契約結婚だからこそ、二人の愛が芽生えたんです。
「本当に、これで大丈夫なのかしら……?」
頭上に輝くシャンデリアの光が、緊張でこわばる私の手元をやんわり照らす。
名ばかりの婚約式だというのに、周囲の目がやけに熱い。私――ソフィ・エドワード公爵令嬢は、十五歳の時に前世の記憶を思い出して以来、ずっと“自分の人生は自分で選びたい”と思ってきた。
だが公爵令嬢としての立場は、思いのほか厄介だった。
もし私が積極的に結婚を拒否すれば、両親や領民に迷惑がかかってしまう。ましてや、エドワード公爵家の次期当主候補にとっては「政略結婚」が避けられない慣例なのだ。
私はなかば諦めて、一度はクレイグ子爵家の嫡男と婚約した。が、彼はどうやら「公爵家の娘と結婚すれば自分の家の格が上がる」としか考えていなかったらしく、私の人柄など全く見ていなかった。そんな彼の態度を知り、前世の記憶を思い出した後の私は、もっと自由に生きてみたいと思った。自分が互いを大切に想えない相手と結婚するなんて、まっぴらごめんだ。
そこで、私が取った行動は“別の相手”を探すこと。しかも、恋愛より家の安定を優先する、同じような考えの人がいい。そんな願いを、あるときふと噂で聞いた「テオバルト・レイノルズ大公」に託してみることにした。
彼は二十代半ばでありながら国の重要な領地を治める大公家の当主で、武にも精通し、教養もある。何より「人柄は良いけど恋愛にはまったく興味がない」と言われていた。
その噂を聞きつけ、彼に打診してみたところ意外にもあっさりと「いいですよ」と返事が来た。大公家の側にも政略的な安定が欲しかったらしく、互いの利害が一致したというわけだ。
そうして始まった、私とテオバルト大公との契約結婚。
初めは淡々としたものだった。必要最低限の挨拶を交わし、互いの部屋は分け、表向きには「円満な新婚夫妻ですよ」という顔をしているものの、実はそれ以上でも以下でもない。
ところが、そんな静かな新婚生活に転機が訪れたのは、結婚から一ヶ月ほど経ったころのことだった。
***
「ソフィ、大丈夫か? すごい熱だな」
少し乱れた金の髪と鋭い青い瞳――テオバルト様が心配そうにベッドの私をのぞき込む。
「う、うん……どうも頭が痛くて……」
高熱で朦朧とする中、私は息を詰まらせた。前世でもこんな高熱を出したことはなかった。ふと見ると、私の周りだけ空気がやけに明るい。
(なに、この光……?)
乱視でも起こしているのかと目をこするが、どうやら幻覚ではないようだ。私の身体を包む淡い金色の光は、テオバルト様が伸ばした手にまでほんのり移っている。
「これは……まさか治癒の魔力?」
テオバルト様が驚いたように眉をひそめる。そう、私にもなんとなく察せた。これは普通の熱などではなく、体内に溜まった特別な力が暴走していたのだ。
「んん……神官を呼んだ方が……」
「いや、宮廷付の医師に診せる。神官より冷静に対処してくれるはずだ」
彼のテキパキとした指示で、宮廷付きの医師が駆けつけてくれた。診察の結果、私の身体には“人並み外れた聖女の力”が宿っていると判明した。
しかもその力は数十年に一人現れるかどうかというほど珍しい、まさに国宝級。私が熱を出したのも、その力が目覚める兆しだったようだ。
信じられない。転生してきた私がまさか聖女? 前世でもさほど特異な能力はなかったのに……。
そう思う私をよそに、テオバルト様は医師と静かに会話を交わし、その後あっさりと命じた。
「とりあえず、危ない症状は落ち着いたんだな? であれば、しばらくは安静に。……ソフィ、疲れるからしっかり休むんだ」
彼はそれ以上何も言わず、ただ私の額に手を当てて体温を確かめるだけだった。
――聖女だろうがなんだろうが、妻は妻。それが、彼の態度から察せられた。
***
翌日から、私のもとには絶えず神殿の使者や王家の勅使が訪れた。大公家に聖女がいる――それだけで国中が大騒ぎになったのだ。
「ソフィさま、どうか我々聖堂の正式な祭司としてお仕えいただきたいのです!」
「この国で最も敬うべき存在……今すぐにでも、神殿にお越しください!」
口々に言われるたび、正直うんざりしてしまう。私は神殿に入るつもりなどない。転生前も今世も“自由”が何よりも欲しいし、そもそも私はテオバルト様の妻としてここにいるのだから。
そんな私の本心を察してか、テオバルト様は妙な騒ぎを沈静化するため、直接動いてくれた。
「私の妻を、これ以上追い立てる行為はおやめください」
そう冷徹に言い放つと、神殿関係者もそれ以上は強く迫れなかった。大公である彼は、王家にも並ぶほどの実権を握っている。そして何より、とても穏やかながら芯のある物言いが、人々の苛立ちを鎮めるのだ。
神殿の者たちはしぶしぶ引き下がったものの、未練がましく後日も訪問を繰り返した。その度に、テオバルト様は飽きることなく対応してくれる。
「彼らも仕事だろうしな。だが、これからは無理せず近衛騎士たちに任せるといい」
「ありがとう……本当に助かります」
「気にすることはない。契約結婚でも、夫婦は夫婦だろう?」
にこりと微笑む彼の優しさに、何度胸を打たれたか分からない。
***
そんな日々が続いている中、思いもよらない人物が私の前に姿を現した。
「ソフィ、久しぶりだね……」
――かつて私の婚約者だった、クレイグ子爵家の嫡男であるオリバーだ。
招いてもいないのに大公邸の門に押し掛け、門番に取り次ぎを願ったらしい。私は仕方なく応接間へ通し、話を聞く。
彼はかつての私には見せなかったほどしおらしい態度で、頭を下げてきた。
「……君が聖女の力を持っているなんて、全く知らなかったんだ。別に君を粗末に扱ったわけじゃない。ただ、当時はいろいろ事情があって――」
「そう。私がただの公爵令嬢だと思っていたから、あなたは私を適当に利用するつもりだったのよね」
「そ、それは……」
言葉を濁すオリバー。前世の記憶を思い出してから気付いたことだが、私は彼にずいぶん軽んじられていた。周りには「一応は公爵家だから結婚して損はない」と吹聴していたらしい。
彼からすれば、私に大公家の婿を奪われたような気分なのだろう。けれど、私は別に彼がどうこうと言う前に、自ら行動を起こしただけだ。私の方こそ、当時の彼とは結婚したくなかった。
彼が盛んに「君の力があれば、国だって動かせる」などと語るほど、聖女が珍重されている現状は理解している。だが私は呆れた口調で答えた。
「……今さら何を言われても、私の意思は変わらないわ。私はテオバルト様と共に、この大公領で暮らしていきます」
「お、俺は心から反省しているんだ。君を軽く見たことは謝るから、戻ってきてくれ。必ず幸せにする。……頼むよ」
そんな彼にかける言葉は一つしかない。
――私が当時どんな思いをしていたかなんて、知ろうとすらしなかったあなたが、今さら私を欲してももう……。
私の黙ったままの態度が、ある意味何より雄弁な拒絶となる。彼は必死にまくしたてたが、最終的には衛兵が「お引き取りください」とやんわり促して、追い返すしかなかった。
一連のやりとりを遠目に見ていたテオバルト様が、小さく肩をすくめて言う。
「ずいぶんと困った顔をしていたな。大丈夫か?」
「ええ、もう何とも思っていないわ。大公邸に無断で来られるのは困るけど……」
昔の自分だったら、もう少し気を揉んだかもしれない。しかし今は、目の前に私を大切にしてくれる人がいる。それで十分満ち足りているのだ。
「それにしても、私が聖女だって分かった途端に取り戻そうとするなんて、正直どうかしてるわよね」
「世の中、そういう人は多い。私も、大公位を継ぐ前にはいろいろ言われたものだよ。“実力があるなら利用したい”とか、“軍事力と財力が欲しいから連携を組め”とか……」
そう言って彼は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「そんな思惑抜きで、私をまっすぐに見てくれた人は少なかった。だからこそ、君との契約結婚は良い意味で気楽だったんだ。損得だけでもなければ、裏の探り合いもないからな」
「そう言ってもらえて嬉しいです。私も、あなたとの契約はとても助かっています。……いつの間にか、本当にあなたのことが大切になってしまったけれど」
ポロリと本音が漏れて、私は少し顔を赤らめる。契約結婚とはいえ、すでに私の中では“愛する人”になっているのだ。
***
その後も神殿や王宮から「聖女としての奉仕」の要請は続いた。だが、テオバルト様は毅然と断り続けてくれる。
ある日、神殿の最高位神官がわざわざ大公邸に訪れてきた。私とテオバルト様が面会すると、神官は静かに頭を下げながらこう言った。
「大公殿、そしてソフィ様。度々のお願いを聞き入れてくださらず、誠に申し訳ありません。しかし今、国境付近では病が蔓延しており、多くの人々が苦しんでおります。どうか、その力で救っていただけないでしょうか」
私はハッと息をのむ。困っている人を助けたいという気持ちはある。
テオバルト様は私の顔をうかがい、ゆるりと頷く。
「強要される形では困るが、人々を助けたいのはソフィの望みでもある。条件として、神殿の管轄でなく“私たち自身”の判断で治癒を施すということであれば、協力しよう」
「それで構いません。ただ一日も早くお願いします。私どもは、聖女様にすべてをお任せしたいのです」
こうして私たちは大公家の馬車で国境付近の街を訪れ、多くの病人たちを癒やして回った。
私の力はまだ安定しているとは言えないけれど、以前よりコツがつかめてきた。治癒の魔力を放出すると、陽光があふれるような優しい輝きが相手を包み、苦しそうな表情が和らいでいく。
病で憔悴していた子供が、小さな手で私の手を握りしめ、「ありがとう、お姉ちゃん……!」と笑顔を見せてくれたとき、私の胸は熱い喜びで満たされた。
「ふう……少しは人々を救えたかしら」
一通り施術を終え、休憩所に戻ってきた私に、テオバルト様が水を差し出す。
「大したものだ。これだけの人数をあれほど短時間で……さすが国宝級と言われるだけあるな」
「そんな大げさな……でも、助けになれて嬉しい」
疲れはあるが、その分心は澄み渡るようだ。彼はそんな私をいたわるように微笑んでくれる。
――こうして私たちの“契約結婚”は形を変えていった。いつしか周囲の人々は私たちを見るたびに、「あのご夫婦は本当に仲睦まじい」「理想の夫婦像だ」と称えるようになっていた。
***
都市部に戻ると、神殿からは繰り返し「ぜひ、正式に神殿所属の聖女になっていただきたい」という招待状が届いた。しかしながら、私がその誘いに乗ることはなかった。大公家で彼の妻として生きながら、必要に応じて人々を助けたい。そんな考えがすっかり根づいていたからだ。
面白いことに、王家からも同様の依頼が来るようになった。宮廷での祝賀行事に出席してほしいとか、国王の病気治癒を手伝ってほしいとか……。それらもテオバルト様が細かく日程を調整してくれる。
「君が行きたいと思う行事だけ参加すればいい。無理に呼び出される謂れはないからな。あまり負担をかけたくない」
その言葉を聞くたびに、“ああ、この人と結婚して良かった”と心底思う。
そうしてしばらく平和な日々を過ごしていると、ある日また懲りずにオリバーが大公邸に現れたらしい。私は会うつもりはなかったが、居留守を使うのも彼に余計な期待を与えるかもしれないと思い、玄関先で挨拶だけすることにした。
「えっと……すまない。前回は無様な姿を見せた。だけど、君の実家の公爵夫人からも“そろそろ戻ってきたらどうか”と言われているんだ。君がここにいるのは、いずれ契約が切れるからだろう? ならば……」
やけに期待を込めた視線で語る彼に、私は静かに首を振る。
「契約は契約だけど、私たちはもう契約だけの関係ではないもの。残念だけど、もう二度とあなたと結婚する可能性なんてないわ。――私の家族にまで言ったのね? でも、どうにもならないでしょう」
オリバーは絶句したあと、何か言いかけたが、その瞬間玄関ホールに響く足音が聞こえた。
「ソフィ、こんなところにいたのか。……ああ、そちらはお引き取りいただけるかな。大公邸は私有地だからな」
凛とした声でオリバーを制するテオバルト様。その言葉と佇まいに、オリバーの顔には悔しさが滲む。
いま彼がどんな思いでいるか、想像はつく。でも、私たちはもう前に進んでいるのだ。その現実を、彼もそろそろ理解しなくてはならない。
***
その日、オリバーはもう抵抗することもなく帰っていった。おそらく後悔や嫉妬でいっぱいだろうが、私が抱ける感情はただひとつ――“あの頃の自分には戻らない”という安堵感だけ。
玄関先を片付けていると、テオバルト様が私の手をそっと取って言う。
「……例の元婚約者、ずいぶん未練がましいな。ソフィは本当にいいのか?」
「もちろん。私にとって、あなた以上の相手なんていないもの」
「ふふ。なら何も言うことはない」
そう言って、テオバルト様は恥ずかしくなるくらい穏やかな笑みを浮かべた。つい胸が熱くなり、私もその手を握り返す。
いつか本当の意味で、形だけでなく心からの結婚式を挙げたい。そう思わずにはいられない。
「ねえ、テオバルト様。この先も、私のことを……あなたの隣に置いてくれますか?」
「当たり前だ。君が聖女だろうがなんだろうが、私の大切な妻なんだから」
――こうして、転生した公爵令嬢の私と、“人柄のよいけれど恋愛に興味がない”と噂されていた大公との結婚生活は、最初の契約通りの形を大きく越え、国中から祝福される幸福なものとなった。
神殿や王宮の勧誘は熱を帯び続けているが、私たちの気持ちは固い。これからも、私たちは夫婦として支え合い、人々を必要なときに助けながら、のんびり幸せに暮らしていくのだ。
以前の私を見下していた人たちがいま何を思っていようと、もう手遅れ。
そして、私は今の幸せを決して手放さない――そんな決意を胸に、優しい陽光に包まれながら、私は大公領の庭で微笑んだのだった。
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