1.彼はいかにして失業を恐れる事をやめ冒険者になるに至ったか
戦争が終わったのはつい最近の事だ。
金にならない戦争だった。
内海を南北に挟む二つの大陸。
かつてはそれぞれが巨大な国によって統一され。
双方が世界を何度も崩壊出来るほどの魔導兵器を抱えて睨み合っていた。
神話に謳われる金剛鋼の装甲すら、容易く貫く魔導砲。
その攻撃を正面から受け止める防護障壁。
星界には眠りを忘れた監視塔が無限長の視力で地上を睨み。
地上から放たれる光弾は、その監視塔を捕らえて射落とす。
火球が放たれれば国一つを灰燼に変え。
一度攻撃を感知すれば、完全自動の全力反撃で、相手の大陸を焦土に変える。
そんな終末兵器を双方が抱え。それでいて相手の反撃を恐れて睨み合う。
そういう戦争が100年ほど続いて。
両国揃って、予算と国力を使い果たして、内部分裂を起こして国が滅んだ。
一つの国家に統一されていた両大陸は、100ほどの国家群に分裂。獲った取られたと領地争いを始める事になる。
もはや、他の大陸の事に構っていられる状況ではない。
なのでまあ、なし崩し的に戦争は終わった。
金にならない戦争だったので、関係者はみな大いに喜んだと言う。
「背負い袋、損傷なし! 袖ヨシ! 裾ヨシ! 靴紐ヨシ!」
そんな訳で金にならない戦争が終わった大陸の北の方。
ムンドゥス大陸の南端の小国家ウーガル王国のさらに南の端の港町。
漁業と交易、そして冒険者業で栄えるその町はミールと言った。
そのミールにほど近い磯。
ゴツゴツとした黒い岩が露出するその磯に、エルンスト・グライヒはいた。
「月齢ヨシ! 風向きヨシ! 波やや高くして、しかして任務に支障なし! すべてヨシ!」
背の高い金髪の男だった。
安物の外套は、生地の安っぽさとは不釣り合いにパリっと糊が効いている。
背筋は鉄の芯でも入っているのかと思うほどにまっすぐに伸びて。
黒革の手袋をつけた長い指先で、背負い袋や靴紐や、周囲の一つ一つを指差し確認をする。
「よろしい。それでは、初心級冒険者エルンスト・グライヒ。これより採取任務にとりかかる!」
ザザーンザザーンと波が打ち寄せる夜の磯。
エルンストは直立不動の姿勢で無人の浜辺に向かって宣言する。
つまりはまあ、彼はそういう男だった。
すべてにおいて几帳面。
定規で測ったかのような四角四面のマニュアル至上主義。
磯へと続く彼が残した足跡も、まっすぐ等間隔に続いている。一歩一歩と踏み出す速度も完全に同じ。
そんな彼が磯の岸壁に足をかける。
「冒険者マニュアル初級4の3! 整備されていない岩場を移動する際、常に3点保持をもってせよ! 3点ヨシ!」
確認の声までもが四角四面に角張って。
「三点、ヨシ! 足場、ヨシ! 移動!」
一歩一歩踏みしめるように岩場を進む。
エルンストの確認の声が、無人の磯に響いて消える。
煌々と大地を照らす月だけが、その声を聞いていた。
「足場、ヨシ! 岩壁に亀裂部発見。落石注意! 冒険者マニュアル採取の章海辺編6の4! 岩壁の亀裂部に採取対象あり。検索開始。ライト当て! ライトよし! 発見!」
いちいち呼称確認をしつつ、岩壁に刻まれた亀裂部に灯りを当てるエルンスト。
魔力式の懐中灯は冒険者の基本装備だ。
魔法の使えない者であっても、充填しておいた魔力で光を発する事が出来る。
火の危険も無く、落としても消える事は無く、灯りの範囲も限定出来る。
冒険者にとっては至れり尽くせりの品物で、エルンストもまた所持している。
冒険者マニュアルの必須装備品として掲載されているのだから、当然だ。
「捕獲箸挿入……確保! 形状よりムラサキホシムシと同定!」
初の獲物を引き上げて、エルンストは月明かりに晒す。
ムラサキホシムシの五芒星状の身体がきゅるきゅるとうねり、暗い紫色の体色が、鮮やかな明るい色へと変わっていく。
月明かりによって活性化状態になったムラサキホシムシは、魔法の素材として珍重される。
エルンストは満足げに頷いて、捕獲用の箸を使ってムラサキホシムシの中央にある神経節を潰してから、すぐにアルコール瓶の中に保管した。
冒険者マニュアルに書いてあるとおり。お手本のような完璧な動作だった。
月夜の磯は魔法素材の宝庫だ。
磯辺はそもそも、薬効のある――つまり毒を持つ――生物で満ちている。
さらに月齢や星辰の影響を受けたそれらの生物は、さらに特異な薬効を持つに至る。
当然、深夜の磯辺は危険である。
暗闇で磯の岩壁に張り付いて移動するだけでも危険を伴うし、深夜にのみ動く捕食動物も存在する。
月や星の影響を受けた生物の毒も、危険性は昼間の比ではない。
故に冒険者の出番であった。
冒険者だけが、この危険で有用な任務を行い得るのだと。
まあ、そんな風に勇ましく冒険者マニュアルには書いてある。
そしてエルンストは冒険者マニュアルを完璧に履修している。
(月夜の磯での採取任務こそが冒険者の本懐!)
とまで腹をくくっている。
実際の冒険者には、実入りの割には危険の多い仕事として忌避されがちな任務であるのだが。
しかしエルンストには関係がない。
彼にとっては他の冒険者がどうかなどは問題ではない。マニュアルにどう書いてあるかが問題なのだ。
「ヨシ! 目標検索! 発見! 捕獲開始!」
次々とエルンストは獲物を捕らえて確保する。
ムラサキホシムシだけではない。麻痺治療効果のあるクロウミヤスデや、珍味として高価に取引されるトゲナシトゲトゲウニ、〈蘇生>ポーションの材料にもなる月光海月までもを確保した。
冒険者が採取をサボっている分、良い素材が残っているらしい。
とても良いことだ。とエルンストは思う。
エルンストとて愚かではない。
マニュアル至上主義者ではあるが、マニュアル以外の思考が出来ない訳でもない。
マニュアルを守らない連中の不幸を願うほどの悪意は無い。
しかしマニュアルを守らない者が多数を占めた結果、マニュアルを守った者が得をするのならば、それは気分の良い事だと思う程度の感情は持っている。
(やはり、マニュアルは人を助けるのだ)
と、心の中で再確認をする。
だからこそ、もっと多くの人がマニュアルの重要性を認識すれば良いのにと。
そう思う。
つまりはまあ、彼はそういう男だった。
時計じかけのように正確に、慎重に作業を続けるエルンスト。
その動きがピタリと止まる。
「……対象、発見」
目だけを向けた視線の先。
たゆたう波間を縫うように、ぬっと黒い塊が上がってくる。
「サカトゲオオヒトデと同定。迎撃体制」
それは犬ほどの大きさのヒトデだった。
そのヒトデが触腕を伸ばして磯に這い上がってくる。
這い上がるたび、カチカチと硬い音がする。地面に貼り付く下側は、びっしりと長い棘が生えていた。
そのような凶悪な見た目をしたサカトゲオオヒトデではあるが、これは【魔物】ではない。
知能と攻撃性は低く、普段は海に漂う死肉を食う危険度の少ない、ただの海辺の生き物だ
とは言え時折、その棘で食う死肉を作る事もする。特に月の明かりの強い夜には、磯に上がって活発に活動をして危険。
素材となる部位はなし。肉は不味く食用には向かない。
エルンストの脳裏に丸暗記したマニュアルの情報が浮かび上がる。
同時に捕獲箸を背負い袋に差し込んで、腰に手を回す。
「弾倉確認。よろし」
引き抜いたのは一挺の拳銃。
戦争が始まる以前から、冒険者の主武器は剣から銃に転換していた。
初期の前装式の火縄銃の頃にはもう、射程や威力、ランニングコストから銃を選ぶ者が多数派になっていたという。
金属薬莢の発明からは、もう剣を持つのは好事家か、捻くれ者か、それともそれなりの理由のある者だけになる。
もちろん、エルンストはそのどれでもない。
エルンストの手の中の細身の拳銃は、銃把に弾丸を装填する自動式。軍の正式モデルだ。
手に吸い付くほどに使い込まれ、しかし傷一つない程に磨かれ整備された銃身を、エルンストはヒトデに向けて構える。
「距離確認……軌道計算、よろし」
呟きながら、拳銃の照星と照門の先にヒトデを捉える。
エルンストの身体は3点保持でしっかりと固定されている。
つっと、細い指先が引き金に力を込めていく。
「いま!」
ぱぁん、と響く乾いた音。
放たれた弾丸は、過たずサカトゲオオヒトデの中心部に命中。
神経節を撃ち抜かれたヒトデの身体は力を失い、ずるりと崩れ落ちるように海へと落ちた。
「ヨシ!」
指差し確認。回収の必要はなし。エルンストの初陣は完璧な勝利に終わった。
満足そうに頷くエルンスト。
彼は魔法使いであった。
魔法使いにも色々いるが、彼が専攻したのは数字と曲線と物理の魔法だった。
特に飛翔物に関する分野においては、彼と並ぶものすら稀な大魔法使いと言っていい。
拳銃弾の飛翔方向などは、秒とかからず暗算できる。
故にこれは完璧な勝利であった。
完璧な彼の魔法の勝利であった。
そう、エルンストは認識していた。
ぷかぷかと波間に浮かぶサカトゲオオヒトデの姿を見て、その認識は確信となった。
「うむ」
ばさぁと音を立てて波間が泡立つ。
先程打倒したモノとは別のサカトゲオオヒトデだった。
それは、同族の死体にのしかかるようにかぶりつき、牙を立てはじめた。
「うむ」
死体となっては同族も食らう。弱肉強食の自然の掟。
思わずエルンストも神に祈りを捧げる。
彼の神は数字と効率と論理だ。
つまり祈りの内容は「できるだけエネルギーの無駄なく再分配されますように」だ。
エルンストが敬虔な気分に浸っていると、ばさぁ、ばさぁ、ばさぁと水音が続く。
次々と現れるのはサカトゲオオヒトデ。
それらは、死体となった同族を喰らい。さらにはあろうことか、まだ生きている同族にまでも棘を伸ばして食らいつく。
「うむ」
まさに弱肉強食の自然の掟。
犠牲になった者たちが、より効率よく自然界に再分配される事をエルンストは祈らずにはいられない。
すると、上空からバッサバッサと羽音がする。
「うむ」
今夜は千客万来だった。
被膜の翼で飛ぶ人間くらいの大きさの獣。細い身体に不釣り合いに巨大な頭はロバに似て、ぎょろりとした目が光っている。
「うむ」
【ジャージーデビル】。
こちらは、サカトゲオオヒトデとは違って【魔物】である。
【魔物】の常のとおり、敵対的で攻撃的。争いの音を聞きつけると寄って来て、上空から脚に蹄で蹴りを入れてくる。。
飛翔生物の宿命か、身体は華奢で打撃には弱い。
群れをなす性質があり、1匹現れるとそれと戦っている間に際限なく【ジャージーデビル】が沸いてくる。
ドロップ品は主に【穢れた塩】か硫黄。低確率でマント系のマジックアイテムを落とす。
エルンストが冒険者マニュアルの記述にある【ジャージーデビル】を思い出す間に、【ジャージーデビル】は次々と沸いてくる。
サカトゲオオヒトデの争いに気を引かれて現れたのだろう。
岩壁に貼り付くエルンストには目もくれない。
波間で絡み合うサカトゲオオヒトデの真上に迫って、そこから脚の蹄で蹴りつける。
ぱかーん、といい音をたてて1匹のサカトゲオオヒトデが吹き飛んで事切れる。
その死体を目当てにした生き物達が、我も我もと沸いてくる。
小さなものは指先ほどのフナムシから、大きなものは小型の魚竜までもが現れる。
それが、我先にと死体に群がり、または群がる生き物達を餌食にしようと口を開く。
「うむ」
現れる生物は後を絶たない。
尋常の生物ばかりではなく、騒ぎを感知した【魔物】までもが、その狂乱に参加する。
月明かりに照らされて、暗い海に蠢く生物と【魔物】の修羅場は、いつ果てるともなく続いていく。
闘争の範囲はみるみる内に拡大していき、もはやエルンストも他人事とは言っていられない。
海中が割れて現れた巨大な顎が【フラットジョーズ】と判明したあたりで、もはや収集がつかなくなったとエルンストは判断した。
このような時どうするか。
そう、冒険者マニュアルだ。
『〈跳躍〉のような短距離移動用魔法を使用し離脱を計るべし』
隅々まで暗記した冒険者マニュアルには、そのように書いてある。
〈跳躍〉は術者を5~10メートル程度の高さまで跳ね上げさせる魔法だ。
軽度の落下速度制御と防護障壁を備えており、安全に着地ができる。
また、跳躍角度を変える事で、30メートル程度の距離を一歩で移動も可能だ。
必要となる魔法素材も安価少量で済み、使用する魔力も少ないため、愛用する冒険者は数多い。
「うむ。魔法で離脱か」
エルンスト・グライヒは魔法使いである。
物理と数字と曲線に関した分野では、大魔法使いと言っていい存在であった。
冒険者としての職に就く以前。北方ムンドゥス大陸を制覇した大陸国家軍に仕えていた頃は、最新鋭にして最重要の存在であった。
『戦略級』。と、その肩書の頭には付いている。
それほどの魔法使いだった。
だがしかし。
だがしかし、それ故に。
偉大にして強大な戦略級魔法使いであるが故に、一般の冒険者や魔法使いが便利に使う〈跳躍〉などという魔法は専門外であった。
つまりは習得していないし使えない。
「しかして問題なし。技術的問題は代替技術によって解決されるのだ」
エルンストは魔法使いである。
戦略級の大魔法使いである。
使える魔法の中には、代用可能なものも存在する。
ましてや彼が専門とするのは、物理と数字と曲線である。
物体を上空に打ち上げる事。それはまさしくエルンストの追求してきた魔法そのものだ。
軍組織による強力なバックアップも、高価で希少な魔法素材も存在しない今、それは擬似的で限定的な魔法となる。
本来の数万分の1以下の出力を、コンマ数秒発揮できれば御の字。その程度の結果となるだろう。
そしてそれですら、エルンストの残存魔力をすべて使い果たすであろう。
「……周辺安全確認ヨシ。魔力充填。角度計算。自転軸、角速度感知……。充填よろし。軌道計算完了。検算よろし。カウントダウン……5……」
だとしてもエルンストは迷わない。
なにしろそれは、マニュアルに書いてある事だから。
マニュアルが間違う事もあるだろう。
だとしてもそれは、実地で行い検証し、その上でマニュアルを書き換えれば良い。
そのためにも、マニュアルはマニュアルの通りに行われなければならぬのだ!
つまりはまあ、彼はそういう男だった。
「……2……1……点火……〈離陸〉」
通常ならば、数百トンの物体をものの5秒で音速まで加速する〈離陸〉。
その万分の一の出力のそれは、しかし発動には成功し、エルンストの身体は上空2キロメートルまで飛び上がり、それから鋭角の弧を描いて落下した。
その晩の灯台守の記録にはこう残る。
『月夜の磯に気の早い太陽が登った。翌日確認したところ、岩壁は百尋くらいの丸い入江が出来ていた』
新たに出来た入り江は、冒険者による簡単な調査の後、新しい岬として利用される事になった。