生に縋り付く者〈二〉
元ゴースト――溯春の発した言葉に、東雲は手の中で少女の腕がぴくりと動いたのを感じた。しかし、それの意味するところが分からない。
「元ゴースト……?」
だから鸚鵡返しに呟けば、溯春が「いるんだよ、そういう奴が」と言って話し始めた。
「生の亡者っつってな。たまに心停止した人間が蘇生処置で息を吹き返すことがあるだろ? それだよ。普通は何も起こらないが、たった数分間死んでるうちにゴーストになっていた場合、そいつの肉体に宿るのはゴースト化した魂だ。つっても大抵は肉体がそれを受け入れられずにまた死んじまうけどな。……俺もそれなりの数のゴーストを狩ってきたが、この目で見るのは三例目だ」
そう言って溯春が少女に目を向ける。そこには確かに敵意が見て取れて、東雲は小さく喉を動かした。
「それってつまり……ゴーストの能力を持った人間が存在するってことっスか……?」
どうにか疑問を絞り出す。ゴースト化した魂が肉体に宿るとどうなるのか、具体的なことは東雲には分からない。分からないが、これまでの溯春の言動から察することはできる。
その答え合わせのような東雲の問いに、溯春は「そう言ってるだろ」と面倒臭そうに答えた。
「おれみたいなのってことっスか……?」
自身を指して東雲が尋ねれば、即座に「違う」という答えが返ってきた。
「お前ら追跡官は犬の身体能力を組み込まれただけの人間だ。魂は人間のままだし、行動が犬っぽくなるワケでもねェのは自分でよく分かってるだろ。だが仮に化け犬の生の亡者がいたとすれば、そいつは身体能力どころか本能すら化け犬のものになる。人食いの化け犬なら、そいつは人間の身体に戻っても人間を食い続ける。人の皮を被ったゴースト――それが生の亡者だ」
溯春の纏う空気が一段と冷たくなる。その厳しさは溯春が生の亡者をゴーストと同一視していることを示していた。
そして、その意味が東雲には理解できてしまった。溯春にとっては、生の亡者の疑いがあるこの少女もまたゴーストと同じなのだ――これから起こり得ることを想像して、東雲に強い緊張が襲う。案ずるように少女を見る。溯春の敵意に怯えているだろうと考えたが、しかし少女は薄く笑って溯春を見ていた。
「お兄さん詳しいね。でもそれ、秘匿情報じゃないの?」
「ああ。だがそのことも知ってるってことは否定する気はないんだな」
溯春の言葉に少女が笑みを深くする。「まあね」愛らしい声で紡がれた肯定が、東雲には薄ら寒く感じられた。
「だって生の亡者っていう存在は公には存在しない。ゴーストの処分については法律で定められていても、ゴーストの能力を持った人間については全く触れられてない。だからお兄さんに私をゴーストとして扱うことはできないよ? もし手を出したらただの人殺しになっちゃう。ゴーストを狩るってことは、お兄さんはゴーストクリーナーなんでしょ? ゴーストクリーナーが殺すのはゴーストだけで、人殺しはできない」
にっこりと少女が笑う。しかし溯春は顔色一つ変えることなくそれを見つめ、「ゴーストクリーナーはな」と淡々と返した。
「だからお前の処理を申請したところで通るはずがない」
「じゃあ……?」
「――俺は人殺しだ」
その言葉とともに溯春が出したのはいつもの大鎌ではなかった。彼の手の中にあったのはナイフだ。「ッ、溯春さん駄目!!」鈍色の光を発するそれに東雲は血相を変えて叫び、少女の腕を掴んだまま彼女を自分の背に隠した。
「なんでそんなモン持ってるんスか! アンタ自分の立場忘れたんスか!?」
「別にいいだろ、人間に対して使うワケじゃない」
「今まさに人間に使おうとしてるでしょう!?」
「そいつは人間じゃない」
溯春の言葉に東雲がぐっと押し黙る。だが、それもほんの短い間のこと。すぐにぶんぶんと首を振ると、気を取り直すように「でも駄目なんです!!」と声を張り上げた。
「ていうかどう考えたっていいワケないでしょう!? 自分でもこの子に手を出すのは人殺しだって認めてるじゃないスか! 彼女がその生の亡者ってやつだとしても、本当に人を殺していたとしても、アンタがここで手を下すのは絶対に間違ってるんスよ!!」
東雲が肩で呼吸を繰り返す。力が入ってしまったのか、少女が「痛っ」と小さく悲鳴を上げた。「あ、ごめん……」少女の腕を掴む力を緩める。そうして東雲が少し冷静さを取り戻した時、溯春が呆れたように「放っときゃ死人が増えるのに?」と東雲に問いかけた。
「この短期間で何人死んだ? ここでこいつを逃がせばまたすぐに同じだけ死ぬぞ」
「それは……っ」
東雲の顔が口惜しそうに歪む。「だとしても……!」険しい表情のまま視線を上げ、溯春を見つめた。
「おれはアンタのバディとしても、アンタが人を殺そうとしているのを黙って見逃すワケにはいきません。おれ達追跡官はハンドラーの道具ですが、同時にハンドラーの暴走を止める役割も負っています。溯春さんだって分かってるでしょう? おれはアンタの見張りなんです。おれが見てる前でアンタが法を犯そうとするのなら、おれはアンタの命令を全部無視してそれを止めなきゃならないんです!」
「俺とやり合うってか」
「やり合いにもなりませんよ。ただの人間じゃ追跡官の身体能力には敵いません。技術で埋められないだけの差があるんです」
そう言って東雲は溯春に強い眼差しを向けた。真剣で、しかし思い悩むような目だ。
それでも溯春の様子は変わらない。そんな相手に東雲は一呼吸して、くっと眉を寄せた。
「第一おかしいですよ、溯春さん。いつもの溯春さんだったらこんな非合理なことしないじゃないスか。いつもだったら多分この子のこと泳がせて、言い逃れできないボロを出すように仕向けるんじゃありません? それなのにこんな、明らかに自分がいずれ不利になる行動をしようとしてる。やっぱりおかしいです。いつもの溯春さんじゃありません!」
「お前が俺の何を知ってる」
その瞬間、溯春の目に殺意が宿った。「ッ……!」あまりに鋭い視線に東雲がたじろぐ。凶暴なゴーストを相手にした時にも感じたことのないような緊張感が、東雲から自由を奪う。
「生の亡者は死んだ方がいいんだよ。この小娘だって分かってるはずだ、自分はもう人間に戻れないってな」
溯春が言葉を向けたのは少女だった。低く威圧感のある声色に、少女が顔を俯かせる。
そんな少女に「だからこんな頻繁に殺しができる」と溯春は口を動かし続けた。
「自殺の直前で笑ってたのは死んだ奴じゃない、こいつだ。本体が気絶したことから考えると相手の身体を乗っ取ってたんだろう。仮に自分のタイミングでその身体から抜けられるとしても、何度も何度も自殺を繰り返してるのはこいつ自身だし、そんなことができる奴がマトモな神経をしてるはずがない。こうやって平気な顔してるってことは、こいつはもう性根までゴーストなんだよ」
嫌悪と侮蔑の混じった声だった。溯春の話を聞いて、東雲もまた視線を落とす。溯春の言うことを否定したくとも、今与えられた情報以外に何も知らないせいで言葉が浮かばない。
苦し紛れに少し後ろへと目を向ければ、そこには俯いたままの少女の姿があった。まだ幼さを残し、笑うとあどけなさすら感じさせるただの少女だ。そんな子供が、何人も手にかけている――これまでの会話からそれはもう紛れもない事実なのだろう。それが一層、東雲にやるせなさを与える。
無音だった。溯春が話し終えた後は誰も声を発することなく、風が公園の木々の間を抜ける音も、その向こうにある自動車の走行音も、ここには届いていないかのような錯覚が三人を覆う。
だが少しして、一つの音が静寂の中に落ちた。
「……平気じゃないよ」
ぽつりと、消えてしまいそうなくらいに。けれどその音は確かに、他の二人の耳にも届いた。




