1章 日常、あるいは虚構の終わり
最初のバトルです。たどたどしい・・・・・・
仇村洋は大きな木の前に立っていた。
それは本当に大きな木だった。高さは、高校二年生としては平均的な身長である洋の、明らかに十倍以上はある。幹は小さな家ならすっぽりと入ってしまいそうなほど太い。緑の葉が生い茂る枝は、洋の学校の校庭ほども広がっている。そして葉の陰から、いくつものリンゴが生っているのを見てとれた。
そしてそれほど大きな木の全てを視界に納めることができるあたり、洋は随分と遠くからそれを眺めているらしい。それでも木の前に立っていると表現しても過言でないほどに、その木は――実際の大きさ以上に存在感が――大きいのだ。
「何だ、これ・・・・・・」
木から目を離さない――いや、離せないまま、洋は呟いた。
当然ながら洋にはこんなに大きな木に覚えはない。写真ですら見たことがないのだ。
洋は何かに憑かれたように、一歩、また一歩と木に向かっていく。頭のどこかで「この木に近づいてはいけない」と考えながらも、足を止められない。一時間も歩いただろうか、気が付けば洋は木の麓に立っていた。
近くで見るほど、それは特別だった。圧倒的なまでの生命の息吹。木全体が金色に輝き、脈打っている様に感じられた。
いや、実際に輝いている。洋はそれに気が付き、そして確信する。
これは尋常のものではない。洋の知る限り、黄金の輝きを放つ木など存在しない。
それに気が付いたとき、
「おや、こんな所まで来るとは珍しい」
男の声を聞いた。頭に直接響く様な不思議な声だった。
洋は慌てて辺りを見回すが、誰もいない。不思議な声は尚も言った。
「まあ良い機会だ。お前にも『許し』をあげよう」
すると木の枝が一本、あり得ないしなり方をして洋の前に下りてきた。その先端には金のオーラを放つリンゴが生っている。
「もげ」
声の命じるまま、洋はリンゴをもいだ。木から離れてもそのリンゴは輝きを失わない。洋はそれにすぐにでもむしゃぶりつきたい衝動に駆られるも、それを必死で押さえる。それだけは駄目だと強く思う。
それでも震える手は勝手にリンゴを口へ運ぼうとする。洋は覚悟を決めて、リンゴではなく、それを持つ腕にかぶりついた。口元から血が滴り落ちる。
「おや、案外意志が強いな。なかなか有望株だ」
男の声が何かを言っているが、洋にはそれを聞く余裕はない。ただひたすらに自分の腕を噛む。顎がギシギシと音を立てても、肉を貫いた歯が堅いものに触れても構わない。それよりも、口を離してリンゴを見てしまうことの方が恐ろしい。
やがて痛みが消えていくのを洋は感じた。同時に、視界も白く染まっていく。
ゴン、と頭に鈍い衝撃。どうやら倒れたらしい。そこで洋の意識は途絶える。
「――という夢を見たんだ」
翌日の朝の教室の隅、窓際の最後列の席で、洋は友人の根本幸太にそんな話をした。幸太は洋の数少ない友人だ。眉目秀麗成績優秀、非の打ち所のない男。しかもそれを少しも誇らない、典型的な『良い奴』。
彼を評価する者は多くいるが、妬ましく思う者は一人もいないのは、彼の人徳の成すところだろう。
今も洋の突飛もないというか下らないというか、判断のつかないような話を真面目に聞いてくれている。
「それは随分と面白い夢を見たもんだな」
「いやいや、面白くなんかないよ。めっちゃ痛かったんだから」
洋はシャツを捲って腕を見せるが、当然そこには噛み傷などない。
「まあ夢のことなんて気にしない気にしない。全ては夢幻の出来事なりってな」
「くさいよ、幸太」
ひとしきり馬鹿話で盛り上がる。幸太と違って欠点ばかりの洋だが、何故か馬が合うのだ。
「それよりさあ、洋。今日の放課後遊びに行かないか?」
「別にいいけど、珍しいね。幸太の方から誘ってくるなんて。いつもは僕がストレス発散につきあってもらうのに」
「何だよ、俺にだってストレスぐらいあるぞ」
「そりゃそうだろうけどさ。どうにも幸太の超人っぷりをみてるとねえ」
すると幸太は少し冗談めかして、
「俺は完璧な人間ですから」
と言った。洋は半眼になる。
「まあ確かにそうだけど、自分で言う、それ?」
「それを言うのが俺なんだよ」
はっはっは、と二人で笑い声を上げる。
その時、教室がにわかに騒がしくなった。入り口を見れば、一人の女が入ってくるところだった。
シュッと整った体。利発そうな顔に短く切られた茶髪がよく似合っている。そしてそこから少し視線を下にずらすと、そこには見事な双球が!
「おっ! 伊吹香澄か。可愛いよなあ。そしてあの胸!」
「おい幸太。露骨に胸とか見るなよ。失礼だろ」
「そんなこと言ったって、お前も釘付けだろ、洋」
そんなことを言っている間に、伊吹はクラスメイトと挨拶を交わして席に着いた。その周りに沢山の女子が集まってきた。友達が多いらしい。
幸太と伊吹が、洋のクラスで一際目立つ人間だ。本来であればどちらも洋とは関わりのない人間のはずだが、高校一年の時に幸太の方から声をかけてきたのだ。
「あれ?」
「どうした、洋? 伊吹さんに何かあったのか?」
「いや、そうじゃないけどさ」
「じゃあ何だ?」
「なあ、幸太」
洋はいつになく真面目な声で言った。
「お前、俺に声かけてきたときからそんな感じだったっけ?」
幸太は意味が分からない、と言うような顔をする。
「何言ってんだ? いや、質問に答えるならイエスだと思うが、何でそんなこと聞くんだよ?」
洋はバツが悪そうに言った。
「いや、何となくお前と会った時のこと思い出してたらさ。違和感があるなー、みたいな?」
「みたいなってお前なあ。まあ人なんて気が付かないうちに変わってるもんだし、そういうこともあるんじゃねえ?」
「そうだな。ごめんな、変なこと聞いて」
「というか今日のお前は変な話しかしてないけどな」
そうこうしているうちに、担任が入ってきた。
「おっ、ホームルーム始まるな。また後で」
「ああ」
幸太が洋の席から離れていく。幸太が少し振り返って言った。
「放課後、忘れんなよ」
「分かってるよ」
念押しなんて本当に珍しいな。洋はそう思ったが、その僅かな違和感は日常に押しつぶされて消えた。
学生の本分は勉強である。そして高校の勉強の課程には運動も含まれているのだ。
つまり、高校生である以上、洋がかんかん照りの中で持久走なんてことをやるのも致し方ないということだ。頭では分かっている、分かっているのだが――
「理不尽だ」
そんな風に呟くのもまた仕方のないことである。
一緒に走ろうぜ、なんて言っていた幸太はとっくに走り終えてトラックの中で一息ついている。友達甲斐のないやつである。
幸太達男子組から離れたところでは、女子が走り高跳びの授業を受けている最中だった。次々と走って跳ぶ女子達の姿は男たちを惑わせる。具体的には尻やら胸やらが揺れる揺れる。体育着がその破壊力を倍増させていた。
「こら、仇村! ペースが落ちてるぞ! 女子に見とれてるな!」
体育教師の叫び声に洋は慌てて前を向く。グラウンド中に忍び笑いが広がり、思わず赤面した。
それでもしばらくしてからちらりと女子を見ると、丁度一人の女子生徒が一際高いバーを跳んでいるところだった。見事な背面跳び。マットにバスンと倒れこんだその生徒に、他の女子達は歓声とともに群がる。
やはり、それは伊吹香澄だった。洋には果てしなく遠い空間だ。
「はあ・・・・・・」
ため息をつきつつ、最後の一周を走りきる。ラインを越えて倒れ込むと、すぐに幸太が近づいてきた。
「お疲れさん。凄かったなあ、伊吹。百八十センチだとよ」
「僕へのねぎらいはそれだけかよ、この裏切り者。まあ確かに伊吹さんは凄かったけどさ」
「注意されるぐらいガン見してるなら当然見てたか。走ってたのに余裕だな。それにしても、めっちゃ揺れてたな」
「そっちかよ!」
「ん? どっちだよ? 俺には分からないなあ」
幸太が白々しく言う。そして幸太から離れて別の男子グループとの話に加わった。
幸太以外に洋に話しかけてくる人はこのクラスにはいない。洋はそれを寂しいとも思わない。他人を信用するのは難しいから、いっそ一人でいた方が楽だ、というのが洋の本音だ。
スコアカードにタイムを記入しがてら、幸太のグループに目をやると、そのうちの一人が誰かを指差して笑っている。その先には太った体の生徒がえっちらおっちら走っていた。お世辞にも速いとは言えない速度だが、体から迸る汗が彼の必死さを伝えてくる。
どんなに頑張っても、クラス内ヒエラルキーで下位ならばそれは滑稽な見せ物にしかならない。洋はそれを知っていた。親しい人間にそんな者がいたのだ。しかし、洋は不思議なことに彼の顔も、名前も思い出せなかった。それを気にしようという気さえ起こらない。
幸太は不思議な笑いをしていた。確かにヒエラルキー上位者の笑みを浮かべているにも関わらず、どこか悲しそうな笑みだ。
下手な同情は受ける側にとっても辛い。されない方がましだと感じることさえあるほどだ。幸太はその辺をわきまえている。だからそれをあまり表には出さない。でもそういう感情を持っているのは分かった。
幸太は優しい。洋は改めてそう思うのだった。
そして放課後。帰りのホームルームが終わってから、洋と幸太は近場の繁華街へ繰り出した。
「で、幸太は行きたいとことかあるの?」
幸太のストレス発散の付き合いということで、洋が希望を聞く。
幸太は少し考えてから、路地を指さした。
「こっちの方に新しいゲーセンできたらしくて、一回行ってみたかったんだよなあ」
「じゃあそこ行くか。案内してよ」
幸太はするすると路地を抜けて進んでいく。洋もその後に続いた。
「へえ、この辺はあんまり来たことないなあ」
「まああんまり娯楽施設がある場所じゃないからな。だからこそ今から行くゲーセンに意味があってだな」
それからかなり進んだ。すでに繁華街は抜けて、人通りも少なくなってきている。事ここに至って、洋は何かおかしいと思い始めた。
「ねえ、いい加減にしてよ。そのゲーセンはどこにあるんだよ!」
少し語気を荒らげて洋が言うが、幸太はどこと吹く風。ニヤニヤ笑うだけだ。
「落ち着けよ、もうそこの角を曲がるだけだからさ」
幸太が示した角を洋が曲がるが、そこにはコンクリートの壁があるだけだった。
「おい、何の冗談だよ。流石に怒るよ!」
洋が後ろを振り返る。幸太は顔を伏せて立っていた。
「おい、何とか言えよ、幸太」
「ああ、言ってやるよ」
聞き覚えのない低い声が幸太から聞こえた。
「お前のリンゴをよこせ」
気が付けば、幸太の右手にはリンゴが握られている。ほとんど芯だけしか残っていないが、確かに感じるその気配は――
「それ・・・・・・夢で・・・・・・見た・・・・・・」
「ああ、そうだよ」
幸太はそう言って、リンゴの僅かに残った果肉を囓る。シャキッとした音の後にクチャクチャという咀嚼音。そしてゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ。
そして、変化は起こった。幸太の左腕から勢いよく白いものが突き出す。その先端は槍のように鋭く尖っていた。
「ほら、早くリンゴを出さないと痛いぞお!」
幸太が左腕を引き絞り、一息に突き出す。
「うわっ!」
後ろに僅かにある隙間へと洋は慌てて跳んだ。その際にバランスを崩して、背中を壁にしたたかに打ち付けた。痛みのあまり、その場で尻餅をつく。
それが功を奏した。頭を狙っていた槍の照準は外れる。幸太の左腕から生えた槍はそのままコンクリートの壁を貫いた。
「おいおい、避けるなよ。面倒だなあ。さあ早くリンゴを出せよ」
幸太が槍をいともあっさりと引き抜き二撃目の準備を始める。
幸太を見上げる格好になった洋は幸太の顔を見て凍りつく。
普段の優男面を醜くゆがめたそれは、とても同一人物とは思えない。左手の槍という明確な暴力よりも、その顔に対して、体の底から震えが走る。
「お・・・・・・まえ・・・・・・誰・・・・・・だ」
問われた相手は醜悪に笑う。
「幸太だよ。知ってるだろ?」
槍を振りかぶり、洋の頭の真横へと突き立てた。
「さあ、早くリンゴを出せえ!」
幸太が吠える。洋にはただ震えることしかできない。
「リ、リンゴって何のことだよ!」
「ああ? これだよ、これえ! 完全なやつを持ってるだろ!」
幸太が右手に持った、もう芯しか残っていないリンゴを示す。
そんなこと言われても、幸太にはそんなもの覚えがない。必死で周りを見渡して、何か打開できる方法を探すが、頭が回らない。ただ口をパクパクさせるだけだ。
「死に・・・・・・たく・・・・・・ない」
「ならリンゴを出せよ」
三撃目。さっきとは反対側に白い槍が生える。
「う、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
その時、洋の中で何かがはじけた。同時に右腕に重量感が生まれる。
「何だ、出せるじゃねえか」
幸太の満足げな声。ゆっくりと首を傾けると、そこにはリンゴがあった。赤い皮に少し長めの蔓。幸太のそれとは違い、一口の欠けもない。
「おら、よこせ」
幸太がリンゴに手を伸ばす。洋には確信があった。これを手放してはいけない。
リンゴをほとんど顔にぶつける勢いで口へ運ぶ。パリッとした皮を歯が突き破る感覚と、頭を突き抜ける透きとおった甘味。経験したこともないような快楽の渦が押し寄せる。
「おぶっ!」
思わず口から変な声が漏れる。そして高ぶりが収まった時、体の感覚が今までと違うことに気が付いた。
「てめえ、よくも!」
幸太が槍を突き出してくる。今度は殺意のこもった、正確に頭を狙った攻撃だ。対して洋は左腕をその槍の前に出す。槍はあっさりと左腕を貫いた。槍は額に触れたところで止まる。そこからわずかに血が流れ出した。
「ぐっ!」
覚悟していた分痛みは少なかった。思いがけない行動に幸太が固まっているうちに、幸太の脇の隙間から抜け出し、向き直る。これで位置関係は逆転した。
「ちっ!」
幸太は次々に槍を繰り出すが、その全てを左右のステップで躱す。もちろん洋にそんな真似はできない、はずだ。だがリンゴを食べた直後から、どうにも周りの世界がゆっくり動いているように見える。
「この野郎!」
その時、またしても不思議なことが起きた。幸太の右手からも同じような槍が、いや、右手からだけではない。胸全体からも剣山のごとく白い槍が突き出したのだ。
洋は後ろへ跳びざま、左腕を前に出した。これも普段ならあり得ない。一度貫かれた腕がそんなにすぐに動くわけがない。しかし傷口はすでに塞がり、乾いた血が付いているだけだ。
圧倒的な数の槍が洋に迫る。左腕だけでは到底庇いようがない範囲だ。今度こそもう駄目かと思ったが、その予想は裏切られる。
バキバキバキ。凄い音を立てて全ての槍が折れて、砕け散った。その欠片の一つが幸太の喉に突き刺さる。
何かをされた幸太はもちろん、やった洋にさえ、何が起きたのか分からなかった。
「ぐ、げえ」
幸太の口から血が吐き出される。そのまま嘔吐きながらも喉に手をあてて槍の欠片をゆっくりと引き抜いた。すると傷口から出ていた血はすぐに止まり、胸から突き出していた剣山も引っ込んでいく。数秒後、顔を上げた幸太の顔はいつもと同じに戻っていた。
「なるほど、それがお前の力か」
未だに状況を呑み込めていない洋は、幸太の『力』という言葉に反応する。
「『力』?」
「何だよ、分からないで使ったのか」
言いながら、再び幸太の左腕から槍が生えた。今度はさっきとは違い腕がまるまる槍になったのだ。さっきまでの槍がせいぜい錐だと思えるぐらいに太い。
「これが俺の『力』、『神工鬼斧』。自由に体の作りを変えられるのさ」
そして槍を示す。
「これは骨を加工したものだ。それ以外にも――」
言いながら、幸太の顔が変わる。一瞬後には、洋の顔になっていた。洋の顔の幸太はニヤリと笑う。
「こんなことも」
次は伊吹香澄の顔だった。
「できるのさ」
そして幸太の顔に戻る。もっともこれが本当に本来の幸太の顔かどうかという判断はもうつかなくなったが。
「傷だって一瞬で塞げるし、他人になることもできる」
「他人に?」
洋が思い出すのは今朝抱いた違和感。一体いつからかは分からないが、幸太は顔かたちを変えて生活していたのだ。
「俺やお前みたいな能力者は世界に愛されてるからな。決定的な隙を作らない限り、普通の人間に気付かれることはない。世界の方が勝手に辻褄を合わせてくれるのさ」
これで今まで幸太が変わったことに気付かなかったわけが分かった。だが疑問は残る。
「だけどまさか性格や知識まで変えられるわけじゃないだろう? でも幸太は学校で優等生だった」
「ああ、それなら簡単だ。優等生でいられるような脳みそに作り替えたんだよ。所詮はそんなもの、電気信号の集まりなんだからな。構造を作れば後はその通りになるのさ」
その言葉に洋は寒気を覚える。脳を作り替えるということはそれまでの自分をまるっきり捨てるということだ。そこまでできるなんて、完全に狂っている。
気が付けば目の前には小太りで短足、お世辞にもかっこいいとは言えない男が立っていた。幸太とはあまりにも正反対。左手の槍がなければ幸太とは分からなかっただろう。
「これが俺の本来の姿だよ。醜いだろ。だから俺は」
幸太がハンサム面になる。
「こうなったのさ。正直今朝は驚いたぜ。あのリンゴの木の話じゃねえ。お前が能力者にならない保証はなかったからな。だが、まさか俺の変装、いや変身を見抜かれるなんてな。俺の近くに能力者を置いておくのは危険だ。リンゴも少なくなってきたし、お前のを奪ってお前は殺す」
幸太は槍を引き、右手を突き出す。そのまま一気に飛び込んでくるつもりだろう。
洋も左手を前に出す。さっき骨の槍を弾き飛ばした力が何なのかはまだ分からないが、今はそれに頼るしかない。
「はっ! 死ね!」
常人ではあり得ない速度で左の突きが繰り出される。どうも能力者は身体能力までが底上げされるらしい。さらに『神工鬼斧』により増大された筋力が目にも留まらぬ速さでの攻撃を可能にしている。
「くっ!」
幸太が床を蹴ったのと同時に、洋も掌に感覚を集中させる。掌から力を出して弾き飛ばすイメージ。幸太によれば、世界は能力者の味方だ。世界が洋のイメージを勝手に具現化してくれるはず。
そして幸太の神速の突きが洋の左手を貫――かなかった。
洋の左手から発する斥力が、幸太の尋常ならざる力を完全に抑えている。槍は左手から五センチほど離れたところで完全に停止していた。
「このっ!」
幸太は右腕から無数に棘を生やして横薙ぎに振るう。洋はその軌道上に右手をおいて、力を起動させる。
右手で発動できるかどうかは賭けだったが、うまくいった。幸太の右腕も動きを止める。
幸太は右の膝から洋の喉を貫く角度で骨の槍を作り出す。それを見て、洋は後ろへ跳んで幸太の両腕のレンジ外へ逃れると、膝の大棘に手をかざす。大棘は勢いよく幸太の方へはじけ飛んだ。
幸太は体を右にそらしてそれを躱し、左手の槍を大咢へと変える。それで洋の右腕にかみついた。だが、牙が腕に食い込む前に咢が砕ける。断面から血は出ず、即座に新しい腕が生えてきた。
その瞬間に洋も反撃に移る。右足を踏み込んで、左腕を幸太の顔に向ける。頭を潰せば、流石に倒せるはずだ。幸太は頭を振って避けるが、その先には洋の右腕がある。
「ちっ!」
幸太は短く舌打ちして、自らの左足を切り離した。軸足がなくなったことで、幸太のバランスが崩れ、洋の斥力の範囲から逃れる。完全に倒れる前に幸太は不自然に短い足を生やす。普通ならば立てない長さだが、バランスを崩しているならばそれぞれの地面からの長さは違う。ちょうどいい長さとなって体制を立て直す。そして足を本来の長さに戻し、それを利用して勢いよく体を持ち上げ、それに合わせてアッパーを放とうとする。洋はその拳を斥力でとめて、そのまま地面へ腕を叩き付けた。その衝撃で幸太も倒れこむ。
幸太は腕を持ち上げて立ち上がろうとするも、その腕が上がらない。見ればその上で洋が掌を下向きにしている。そこから放たれた斥力が腕を地面に縫い付けているのだ。
「いい加減に諦めてくれないか」
洋が言うと、幸太はそれが勘に障ったらしく、額に青筋を浮かべる。
「てめえ、見下ろしてんじゃねえぞ、何様だ!」
洋はもう一方の手を幸太の頭に向ける。潰さないように力を調節してはいるものの、かなりの力が加わっているはずだ。
「だから、僕は殺されてやるつもりはないんだ。諦めて、もう僕に関わらないでくれ!」
洋は叫んだ。今まで溜まっていたものを吐き出すように。
「僕が君のそばにいて何を思ってたか、幸太は知らないだろう? まさか純粋に友達だと思っていると、思っていたのかい? そんな訳ないだろう。羨ましいし妬ましいに決まっている!」
「・・・・・・・・・・・・」
「それでも、僕は幸太のことが嫌いじゃなかった。だから一緒にいたんだ。でもその気持ちは裏切られ、今までの幸太は後付けのものとか言われて、辛かったし悔しかった。だからもう、僕の側に寄らないでくれよ!」
洋は気が付けば泣いていた。そもそも洋はそんなに友達の多い方ではないし、話すのも好きではない。だからこそ、小さなつながりを大事にしていきたいとも思っていたのだ。それをこんな形で砕かれた。
自分の内側に、まるで自分ではないような暴力的な何かが涌き上がるのを感じた。
「話はそれだけか?」
恐ろしいほどはっきりとした声で、幸太は言った。
「え?」
それでも洋は聞き返す。幸太だったら分かってくれると思っていた。この期に及んで尚、洋は幸太を信じていたのだ。
「くだらねえ友情ごっこは終わったかって聞いてんだよ!」
洋は頭を押さえる斥力を強化する。頭を動かせなければ立てないはずだ。
だが幸太は立ち上がった。頭を切り離して。
「何っ!」
「感謝するぜ、甘ちゃんよお」
幸太の声は、その腹から聞こえた。腕がナイフに変化し、幸太の制服を縦に裂く。元の形状の戻った両手で広げてみせた腹には、目と口と鼻と、顔にあるべき器官がそろっていた。
「お前がくっちゃべっていた間に、脳をはじめとした主要機関を腹に移した。頭より胴体の方がでかいんだ。当然、この程度のことはできるさ。もっとも、重要な機関だったから、慎重にやらねえといけなかったけどな」
そして腕を鞭のように伸ばして、隣の建物の屋上へ引っかけた。
「ここは一度引くが、また来るぞ、洋!」
そう言って、腕を巻き取り始める。洋の中に焦りが生じていた。自分の能力は物を遠ざける斥力を手のひらから生み出すというものだ。自分から離れていく相手には効果がない。
「いや、僕は世界に愛されている! そのはずなんだ!」
洋は左手を幸太に向ける。今度は引きつけるイメージ。頭に真っ赤なリンゴが木から落ちる映像が浮かぶ。
「っ!」
幸太の上昇が止まった。そしてどんどん洋の方へ引かれていく。少しずつ、だが確実に加速しながら。
「や、やめてくれええ!」
幸太が叫ぶが、先に裏切ったのは幸太の方だ。
勢いよくこちらへ向かって来る幸太の腹を、全力で殴りとばす。技術はいらない。能力者として強化された筋力はただの喧嘩パンチですら殺傷能力を与える。固い頭蓋骨で守られているならばともかく、骨のない腹なんて豆腐と大差ない。
ぶちぶちという嫌な音と共に、洋の拳が幸太を貫いた。
「終わった・・・・・・んだな」
洋は呟いて、血に汚れた自分の手を見る。
気が付けばもう夕暮れと言うにも遅い時間帯、赤黒い空模様と全く同じ色をしていた。
足下に散らばるかつて幸太だった肉片の中に、ほとんど芯だけのリンゴを見つけた。しゃがみ込んでそれをつまみ上げ、目線の高さまで運ぶ。
「こんなもののために幸太は・・・・・・」
そういえば自分のリンゴはどうなっただろうか。そう思って右手を見るとそこにはいつの間にかリンゴがあった。前に見たときと違うのは一口分の欠けがあることだ。戦闘中は意識しないうちに手からなくなっていたが、今は確かに存在している。一目見たときから分かってはいたが、不思議なリンゴだ。
再びリンゴを消そうと意識からリンゴを薄れさせると、洋のリンゴばかりか幸太のリンゴまでも消えた。
洋が驚いていると、さらに周囲に散らばった肉片や血痕が黒い塵になって消えていく。
「どうなってるんだ」
洋が呟いた時、ガタン、と路地の入り口で音がする。見られていたのか、と洋がいそいで入り口へ向かう。
そこにいたのは、知った顔だった。
「伊吹・・・・・・さん?」
クラスのアイドル、伊吹香澄が尻餅をついていた。
『神工鬼斧』って今の自分のボキャブラリーに無いですね・・・・・・。調べて使ったんだろうなあ。