第9話 優の初恋
当たり前のように差し出される手をぎゅっと握った。その手は自分のものより少し大きくて包まれる感覚に胸が高揚したのを覚えている。
「優ちゃん、いこう!」
笑いかけるその顔は優しくて、その優しさにずっと触れていたいと思った。
彼と隣に立てることが何よりも嬉しくて。
その手に引かれる日々は優にとって幸福以外の何物でもなかった。
「ほら、おばあちゃん家からスイカをもらったんだ。すっごくあまいからたべて!」
白い皿の上に置かれたスイカを真剣に吟味する横顔さえもかっこよく思えた。
乙女心とは不思議なもので、好きと気付いてしまったらなんでもかっこよく見えてしまうのだ。
その横や前でスイカを食べる他の二人には目もくれず、ただ彼だけを見つめ続けた。
「優ちゃんにはこれ、いちばん大きいやつね」
三角に切られたスイカを受け取り、こくりと頷く。照れくさいやら、嬉しいやらで気持ちが忙しい。
「ありがとう……藤お兄ちゃん」
小さく齧り付いたスイカは甘くて、でも恋のどきどきで味は正直朧気だ。
記憶の中に残っているのはあの頃、どうしようもなく藤のことが好きだったこと。
理由なんてものはなくて、ただ自分よりも少し年上なだけでかっこよく思えた。きっとそれだけのことだったのだろう。
藤は今も昔も変わらず面倒見がよくて、周りより小さい優のことを特に気にかけてくれていた。それが幼心に響いただけ。本当にそれだけ。
成長した今では藤を好きだった頃の記憶なんて抹消したい黒歴史のひとつなのだから。
「へぇ、優にもそういう頃があったんだ。かわいい〜」
「かわいくないよ! てか、紀依ちゃん、なんで私のこと話すの!? ここは自分のことを話すとこでしょ」
「私に初恋なんてないもの」
悪びれることなく答える友人に恥ずかしくて赤くなった顔で睨みつける。
鋭さなんて程遠い優の睨みに紀依は涼しい顔だ。小さい頃の付き合いではあるが、彼女のこの空気を壊せたことなんて一度としてない。
「あんなにモテるのにぃ?」
「モテと経験は比例しないわよ。その実例が私」
美人でオマケに大人っぽい雰囲気の紀依は男子にかなり人気がある。
定期的に告られているし、本人にその気がないという点を除けば一番恋愛事に近い人物である。
「でもあたし的に紀依の恋バナちょー聞きたいけど?」
「ないわね」
ばっさりと切り捨てる紀依。
女の子は恋の話が好き、なんて言うけれど、この三人の中で恋話が話題に上ったのは今回か始めてである。
その理由は単純明快、紀依と優は基本的に恋の話に興味のないタイプの女子だからだ。話題に上ればそれなりに合わせる優はまだしも、紀依は一切恋の話をしたがらない。
とはいえ、作品の感想の延長線上でならわりと話に乗ってくれるので本当に『女の子の恋話』が興味がないかつ嫌いなのだろう。
この場合嫌いなのは恋話ではなく、恋話を振ってくる女子なのだろうが。
「三次元には興味ない系?」
実の所、先程からの奈々の発言はぎりぎりで紀依の逆鱗に触れるものばかりで、傍から聞いている優は胃がきりきりしている。
「私は夢女子でもリアコでもないから、二次元にも恋愛的な興味はないわよ」
紀依が気分を害さないか心配を膨らませる優を他所に素っ気なく、かついつも通りに答えている。
ちなみに奈々は聞き慣れない単語の出現に首を捻っていた。
「色恋は第三者として見るから面白いの、二次元、三次元関係なく」
歪みない性格の悪さを滲ませる紀依の表情は楽しげで、優の心配は杞憂に終わりそうだ。その代わりに別の心配が浮上してきたが。
「優の話ならいくらでもできるわよ。何が聞きたい?」
「ああぁぁぁ、やっぱり」
恋話が嫌いな癖に妙に乗り気なのはきっとそのせいだ。
付き合いが長い分、握られてはいけない人に大量の弱味を握られている優は為す術もない。
と、そこへノック音が差し込んだ。扉を開ければ、スイカが大量に乗った皿を持ってきた藤の姿が。
図らずも少し前の思い出話を思い出される姿に複雑な思いを抱きつつ、皿を受け取る。
会話の内容が内容なので、藤の入室は断固として拒んだ。
「入れてあげればいいじゃない」
「男子禁制!」
真宏を初めとした玉木家の面々を度々入れていることは棚にあげつつ、嫌な笑みを浮かべる紀依へ言い放つ。
「ささ、食べよ」
話題を瑞々しく赤い果実へとすり替えるように差し出した。
玉木家の祖母から送られてきたというスイカはあのときの変わらない甘さで、朧気な味もきっとこんなだったんだろうなと懐古する。
藤へ想いを寄せていた過去は黒歴史だが、スイカに罪はない。膨らませていた恋心を、舌先で踊るスイカの甘さに塗り替える優であった。