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境界の咎人  作者: 丹㑚仁戻
第三章 夢喰み心に入り込む
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泥の中の道しるべ

 少女の声に溯春と東雲が目を向ける。少女は下を向いたままだったが、静かに「平気なわけないじゃん」と話し始めた。


「お兄さんの言うとおりだよ。乗っ取ってる間はその身体は完全にあたしのもの、普段この身体でいるのと何も変わらない。だから……すごく怖いよ。今死のうとしてるのは本当にあたしじゃないんだよねって、毎回この身体で目を覚ますまで怖くて仕方ない。……それに、痛いんだよ。高いところから飛び降りるのが一番あたしにとって安全だからそうしてるけど、少しでも抜けるのが遅れれば死ぬほど痛い。さっきだって仕方なく道路に飛び込んだけど、抜けるのが間に合わなかったからめちゃくちゃ痛かった。怖かった。こんなこと平気でやってるわけないじゃん」


 泣きそうな顔で少女が溯春を見上げる。そんな相手に溯春が「自分が人殺しだと認めるのか」と冷ややかに返せば、少女はくしゃりと笑った。


「認めなくてもお兄さんあたしのこと殺すでしょ。なんとなく分かるんだよね、そういうの。たくさんの人の中に入ってきたから」


 そう言って少女は再び視線を落とした。東雲に掴まれた腕から力が抜ける。細いそれが完全に力を失ったのを感じ取ると、東雲は「怖いならなんでそんなこと……」と少女に問いかけた。


「……もっと怖いことがあるから」


 小さく、しかしはっきりとした声で少女が答える。


「死ぬ時に痛くて怖いのは一瞬、でもそれをやめた後に起こることは一瞬じゃ終わらない。だからあたしはやるの。そうしないと生きていられないから」


 答えながらゆっくりと顔を上げた少女の目は、東雲ではなく溯春に向けられていた。真剣なその眼差しを受けて、溯春が眉をぴくりと動かす。だが、視線の冷たさは変わらない。


「お前は何をそんなに恐れる?」

「お兄さんは知ってるんじゃないの? 他にもあたしみたいなのを見たことがあるならさ」

「…………」


 少女の問いに溯春は答えなかった。しかし、彼女には十分だったらしい。「やっぱりそうだ」納得したように少し明るい声を出して、「なるほどね」と困ったように笑った。


「だからお兄さん、あたしのこと殺したいんだ。分かるよ。確かにそれが救いになる。……でもね、あたしはもう別の救いを得たの」

「ホテルで一緒にいた男か」


 溯春が即座に言えば、少女は驚いたように目を丸くした。


「いつから見てたの? そうだよ、あの人があたしの救い。あたしのパパ。パパがいてくれるから、あたしはあたしとしてこの世界を生きていられる」


 今度は幸せそうに少女が微笑む。あどけないのに、年齢よりもずっと大人びて見える笑みだった。

 その笑顔に、溯春の目元に力が入る。不快そうな表情だ。「そいつも生の亡者(ライフクリンガー)なのか?」いつもよりも些か低い声で問えば、少女は同じ笑顔のまま「それも分かるんじゃない?」と返した。


「……普通の人間か」


 少し間を開けて溯春が答えると、少女は「正解!」と表情を明るくした。


「すごいね、お兄さん。パパ以外でこんなにあたしのこと分かってくれる人なんて初めて!」


 そう笑う少女は本当に嬉しそうだった。先程の大人びた笑みではない、年相応の笑い方だ。

 二人の会話を聞いていた東雲は、彼らの反応の意味が分からなった。何故溯春がこんなに不快そうにするのか、そして少女を理解しているのか。少女は少女で理解を得られたことを喜んでいるのだと分かるが、しかしここまで喜ぶものなのかが分からない。

 そうして東雲が困惑しながら会話を見守っていると、不意に少女が「ねえ、お兄さん」と暗い声で溯春に話しかけた。


「お兄さんが会った生の亡者(ライフクリンガー)って、もう生きてないんでしょ?」

「…………」

生の亡者(ライフクリンガー)って、人として死ねるの? 肉体を失ったらゴーストに戻っちゃわないの?」


 溯春は何も答えない。ただ沈黙したまま、少女を見続けている。

 しかし少女がそんな溯春の反応を咎めることはなかった。沈黙に答えを見つけたように肩を竦め、「……あたしは、ゴーストに戻りたくないよ」と地面に向かって声を落とした。


「ゴーストだった時の記憶、少しだけ残ってる。真っ暗な泥の中で溺れてるみたいだった。そこから抜け出したいのに、そのための方法を考えなきゃいけないのに、どうしてかどんどん奥に進んでっちゃうの。自分で自分が制御できないの。嫌だって感じてるのに、自分の感情が無視されちゃうの。……生き返ってから何度も他人の身体で死んだけど、その痛みの方がマシだって思えるくらいあの泥の中は苦しかった。っ……あんなの、もう二度と経験したくない」


 少女の身体に力が入る。拳は握られ、小さくカタカタと震える。

 あまりに弱々しい姿に、東雲は辛そうに少女を見つめた。溯春は相変わらず表情を変えていないが、しかし何も言わずに少女の話を聞いている。


 再びその場が沈黙に包まれそうになった。だが、少女の息遣いがそれを妨げる。大きく何度も深呼吸を繰り返した少女は最後にふうと息を吐き出すと、「お兄さんはさ、」と溯春に顔を向けた。


「あたしを、人として殺してくれるの?」


 縋るような目だった。対して、溯春の目は冷めきったまま。溯春はゆっくりと一つ瞬きをすると、「……無理だな」と静かに返した。


「じゃあやっぱり、まだ殺されたくないな」


 少女が緩く笑う。いつの間にか震えは治まり、話し始める前の姿に戻っていた。


「それまで殺し続けるのか? お前に人を殺すよう指示を出してるのは〝パパ〟とやらなんだろ?」

「あ、やっぱ分かる?」

「狙いが不規則すぎだからな。お前の()()以外で対象が決められてるって考えるのが普通だろ。利用されてるだけだって分かってるのか?」

「分かってるよ。でも、そうしないとあたしが人でいられないから」


 少女と溯春が真っ直ぐに向かい合う。お互い無言で見つめ合っていたが、数秒して溯春が深い溜息を吐き出した。


「東雲、離してやれ」

「えっ?」

「離してやれっつってんだ」


 溯春の指示に東雲が困惑しながらも少女を解放する。しかし戸惑っているのは少女も同じだった。「いいの?」溯春に向けて問いかければ、「今はな」と淡々とした声が返ってきた。


「ゴーストになったら殺してやるよ」


 それまでと変わらない言い方だった。しかし溯春の言葉を聞いた少女が頬を緩める。「その時は早めにお願いね」溯春に笑いかけ、小走りでその場から去っていった。


「――良かったんスか?」


 少女の背を見送りながら東雲が溯春に問う。どこかほっとした様子なのは、溯春がこの場で少女の命を奪わなかったからだろう。

 それなのに逃がして良かったのかと聞いてきた東雲に、溯春は「あ?」と不可解そうな顔をすると、「殺して欲しくねェんだろ?」と未だ少女の去った方を見つめる東雲に目を向けた。


「そうっスけど……でも、見逃すとは思ってなかったんで」

「見逃したワケじゃない」


 そう言って溯春が反対方向に歩き出せば、東雲は慌ててその後に続いた。


「〝パパ〟を捕まえるためっスか。あの子に指示出してるってことは……きっと殺しを請け負ってるってことっスよね、実行はあの子にさせて。殺し屋なら警察に引き継いだりとかは……」

生の亡者(ライフクリンガー)が公になってないのは、存在する証拠がないからだ。ンなモン使った殺人だっつって警察に何かできるワケねェだろ。管理局も同じだ。下手に突っつきゃ逃げられて終わる」

「……じゃあ溯春さんは、自分だけで追いかけるつもりなんスか?」

「ああ。そいつが何をどこまで知ってるかは分からねェが、生の亡者(ライフクリンガー)なんて知ってるなら絶対に他にも何か知ってるはずだ。あの小娘なんて後回しでいい。今あいつをどうにかしたところでどうせ殺しも止まらないだろうしな」


 その答えは溯春らしいものだった。本当の標的を見つけるために、その標的と繋がりのある者を泳がせる――その行動は溯春がいつもの彼に戻ったと東雲に感じさせるものだったが、しかし彼の表情は晴れない。


「……おれ、多分よく分かってなくて。溯春さんがあの子のこと殺そうとしたのは、あの子を助けるためなんスか?」


 東雲の脳裏に少女の言葉が蘇る。


『だからお兄さん、あたしのこと殺したいんだ。分かるよ。確かにそれが救いになる』


 この言葉を溯春は否定しなかった。それは単純にその後に続いた問いにのみ答えたからかもしれない。それか少女の言葉を彼女の独り言程度にしか捉えていなかったからかもしれない。

 それでも東雲は、この言葉は真実だと思いたかった。溯春がただの冷酷な犯罪者ではないと思いたかった。


 だが溯春から返ってきたのは、東雲の期待した答えではなかった。


「めでたい頭だな」


 突き放すような声で溯春が言う。ゆっくりとその顔を東雲に向け、言葉を続ける。


「――あいつらの存在が胸糞悪いからだよ」


 それは東雲がこれまで見た中で一番冷たく、そして憎悪に満ちた目だった。

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