序章
雲の切れ間から覗く赤黒い満月が、辺りを照らす。
抉られた大地、鼻を衝く血の匂い、近くで何かが爆ぜる音。
「ディアナ!しっかりしろ、ディアナ・・・!!」
閉じかけていた目を、ゆっくりと開ける。
青空を映し出したような真っ青な瞳に自分の姿が映る。
この方を守るための盾となるべき身体は、もう動かない。
この方の敵を屠るための手は、もう剣を握ることもできない。
「・・・最後まで、お守りできず・・・申し訳ありません」
喉に血が絡み、掠れてしまった声でも届いたのだろう。
この国で最も高貴な人は、泥と血にまみれた顔を歪ませ、静かに首を振る。
そっと伸ばされた手が頬に触れる。
その手は、一介の女騎士に触れるべきではない。
そう思うのに、それを諫めるだけの力は私には残っていなかった。
「・・・時間を巻き戻せたらいいのに」
空色の瞳から、雫が零れるのが見えた。
「そうしたら、僕は・・・僕はきっと君を・・・」
―――どうか悲しまないでください。
―――貴方の騎士としてお傍にいられただけで、私は幸せだったのですから。
「ディアナ・・・?!ディアナ!!」
―――でも、もし、時間を巻き戻せるのなら。
―――もし、願いが叶うなら。
―――今度は、違う形で貴方の傍に―――
*
「・・・最悪だわ」
柔らかなベッドの上で、ガバリと起き上がったディアナは大きくため息をつく。
カーテンのすき間から入り込む光がどうにも目ざわりで、ディアナは肩を軽く回しながらベッドから降りた。
今日は、満月だ。
空に浮かぶそれを見ないようにしながら、カーテンを閉め直す。
「よりによってあんな夢を見るなんて・・・」
どうせ今夜は寝付けないことなんてわかっていた。むしろ夢を見る程度には眠れていたのなら僥倖だろう。
そう思い直してディアナは部屋の真ん中に立ち、右手を伸ばして目を瞑る。
甲高い音と共に、その右手に透き通った剣が現れた。
両手で構えて振り下ろす。空を割く音が静かな室内に響く。
この大陸では、時折ディアナのように『魔法』と呼ばれる力を持つ者が現れる。どのような属性の、どんな能力を持つかは個々によって異なる。ディアナは氷の属性、とくに攻撃に特化した能力を持っている。
それ故に、“前回”は騎士としてこの国の王家に仕えていた。
騎士は基本、男性の仕事だ。女騎士となれるのは、魔法の力を持った者だけに限られている。幼い頃にこの力に目覚めたディアナは、侯爵家の令嬢でありながら騎士となる道を選び、王家に仕えた。
剣を片手に持ち替え、身を翻させながら舞うようにしてそれを振るう。男性に比べて腕力の無い自分が苦心して身につけた剣技だった。身軽さを活かして、的確に急所を狙えるように。相手の肉を切り裂くのではなく、確実に相手を無力化するために。
そうして何度か振るっているうちに、少しだけ気分が落ち着いてくるのが分かる。
じんわりと身体が汗ばんでいるが、どうせ、朝食後にはすぐに侍女によって入浴させられるだろう。
そう、明日は夜会だ。
この国の皇太子殿下の婚約者発表のための。