8話
「よう」
片手を挙げて楽しそうに口元を歪める男を、ディアナな恨めしい顔で見上げる。形として淑女の礼はとるものの、内心では様々な感情が入り乱れていた。
そんな自分の気持ちとは裏腹に、朝から侍女たちによって身なりを整えられ、馬車に揺られている。
隣に座るアルヴァの顔をディアナは気づかれないように盗み見る。
革張りの椅子にゆったりと腰掛け、肘をつきながら外を眺めているその姿はやはり絵になっていた。皇太子という肩書などなくとも、懸想する女性はさぞ多いことだろう。それぐらいに整った顔なのだ。
何よりも、体つきも均整がとれている。身長も高く、手足もすらりと長い。だからといって貧弱そうな様子もなく、引き締まった体躯をしていることが、服の上からでも見て取れる。その上、頭脳明晰で剣の腕も良く、将来を嘱望される皇太子殿下だ。引く手あまたの中で、わざわざ自分を選ぶ意味がディアナにはわからない。
――― 一目惚れ
昨日の兄の言葉が脳裏に浮かび、ディアナの顔が一気に赤くなる。
それを振り切るように頭を左右に振ると、目の前で小さく吹き出す音が聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、漆黒の瞳が細められる。
「さっきから、何を考えている?」
「・・・・・・」
「考え事が、そのまま顔に出ているぞ」
そう言いながらアルヴァは楽しそうに顔を口元をあげる。
「・・・どうして、婚約なんて」
「俺の国に来ないか、と言っただろう?」
それは、言われた。言われたけれども。
「侍女か何かに誘われたのかと」
「生憎、侍女の手は足りている」
「だからと言って、こんな急に・・・」
「考える時間は与えただろう」
「全っ然足りてないですけど?!」
思わず声を荒げるディアナに、アルヴァはまた楽しそうに小さく笑う。
「悪いな。この国に滞在できるのもあと僅かだから、急いだのは確かだ」
アルヴァの節だった指先が、ディアナの髪のひと房を持ち上げた。さらりとした感触を楽しむように指を滑らせ、そのまま、ゆっくりとディアナの髪に口付ける。
「・・・嫌か?」
ディアナの心臓がどくりと跳ねる。
黒曜石のような双眼がディアナを見詰める。
(・・・嫌?)
ディアナは混乱したままの頭で考える。
確かに驚きはしたし、断れないとも思った。
――――でも、嫌かどうかと問われれば。
答えられずにいるディアナに向けて、アルヴァの大きな手が伸ばされる。その手が、赤くなったディアナの頬を優しく撫でた。
(なっ・・・何?!)
ゆっくりと近づいてくる整った顔に、ディアナは反射的に強く目を瞑ったとき。
ガタリ、と音を立てて馬車が止まった。
「・・・着いたか」
驚くほど近くで聞こえた低い声に、ディアナの背筋がぞくりと震えた。す、と頬を一撫でして、大きな手が離れていった。
思わず呼吸を忘れていたディアナは、自分の頬を両手で包みながら、大きく息を吐く。
(な・・・なんだったの今の?!)
困惑するディアナに対し、顔色ひとつ変えないアルヴァは、御者に開けられた扉の前でディアナに片手を伸ばす。
「行くぞ」
どこか悔しい気持ちを抱えながら、立ち上がったディアナは差し出された手に自分の手を重ねた。
*
「わ・・・」
降り立った先には、色とりどりの花が咲き乱れていた。
「ここは・・・?」
こんな場所が自国にあることをディアナは知らなかった。他国の人間が、それも皇太子が知っていることに驚き、ディアナは隣に立つアルヴァを見上げる。
「ファランドールに来てから、あちこち見て歩いていたときに見つけた。王宮にいただけじゃ、国のことなんてわからんしな」
「だから、あの日街中にいらしたんですね」
「ああ。あんな面白い場面に遭遇できると思わなかったが」
思い出したように笑うアルヴァに、ディアナは思わず顔を歪める。
「そう怒るな。俺にとっては僥倖だった」
「え・・・?」
アルヴァはそれだけ言い置いて、花畑に向かって歩き始める。その後ろを追いかけようとして、ディアナは思わず足を止めた。
「どうした?」
アルヴァは振り返り、ディアナに声をかける。
ディアナの脳裏に浮かぶのは、幼い頃の記憶だ。
健在だった母と父に連れられて、こうして自然あふれる場所に来たことがあった。
魔法の力が目覚めたばかりで、力の抑制が上手くできなかった頃。
“前回”は力の抑制を学ぶために、すぐに騎士団に預けられたから知らなかった。
自分の魔力は、自然に対して害悪そのものであることを。
幼いディアナは、木々の美しさにはしゃいで、感情が昂っていた。だから、気づくのが遅かった。自分が手を伸ばした若葉が、一瞬にしてその色を失っていった。色づいた花弁は、はらりと地面に落ちた。
自分の放つ魔力に耐え切れず、木々が衰えていく。ついたばかりの青々とした葉が散っていく。その光景が、自分のもつ力が、ひどく恐ろしかった。
それから、できるだけ自然には近寄らないようにしていた。
ディアナはもう力の抑制ができる。幼い頃のようなことは起きないだろう。
そうわかっていても、どうしても気後れしてしまう。
「―――大丈夫だ」
ふ、と光りが遮られ、ディアナは顔を上げる。
「大丈夫だ」
もう一度そう告げて、アルヴァが微笑む。
驚くほど、優しく。
「俺がいる」
「・・・え?」
アルヴァはディアナの手をとって、半ば引き摺るように歩き出す。
「あ・・・あのっ!!」
その強引さに驚いて、ディアナは声を上げる。
「大丈夫だと言っている」
力の抑制はできるようになった。だから、確かに大丈夫だろう。それでも、どこかで恐怖は感じてしまう。
そんなディアナの気持ちに構わず、アルヴァは強引にその手を引いて歩く。
少しだけ小高い、大きな楢の木の下でアルヴァは立ち止まった。
手を離したアルヴァは、ディアナの肩に手を置いて振り向かせる。
「見てみろ」
ディアナは眼下に広がる一面の花々に目を奪われる。
青々とした葉が風に揺られ、色づいた花が陽光を受けて輝くように咲き誇る。
柔らかい日差しに照らされ、暖かい風が頬を撫でていく。
こんな風に自然を感じるのは、久しぶりだった。
「・・・きれい」
大きな腕が包み込むように、ディアナの前で組まれた。
「平気だっただろう?」
「―――――っ!!」
耳元で聞こえたアルヴァの声に、後ろから抱きしめられているのだとわかった。
抗議の声をあげようにも、何故かそれが躊躇われて、ディアナは息を呑むようにして堪えた。
「お前はちゃんと自分の力を抑制できている」
ディアナはその言葉に少しだけ驚いた。
自分の逡巡に、何故アルヴァは気づいていたのか。
「もしできなくとも、俺ならお前の魔力を相殺できる」
その一言で、ディアナの心の中にあった疑問が氷解する。
街中で出会ったとき、何度も尋ねようとしていたことだった。
アルヴァから放たれる焼け付くような気配。
「・・・あなたは、炎なんですね」
ディアナの確認するような問いかけに、アルヴァは少しだけ笑う。
「ああ。俺はもっと酷いものだった。抑制できるまでは草花どころか建物や家具まで、何でも燃やしたからな」
今度はディアナが笑う番だった。
「・・・だから、私に求婚を?」
ディアナがそう尋ねると、少しだけ腕に力が込められた。
「・・・あの青いバラの花言葉を知っているか?」
「え?」
「まぁ、知らないか。花より鍛錬の方が好きなんだろうしな」
「そっ・・・それは!!」
先日のことを思い出して、ディアナは今度は違った意味で頬を染める。
「で、あの凶器は役立っているのか?」
「凶器ではありません!」
「俺と婚姻すれば、なんでも好きなだけ買っていいぞ?」
「そっ・・・そんな誘惑やめてください!」
「公務もそれなりにあるが、それ以外の時間は好きに使っていい」
「う・・・」
「鍛錬専用の個室も与えてやる」
「ううっ・・・」
「うちの騎士団の鍛錬方法は、ファランドールとはまた違ったものだろうしな。特別に教えてやってもいいが・・・」
次々と襲ってくる誘惑に、ディアナの心がぐらぐらと揺らぐ。
ふ、と耳元でアルヴァの笑う声が聞こえた。
「俺がお前を守る」
その真剣な声色に、ディアナの心臓が大きく音を立てる。
「お前の憂いは俺が取り払ってやる。・・・生涯かけて守ると誓おう」
どくどくと鳴る心臓の音がうるさい。
何か言おうと思うのに、喉がからからに乾いたような感覚に、言葉が出ない。
「俺のものになれ」
甘く掠れたアルヴァの声に、背筋が震える。
「・・・ど、どうして」
ディアナはやっとのことでその一言を絞り出す。
会ってまだ間もない。
互いのことなどほとんど知らないはずなのに、どうしてこんなにも自分が求められるのか。
「・・・さぁな」
ディアナのその疑問に答えずに、アルヴァはディアナから手を離す。
「何にしても俺の言いたいことは伝えた。あとは、お前の返事だけだ」
「へっ・・・返事と言われても・・・!」
「風が冷たくなってきた。そろそろ戻るぞ」
困惑したままのディアナを置いて、アルヴァは来た道を戻り出す。
ディアナは赤くなった頬を両手で抑えながら、その後ろをついていく。
「言っておくが、抗っても無駄だぞ」
ふいに振り向いたアルヴァが口元を歪めて、全てわかっていると言いたげに、意地悪く笑う。
「どれだけ頑なだろうと、お前の心ごと全て」
アルヴァはディアナの耳元で囁く。
「・・・俺が溶かしてやる」






