第1話 居候開始!
その日は何の変哲のない日だった。特筆することと言えば、一学期の終業式が終わり、明日から待ちに待った夏休みが始まるということくらいだ。
長期休みはある意味で非日常であり、学生にとっては年に数回来る日常とも言える。
ともあれ、日々を自堕落に過ごせる休みの開幕に胸を弾ませ、優――上川優は自宅の玄関扉に触れた。
「ん、あれ? しまってる。お母さん出掛けてんのかな」
家に帰ってからが夏休みの始まり。
それを鍵のかかった扉に阻まれ、優は首を傾げた。
終業式の今日、学校は午前まで。つまるところ、お昼時の帰宅で、母が昼食を用意して待っていてくれている予定だった。
しかしながら待っていたのは鍵がかけられた玄関。
買い物が長引いているのか、はたまた買い忘れでもあったのか。
特別重視する事柄ではないという判断で、優はリュックから鍵を差し込む。
今度こそ玄関を開ければ、無人の家に迎えられる。母が不在なら、それが正解だと優は夏休みへの一歩を踏み出した。
いつものようにリビングへ行き、何気なくテーブルへ視線を向ける。
絶賛空腹の優は昼食があることに期待して目を向けたわけだが、そこにあるのは一枚の紙だけだった。
置き手紙という奴だろう。
とことこと歩み寄り、内容を確認する。
この身を支配しつつある空腹を紛らわす手段でも書かれていたらいいなと仄かに期待しながら。
優へ
お父さんとお母さんは旅行に行ってきます
お土産楽しみにしててね
追伸、七緒ちゃんには連絡してあるから。
両親より
簡潔すぎる文を読み、優は息を吐き出した。
またか、と。
優の両親は稀に見る旅行好きだ。対して、優はそこまで旅行が好きではない。
嫌いでもないが、外出するか、家で過ごすかの二択に迫られたら後者を選択するインドア人間なのである。
そんな優を自分たちの趣味に付き合わせることを好まない両親はこうして二人だけで旅行に行くことが多い。
非常識とそう謗られても仕方がない両親の行動を支えているのは、追伸として付け加えられた一言であった。
「早く行ってくれたら直行したのに」
連絡の遅さだけに文句を零し、優は置きかけていたリュックを背負い直す。
「着替えは……後でいっか」
今はとりあえず人心地つきたい。
ということで優は来た道を戻り、数分足らずで自宅を後にした。その足で目指すのはお隣さん。
「あ」
走れば一分もかからない距離を歩く優は、今まさに家に入りろうとしている人影を見つけた。
リュックを背負い、夏の陽射しに溶けてしまう言わんばかりの姿を晒したその人物。
「音葉、今帰り? 和は一緒じゃないの?」
玉木音葉。優の幼馴染にして、クラスメイトの少年である。
黒縁の眼鏡の奥から鬱陶しげに視線を送られる。
「隙あらばニコイチ扱いしようとすんな」
「えぇ、いいじゃん。いいじゃん。ニコイチ最高じゃん」
「うるせぇ、腐女子」
優的イチオシCPであるところの和×音。目の前にいる音葉と、その二つ上の兄、玉木和のカップリングである。
「あ、今日から私、玉木家に居候するから」
「そ」
素っ気ない返事は慣れから生まれるものだ。
優が玉木家に厄介になるのはそう珍しいことではない。
呆れが生まれないくらいに日常化している。
両親の不在はもちろんのこと、休みの日となれば理由もなく泊まりに行くことも多々ある。
上川家と玉木家、優は二つの家を行き来して暮らしているのである。
「お腹空いたあ。今日って藤もいる?」
「高校も今日からだからな」
玉木家は四人兄弟だ。音葉は三男、そのお相手の和が次男。そして話題に上がった藤は長男である。
当然のように玉木家へ帰宅し、当然のようにリビングへと向かう。馨しい香りの漂うリビングへ。
「ただいま〜」
無言で帰宅する音葉に代わって、優が帰宅の挨拶をする。物言いたげな音葉の視線は無視した。
「おかえり……って優ちゃんも一緒だったんだ」
「これからお世話になります」
青いエプロンを身につけ、台所で調理に勤しむ少年。青縁眼鏡、見た目だけはイケメンの彼こそ玉木家長男、玉木藤だ。
「じゃあ、しばらく賑やかになるね」
「あんまり変わんねぇだろ」
「変わるよ〜。ご飯作る量も増えるし」
玉木家の家事担当男子の言葉に、音葉と優はそっと視線を下へ。
ここで手伝うと言わないのが二人である。
「いやあ、お腹空いたね」
無理矢理に話題を逸らす優はリュックを下ろし、席につく。目の前に音葉が座った。
「音くん、なーくんがいつ帰ってくるか分かる?」
「なんでオレに聞くんだよ」
「音くんなら知ってるかなあ、って」
きらきらと目を向ける優を敢えて視界から外しつつ、音葉は深く溜息をついた。
どいつもこいつも、と溜息が物語っている。
「そのうち帰ってくんじゃね」
興味なさげに返す音葉を、顔を緩ませた優が見つめる。睨み返された。
頑なに拒否されるとそれはそれでおいしく感じてしまうのが優はの腐女子心だ。
「宏くんもそろそろ帰ってくるだろうし、みんなで食べれそうだね」
にこにこと嬉しそうな藤。
優的にはお腹が空いたので今すぐにでも食べたいところだが、ここは何も返さない。
和はともかく、真宏――玉木家の末っ子よりも先に食べてしまうのは可哀想だし。
「たっだいま〜」
可愛らしい無邪気な声とともに、可愛らしい足音が近付いてくる。
話題に出たばかりの末っ子の帰還に優の頬は思わず緩まる。可愛い。
「……ショタコン」
ぼそりと聞こえた声は音葉のものだ。文句を言いたい気持ちを堪える優は笑顔とともに真宏を迎え入れる。
「あ、お姉ちゃんだ! 今日はお姉ちゃんも一緒?」
「一緒だよー。今日は一緒に寝ようねぇ」
「やったー」
小学六年生とは思えない無邪気さで喜ぶ真宏。可愛い。
このまま成長してくれることが、優の数多くある望みの一つである。
どうか穢れずに育ってと無垢な笑顔を見るたびに優は強く願っている。
「んじゃ、ご飯食べよっか」
「だな」
同い年コンビは当然のように頷き合い、藤が並べた食事の数々と向き合う。
「ダメだよ!? まだなーくん帰ってきてないでしょ!?」
「別にいいだろ、和は」
「そうだよ、気にしないよ、和は」
帰ってきて全員の食事が終わっていようと、寂しく一人で食べることになろうと、和なら気にしない。
そう主張する二人に長男、藤は頑として首を縦に振らない。
「だーめ。食べれるときは一緒に食べなきゃ」
「……いつ、一緒に食べられなくなるか分からないから、ってことか」
「はいはい、厨二乙」
突然厨二スイッチが入った音葉を適当にあしらう。ここで音葉に離脱されたら、優の空腹を凌ぐ術が失われる。
優はもう限界に近づいていた。今すぐにでも食事をとりたい。お腹を満たしたい。
そんな欲望に駆られ――
「優お姉ちゃん、ご飯はみんな一緒に食べないとダメなんだよ」
「そおだよねぇ。うんうん、真宏くんがそういうならそうしよっか」
食欲という欲望をあっさりと切り捨て、優は別の欲望へと身を任した。
可愛いは正義。ショタは正義。
「ショタコン」
「ロリもいけますぅ」
可愛いは正義。ロリショタは正義。
「……威張ることじゃねぇんだよな」
そんな音葉のぼやきは一先ず無視する。
誰になんと言われようと、優の中で確立しているロリショタ最強説は覆らない。
「和、早く帰ってこないかな」
己の法に則って、和を待つことを選んだわけだが、空腹は継続中である。法で空腹は紛れない。
同年代から見ても小柄な優の体は燃費が悪いことで有名だ。チビとさえ言われるこの体の、どこにそんな栄養が必要なのか謎である。
などとつらつら意味のないことを考える優の、あまり鋭敏ではない耳が玄関扉が開く音を捉えた。
「ただいま」
玉木家四兄弟のうち、唯一眼鏡をかけていないその人物がようやく帰還を果たした。
次男坊、玉木和。その眠たげな目は手付かずのまま、テーブルに置かれていた食事を認めてただ一言、
「先に食べててもよかったのに」
優しいとは違う、頓着しない態度でそう言ったのであった。
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