作られた正義感〈三〉
全身を鎖に囚われた首なしガーゴイル像が、ノイズと共にサァッと消えていく。掴むものを失った鎖は地面に落ちかけたが、完全に落ちきる前に金属音を立ててどこかへ引き寄せられていった。
その先にあったのは東雲の姿。うんと顔を顰める彼は溯春の方へと歩いていくと、「……誰が必要ないんスか」と不貞腐れたように言った。
「いなくても狩れた」
大鎌を消しながら溯春が答える。一見すると無傷だが、顔色は悪いままだ。
「自分の身体犠牲にしてですよね」
「大した問題じゃない」
「アンタはどうしてそう……!」
東雲がぎゅっと眉根を寄せる。と、その時。溯春の身体がぐらりと揺れた。ダンッと地面を踏みつけ倒れることはなかったが、しかし大きくえずいて口から胃液を吐き出した。
「溯春さん!」
駆け寄ろうとした東雲に溯春が手を突き出す。空いている方の手で口元を拭い、「なんでもない」と東雲の方を見たが、その瞳は小刻みに揺れて焦点が定まっていない。
「なんでもないなんてことないでしょう……!」
東雲は改めて溯春の姿を見て、その顔色の悪さに表情を険しくした。焦点の合っていない目も、額の汗も、制止のために突き出した手の震えも、そのどれもが溯春の体調の異常を示している。「どうしたんスか、一体……」東雲は弱々しく呟いて、すぐに「ッ、この匂い!」と目を見開いた。
「まさか誘引剤何本も吸ったんスか!? あれは人体には毒なんスよ!? 一本吸ったら次まで二日空けなきゃならないのに……!」
言いながら周囲に目を向ける。地面に落ちている誘引剤の吸い殻は二本。だが匂いの強さや溯春の体調の悪さからして、他にもきっとあるだろうと顔を青ざめさせる。「最悪死にますよ!?」東雲が悲鳴のような声で言えば、溯春は「効きが悪かったんだから仕方ねェだろ」とぶっきらぼうに返した。
「ゴーストに効きが悪くても人間にはいつもどおりなんスよ!」
怒鳴って、溯春の方に歩み寄る。そんな東雲を溯春は睨んで追いやろうとしたが、東雲は構うことなくずいと身を乗り出した。
「全く、何なんですかアンタは! なんでそうやって平気で自分の身体犠牲にするんスか! アンタはおれと違って普通の人間なんスよ!? いくら丈夫でも限度があるでしょう……!」
泣きそうな顔で東雲が溯春を咎める。誘引剤の過剰摂取もそうだが、自分が止めなければゴーストによって深手を負っていたであろうことも東雲には耐え難かった。
あの太く長い爪は、もう少しで溯春の胸を貫くところだった。そんな怪我を負った人間がどうなるかなど考えたくもない。
そんな東雲の必死の叫びは、しかし溯春には届かなかった。全く表情を変えず、それどころか鬱陶しそうに「自分の限界ぐらい分かってる」と溜息を吐き出すだけ。
「……その限界に近付けさせないためにおれ達追跡官がいるんスよ」
溯春の反応に、東雲の勢いがしぼむ。
「少しは頼ってください。アンタが追跡官をどう思っていようと、アンタの盾になることはできるんです」
東雲が縋るように言えば、溯春はゆっくりとその顔に視線を移した。じっと見つめ、かと思えば怪訝そうに眉間に力を入れる。「お前、それ素で言ってんのか」信じられないと言わんばかりのその声に、東雲はむっと口を尖らせた。
「だったらなんスか」
「救えねェな……」
「ッ、救われなくて結構です! つーか溯春さんはおれの考え方が刷り込まれたものだって言ってましたけどねぇ、こっちからすりゃもう自分の一部なんでそれでいいんスよ! だからアンタがどれだけ嫌がろうとおれはアンタのために身体張ります! それがおれの役目で望みです! おれはもう二度とハンドラーに死なれたくないんです!」
ふんっと鼻息荒く宣言する。無意識のうちに胸を張り、手は腰に当てていた。
「……だから俺と組ませたのか」
ぼそり、溯春が言う。嫌そうとしか表現できない表情だったが、東雲は話が分からず「何のことっスか?」と首を傾げた。
「何でもねェよ」
「何でもなくないでしょう。朱禰支部長が溯春さんと組ませた理由の話なんじゃないスか?」
「あの人に何も言われてねェんだろ? だったら知らなくていい」
「教えてください」
「うるせェな」
溯春は話を打ち切るように顔を背けると、くるりと踵を返した。そのままふらふらと歩いていこうとする溯春を、東雲が「あ、ちょっと!」と引き止める。
「体調悪いんだから無理に動かないでください。ていうかどうすんスか、こんなに誘引剤吸って……管理局行かないと中和剤なんてないっスよ」
「……なんで中和剤も携帯させねェんだよ、あのクソ組織は」
「依存性があるからっスよ。あーもう、溯春さん中和剤使ったことありますか? 今までの使用回数によってはもらえませんよ」
「だったらいらねェ」
そう言って再び歩き出そうとした溯春を見ながら、「だったらいらないって、まさか依存症の経験あるんじゃ……」と東雲がみるみる顔を険しくした。
「ってことは誘引剤だって使用許可は出てないってことっスよね!?」
「うるせェな、そのへんは問題ねェよ」
「どこがっスか!?」
東雲の悲鳴が墓地に響き渡る。思い出すのは溯春が誘引剤を使う姿。これまで何度も目にしているものだ。しかしそもそも使用許可が出ていなかったのだとしたら、中和剤が支給されないどころか最悪二人揃って処罰対象になる恐れすらある。
悪すぎる状況に東雲がどうしよう、と頭を悩ませていると、「あークソ、気持ち悪ィ……」という小さな声が聞こえてきた。
「……どんな感じなんスか?」
珍しく弱々しい溯春の姿に、東雲の中で焦りよりも興味が勝った。「……顔」溯春がじっとりと東雲を睨みつける。その言葉に東雲はさっと両手で口元を押さえると、「だって初めて見るんスもん」と指先で真顔を作った。
「背中で壁ぶち抜いても平然としてた人がこんな弱ってるんスよ? なんかもう……ねえ?」
「てめェが二日酔いで死んでる時に助手席乗せてドリフトしまくってやろうか」
「……え、やだ」
溯春に言われたことを想像して、東雲の顔から残っていた笑みがさっと消えた。指を離してももう口角は上がらない。相変わらず体調の悪そうな溯春の様子にくっと眉尻を下げると、「もうちょい吐きます?」と目で落ち着ける場所を探した。
「つっても場所的にめちゃくちゃ罰当たりっスけど」
「もういい」
「ちょ、どこ行くんスか!」
歩みを再開した溯春を東雲が慌てて追いかける。と言っても溯春の歩く速度はいつもよりもずっと遅く、すぐに追いついた。隣に並ぶと怒られるだろう、と東雲が溯春の少し後ろをついていくと、間もなくして溯春が足を止めた。
そこはこの墓地に唯一ある枝垂れ桜の下。しなだれる枝の束の先は、長身の東雲の胸の下あたり。
その枝の前で、溯春がぼんやりと立ち尽くす。「……『枝垂れ桜が指差す先』」小さく呟かれた声に東雲が「え?」と聞き返せば、溯春はいつもの表情で「ここ掘れ」と枝の下を指差した。
「……は?」
「掘れ」
「はあ!?」
東雲が叫ぶも、溯春は発言を撤回しなかった。それどころか「さっさとしろ」と言い放ち、まるで東雲が悪いかのような目を向ける。
「ッ、もう! 人のことなんだと思ってるんスか!?」
そう力いっぱい叫んだが、東雲は溯春の言うとおりに動き出していた。近くで手頃な枝を拾い、示された場所に突き立てる。
そうしてザクザクと掘り進めること一〇分。手首まで埋まりそうな深さまで掘った頃、東雲の持つ枝に何か硬いものが当たった。
「ん?」
東雲が枝と手を使って土を払う。すると四角い箱のようなものが姿を現した。まだほとんどが埋まったままで全体は見えないが、アタッシュケースのようなものだと想像できる見た目だ。
「なんスかね、これ」
「戻せ」
「…………はい?」
溯春の言葉に、東雲はたっぷり間を置いてから問い返した。続きを掘り起こそうとしていた手は止まり、信じられないと言いたげな顔で溯春を見上げる。
「えっ、と……今、『戻せ』って言いました?」
「聞こえてるんじゃねェか。さっさとしろ」
「ここまで掘り起こさせましたよね!?」
「だから戻せっつってんだ。元通りにな」
「はあああああ!?」
東雲の絶叫が響く。しかし溯春はどうでも良さそうに木の幹の方へと歩いていくと、「少し休む」と言って木にもたれて目を閉じた。




