いつか来たる未来
黒や灰色をした、光沢のある墓石が並ぶ。縦に長い直方体に整えられたそれらは、日本でよく見る形の墓石だ。どれもよく磨かれ、来訪者を示す花が手向けられている。
ここは歴史ある寺院墓地だった。山の斜面に沿って何段にも渡って無数の墓石が並んでいるが、どの段も手入れが行き届いている。
そこを歩く人影が一つ――溯春だ。いくつもの墓石を素通りして彼が端にある階段を下り始めると、上ってくる女性と目が合った。
「ここで会うなんて珍しいね」
女性は朱禰だった。彼女が手にしているのは薄い紫色でまとめられた花束。しかし主役となっているのはバラだ。同じ薄紫で花束としては調和が取れているが、供え物としては避けられることも多い花。
そんな花束を、溯春がじっと見つめる。するとその視線に気付いた朱禰は苦笑いして、「君も持ってきちゃった?」と小さく花束を掲げた。
「悩んだんだよね。今日は君が来ていそうだから、白か黄色あたりにした方がいいのかなって。流石に紫の花で埋め尽くされたお墓は周りが気にしちゃうだろうし」
「埋め尽くすほど持ってきてないんで大丈夫ですよ。そんなことを悩むくらいしょっちゅう来てるんですか」
「しょっちゅうってほどじゃないよ。母のこともあるからね、最近は月に一回来られればいいほうだ」
溯春に答えながら朱禰が階段を上る。それに合わせて溯春が場所を空ければ、二人の目線はいつもの高さで交差した。
「お袋さん、まだ結構悪いんですか」
「……一時期よりかはマシだよ。時々正気に戻ることもある。でもあんまり良いことじゃないかもね。夢の中が幸せなら、ずっとその夢を見続けていて欲しい」
そう答える朱禰の表情は暗かった。瞼を伏せれば、自然と溯春の胸元で目が留まる。木陰の下、そこには木漏れ日が落ちて、ゆらゆらと眩しい光が小さく動いていた。
「――あんたのことが分からなくても?」
溯春の声が朱禰の耳に響く。いつもよりも些か柔らかいその声に朱禰はふうと息を吐き出すと、「その手には乗らないよ」と顔を上げて、溯春に笑いかけた。
「正直ほっとしてるんだよ。あの人にはもう、心穏やかに過ごせる時間は来ないと思っていたから。……そのために忘却が必要ならそれでいい」
笑ったまま朱禰が視線を落とす。「達観してますね」聞こえてきた声に再び目線を上げ、「諦めてるのさ」と苦笑を浮かべた。
「だから残念だったね、目論見が外れて」
「バレてたんじゃ仕方ありません」
朱禰がいたずらめかして言えば、溯春はほんの少しだけ口角を上げて肩を竦めた。「足止めしたことを謝るべきですか?」溯春が見つめるのは朱禰の持つ花束だ。朱禰はその意味を悟ると、「必要ないって分かってるだろう?」と口を尖らせた。
「そうですね。足止めされたのは俺の方なんでしょうし」
「ふふ、足止めされてくれてありがとう」
「上司に会いに来られちゃ無視するワケにもいかないでしょう」
「一応偶然っていうていなんだけどな」
楽しそうに笑う朱禰に、溯春が「それで?」と本題を促す。そんな溯春に朱禰は少しだけ笑みを薄くすると、「君が報告上げてくれたんじゃない」と話し出した。
「生の亡者に会ったんでしょ? 本当は必要ないのに……まあ、東雲くんを黙らせるためなんだろうけど」
「あいつは納得しましたか」
「どうだろうね。とりあえず警察と連携するっていうのは無理だって理解はしてくれたみたい。生の亡者のことは管理局でもごく少数の限られた人間しか知らないから、『何かあれば私に直接言うだけで、報告書にも書いちゃいけないよ』って持ってきた報告書破棄したらすんごい顔してたけど」
言いながら朱禰は先日の出来事を思い出した。東雲が一人で朱禰を訪ねてきたのだ。彼が携えていたのは珍しく溯春の作成した報告書。そこには彼らが生の亡者と遭遇したことがまとめられており、気になることがあれば朱禰に直接聞くよう溯春に言われたのだと、東雲は不服そうな顔で説明した。
「見事に丸投げだよねぇ」一通り記憶を辿り終わって朱禰が苦笑をこぼす。「手っ取り早いでしょう」溯春が素知らぬ顔で返せば、朱禰は「それはそうなんだけどさ」と眉尻を下げた。
「彼、嫌そうだったよ? 君のこと本気で止めなきゃいけなくなるんじゃないかって。『溯春さんに痛い思いさせたくない』ってさ。うまく隠せてるみたいだね、全部愛犬のせいってことにして」
「からかってます?」
「バレた?」
朱禰がニッと口角を上げる。それを見た溯春が半眼になれば、朱禰は「怖い怖い」と表情を元に戻した。
「隠すのは私も賛成だけど、東雲くんには教えてあげてもいいんじゃないかな。彼相手に隠し続けるのは難しいだろうし、何よりいざと言う時、溯春くんてばうっかり彼のこと殺しちゃいそうだし」
「……人を無差別殺人鬼みたいに」
「なり得るだろう? 今は大丈夫でも、いつかタガが外れれば」
そう言って溯春を見上げた朱禰の顔は先程までと変わらない。薄く笑んだ、柔らかい表情だ。
しかし纏う空気が違った。暗く、重く、警告するような空気。それがもたらす緊張感の中、溯春が黙って朱禰を見つめる。いつもよりも一層感情の読めないその瞳としばし見つめ合い、やがて朱禰が小さく息を吐いて空気を和らげた。
「要するに自衛させてあげてねって話だよ。猫と虎じゃ勝負にならないんだから」
「……そうですね」
溯春は静かに返すと、そっと視線を落とした。その先にあるのはただの階段だ。ほんの少し横に視線をずらせば、無数の墓石が並んでいるのが見える。暖かな晩秋の午後、日差しを浴びたそれらに夜のような不気味さはないはずなのに、自分が見下げているその黒い石達が迫ってくるかのような錯覚を溯春に抱かせる。
『あたしを、人として殺してくれるの?』
耳の奥に少女の声が過る。その意味を思い、溯春はゆっくりと口を開いた。
「生の亡者に聞かれました。自分は人として死ねるのかって」
溯春の声に、朱禰がその横顔を見上げる。
「なんて答えたの?」
「事実を」
「……そう」
朱禰が答えると、彼女の腕の中で花束の包装紙がくしゃりと音を立てた。自然と溯春の目がそちらに引き寄せられる。透き通るような薄い紫色のバラが、溯春を見つめる。
「生の亡者は人と見做すべきじゃない」
溯春の言葉に、朱禰がきゅっと唇を結ぶ。
「ゴーストとして扱えば、少なくとも肉体と魂をほぼ同時に殺すことができる」
そう溯春が続ければ、朱禰は辛そうに眉根を寄せた。
「……でも、二度殺すことには変わりないよ」
「それでもゴーストとして彷徨うよりはいい」
「まずは肉体を殺さなきゃいけないのに?」
朱禰が溯春を見つめる。彼女の胸元で、花束がまた小さく音を立てる。
そんな彼女に溯春は視線を合わせると、「安心してくださいよ――」と言って薄く微笑んだ。
「――自分の首は自分で落とします」
それだけ言って、溯春は階段を下り始めた。




