことしたって、溯春さんが人殺しになるだけです」
「口出しすんなっつったろ」
冷たく言って、溯春が歩を早める。「あ、溯春さん!」東雲が追うも、溯春がそれ以上同じ話題を続けることはなかった。




