6章 蛇足
最終決戦と言ったな。あれは嘘だ。
「終わった……」
洋はそう呟いて、その場で膝を折った。そのままうつぶせに倒れ込む。
「香澄さんを……守った……」
目の前の大きな目標を成し遂げた、その達成感が洋の体から残った力を奪い去ろうとする。洋はそれに任せて目を閉じようとして――
「いや、まだだ」
それを直前でやめる。洋にはまだやらなければならないことがある。
その瞬間、洋の周囲の風景が歪む。気がついたときには、洋が寝ているのは病院の床ではなくなっていた。
洋はその場所に見覚えがあった。つい最近も訪れた場所、そこは組織の秘密基地の応接室だった。
「やあ、いらっしゃい。仇村君」
声のした方を見れば、そこにはスティーブンが立っていた。
「そんなところで寝ていては風邪をひくよ?」
「…………」
「ああ、動けないのか。しょうがないな」
スティーブンは洋に肩を貸して、立ち上がらせる。そしてそのままソファーまで運んでいった。
「少し待ち給え。お茶を煎れるから」
スティーブンが備え付けのポットから急須にお湯を注ぐ。その背中を見ながら、洋は、この部屋の外はどうなっているのか気になった。
「見ない方がいい。地獄絵図とはこのことだとわかるよ」
洋の心を読んだかのようにスティーブンが言った。
「サラ、いや沙羅は随分派手にやってくれたよ。おかげで日本支部の構成員はほぼ全滅。私も降格かな」
「それはないでしょう。ここまでの『天啓』なら、組織にとっても重要でしょうからね」
スティーブンは何が面白いのか、少し笑いながら振り返る。
「おや、一度見ただけで私の『天啓』がどんなものだか分かったのかね?」
それに対して、洋も笑みを返す。それは少し自嘲気なものだった。
「ええ。もっとも、僕だけの力じゃない。いや、僕の力なんて全く関係ないですよ。教えられてみれば、いくつか思い当たる節があったっていう、ただそれだけです」
「教えられた、か……。なるほど、伊吹君の『天啓』だね? 彼女も『知恵者』だと知ったのはついさっきのことなんだが、随分驚かせてもらったよ」
スティーブンの方は心底可笑しいといった笑いだ。
「それで、私の『天啓』はどんなものなのかね?」
「一言で言うなら空間操作ですね。あなたは離れた場所どうしをつなぎ合わせたり、閉じられた空間の大きさを変えたりできる」
考えてみれば、気づく点は沢山あった。不自然に長い地下の廊下。広すぎる体育館。明らかに入り口からは入らないクレーン。資料を取りに行ってから異常に早く戻ってきたスティーブン。それらの全ての疑問が、この『天啓』の存在によって解決できる。
「正解だ。実に素晴らしい。沙羅曰く、『乖離空間』というんだがね」
スティーブンは大仰な身振りで洋を讃える。
「流石は沙羅を倒した男、と言うべきかな? いや、調べたのは伊吹君だったか。まあどちらにせよ、君たちを選んだ私の目に狂いはなかったということだ」
スティーブンは洋の耳元に顔を寄せて、秘め事を話すように言った。
「私の仲間にならないか?」
「…………」
「もちろん、伊吹君も一緒だ。彼女の身の安全も保証する。悪くない条件だと思うが?」
「それは、組織の日本支部長としての言葉ですか?」
「いいや、極めて個人的な申し出さ」
「そうですか」
そのまま、洋は俯く。それを思案しているのだと思ったスティーブンは、洋から顔を離した。その時、洋がぼそりと呟くように言う。
「僕は、結構あなたに怒っているんだ」
スティーブンは怪訝そうな顔をした。
「ん? 私が君たちになにかしたかね? 沙羅のことなら、あれは伊吹光太郎のせいであって、私たちは寧ろ被害者なのだが」
「もう下手な演技は止めましょうよ。種明かしの時間です」
「種明かし?」
「ええ」
そして洋は告げる。決定的な一言を。
「あなた、スティーブンさんじゃないですよね?」
スティーブンの動きが止まった。その一瞬の隙を突いて、洋は左手で引力を発生させる。ソファーや机をはじき飛ばしながら近づいてきたスティーブンの顔を、右腕で殴りつけた。
ギシギシギシと痛めた右腕が軋む。針でかき回される鋭い痛みに、洋は顔を歪めた。
殴られたスティーブンは壁に打ち付けられる。しかしすぐに何事もなかったかのように立ち上がってきた。その顔に浮かべた笑みまで含めてそのままだ。
「いやいや、驚いた。油断してしまったよ」
その声にも、全くダメージを感じさせない。
「いつ私がスティーブンではないと気がついたのかな、仇村君?」
「そういう演技の甘いところからですよ。スティーブンさんは自分のことを『僕』といいますし、僕のことは『ミスター仇村』と呼びます」
それを聞いて、スティーブンは不思議そうな顔をしたあと、合点がいったというようにはっはっはと笑い出した。
「そうか、それは意識の外だったよ! 仇村君、君も中々名探偵じゃないか!」
「これも、僕が自分で気がついたことじゃないですよ。全部、香澄さんが教えてくれました」
「なるほど、伊吹君の『天啓』は私が思っているよりもずっと強力だったということか。ということは当然、私の正体も知っているんだろう?」
「もちろんです。だから僕は怒っているんですよ。糞ったれの神様!」
洋の発生させた斥力がスティーブンの体を壁に縫い止めた。しかしすぐにスティーブンの姿が掻き消える。
「神様、ね」
洋のすぐ後ろでスティーブンの声が響いた。『天啓』で移動したのだろう。
「君たちは私のことをそう呼ぶ。そして、私に至ろうと様々なことを繰り返してきた。ある時は天を突くほど高い塔を建て、ある時は私の姿を夢想して絵を描いたりした」
それから、スティーブン、いや、神は自分の体を示す。
「かくいうこの男もその手合いさ。自分の仲間が殺した『知恵者』のリンゴを全て食らって、本来この世界とは隔絶している私の世界と空間を繋げようとした。なんでも、自分の力を恒久的に維持したかったらしい」
確かに、『知恵者』の力にはリンゴの残量という制約がある。力を与えた張本人である神の元へ辿り着けば、あるいはその制約を解くことができるのかもしれない。
過去、神の居場所へ足を踏み入れることで『知恵者』は『知恵者』になるのだ。それならば二度目にそこを訪れればそれ以上の力が与えられると考えるのも無理からぬことだろう。
「でも、そういうわけじゃないんだろう?」
洋の口調が敬語ではなくなっている。そこに明らかな敵意を感じるも、神は全く動じた風もない。
「ああ、その通り。『知恵者』が私の元へたどり着けるのは私が彼らを招くから。それ以外で私の領域に入られるのが、私はとても嫌いでね。侵入者にはちょっとした罰を与えているんだ。神様っぽいだろ?」
「罰……か。そうやって体を乗っ取られることがその罰か?」
「いかにも。もっとも乗っ取るといっても、元々の精神なんてものはとっくに消し飛んでしまっているけどね。私と同居するなんて、どんな強靱な精神力の持ち主でも無理だよ」
「つまり、スティーブンさんはもういないってことか。で、そうまでしてどうしてこの世界に来たんだ?」
洋の言葉に、神は待ってましたとばかりに口の端を歪めた。
「それはね、君たち人間の営みを見るためさ! いや、愚かさと言い換えてもいいな。人間というのは実に面白い。特に知恵を得てからは最高だね。エデンから追い出したのは失敗だったと思うくらいの娯楽だよ」
「…………」
「ことあるごとに競い合い、争うことを止めない。それがどんなくだらないことでもね。たった一つ、『恥』という『天啓』を得ただけでこれなんだ。他の『天啓』を与えたらどんなに面白くなることか! そしてそれは実際に素晴らしいエンターテインメントだった!」
「もういい。十分だ」
洋が低い声で神の言葉を遮った。
「お前のくだらない遊びのせいでどれだけの人が苦しんだと思う?」
例えば根本幸太は自分の本来の姿を歪め、それでも尚力にとらわれ続けた。
例えば落合善治は感情を幾つにも分断され、殺人鬼に成り果てた。
例えば伊吹光太郎は妹を守るために死んでも戦い続ける戦士となる必要があった。
例えば大島沙羅はその人生を狂わされ、望まぬ殺しの世界に身を投じた。
「それをせせら笑うお前を僕はもう神とは呼ばない。ここで死ね」
「神というのは君たちが勝手につけた名称だけど、そこまで言われるのは心外だな」
神の声に不快感が交じる。しかし神が行動を起こす前に、洋は『天啓』を発動させていた。
ギシギシギシ、と何かが軋む音がする。
「これは……なるほど、この部屋そのものを引っ張っているのか」
「そうだ。お前はここで圧死しろ」
ガコン、と音がして、壁が形を歪めながらせり寄ってくる。遠からず二人に逃げ場はなくなるだろう。
「ふむ、だが仇村君、分かっているのかな? これでは君も死ぬよ?」
「お前と相打ちなら安いものだ」
その返事に洋の決心を見て取った神は、ため息を吐いた。
「仕方がないな。仇村君、君は実に面白いから、これは特別だ」
パチン、と神が指を鳴らす。すると背景が歪み、移り変わる。
『乖離空間』。
空間を操る『天啓』が二人を包み込み、別の場所へと転移させようとしているのだ。
「待て、止めろ!」
洋が制止する。神は小さく手を振りながら言った。
「悔しければ、私のことを追って来るんだね。どこまでも、どこまでも。体の方は直しておいてあげよう。そちらの方が面白そうだからね」
そして、神が遠のいていく。洋は手を伸ばし、引力で引っ張るも、全く手応えがない。そもそも神は足を動かしてすらいないのだ。
「絶対に、お前を、殺してやる!」
洋の咆吼が虚しく響いた。
気がつけば、洋は草原に立っていた。辺りを見回すも、そこに神の姿はない。
「くそっ!」
洋は苛立ちにまかせて、右手で地面を殴りつけた。そこで、疑問を覚える。
右手は骨折していたのではなかったか?
洋は慌てて体中を確認する。あれだけあった傷が綺麗さっぱりなくなっていた。痛みもない。神は言葉通り、洋の傷を治したのだ。
洋はゆっくり立ち上がり、左手を見る。そこには当然のようにリンゴが握られていた。
沙羅との戦いで残った最後の一個だ。洋はそれを地面に叩きつけようとして、ピタリと動きを止める。これを失えば、洋は『天啓』を失う。それでは神と対峙することが叶わない。結局、洋もすでにリンゴの呪縛の中なのだ。
いつの日か、きっと。ここから抜け出す。洋は再び誓いを立てるのだった。
元々は5章にくっついていた部分だったのですが、投稿にあたり短いですが分けました。この辺まで来ると洋くんのすさみ方がヤバいですね。