空白の日(1)
世界を見下ろす天空に浮かぶ城――。かつてリア・テイルと呼ばたその城は美しい翼を広げて大空を舞う。
雲の向こう、『世界』と呼ばれるエリアに含まれない限界を突破した場所。神の住処――。真っ白い光に包まれた空間の中、リリアは眠り続けていた。
巨大な白い結晶の中に閉じ込められ眠り続けるリリアの前には翼を折りたたみ目を瞑ったまま微笑むヨトの姿がある。神はそっと結晶に触れ、頬を擦りつける。
「ああ……。もう少し。もう少しで、この世界の続きを夢見る事が出来る……。誰にも邪魔の出来ない、絶対正解の世界――。貴方さえ傍に居れば、わたくしに恐れるような物は何もありません」
そっと涙を流し、頬を伝う雫を拭う事もなく流れるままにする。それは喜びの涙であり、決して拭い去らねばならないようなものではないのだから。
この世界は非常に不安定な存在――人間によって管理されている。その世界は常に争いが絶えず、繰り返される世界の歴史の中でも正しい答えなど見つかるはずもなかった。
もっといい未来があったのでは? もっとどうにか出来たのでは? ヨトは心の中で何度もその想いを反芻してきた。しかし答えなど出るはずもない。
あと何回同じ世界を繰り返せば答えは見えるのか? 同じ過ちを、繰り返すのか。世界は何度真っ白に生まれ変わっても醜いままで、神の意思とは無関係に進んでイク。
だから全てがどうにかしてやり直せればと、どうにかして正しい未来を選択出来ればと願った。だがそれは最早自分の手には余る事であった。
そう、まるで母親に縋る娘のようにヨトは自らを産み落とした空想を再現しようとしていた。きっと神を生み出した存在ならば……世界の答えを知っているはず。
正しい世界になど導いてくれなくとも良かった。ただ、彼女がそうしろと言うのであれば全ては正義となる。彼女の思いの軌跡こそ世界を導く輝きなのだと。
ヨトは最早考える事を放棄していた。ただ眠りから覚めた世界を救う存在を待ち望んでいた。そう、救世主とも呼べるであろう、その神を産み落とした人の事を。
「わたくしはもう、この世界の痛みを導く事が出来ません……。貴方ならば、わたくしを導いてくれるのでしょう――? わたくしを産み落とし、そして見捨ててしまった『世界』とは違って……」
二年の月日を経て大人びたリリアは結晶の中でゆっくりと瞳を開く。外の世界に出るにはまだ早く、リリアと呼ぶには遅すぎる。
神の卵のようなその結晶の中、リリアと呼ばれた少女は小さく微笑みを浮かべた。
「今まで……どこで、何をしていたんですか?」
時間の流れとは残酷で常にタイミングを見計らってとは行かない。
何かを成すには早すぎて、何かを残すには遅すぎる。そんなどうしようもない時の中、人の心は移ろいながらも命を刻む。
「死んだと……思っていました」
ゲルトに与えられた部屋の中、夏流とゲルトは向かい合っていた。夏流は仮面と己の姿を覆っていた黒いマントを脱ぎ片腕で抱えてゲルトを見下ろす。
夏流は何も答えようとはしなかった。ただ感情の読み取れない瞳でゲルトをじっと見詰め続けている。ゲルトはそれが不思議と不快だった。
何度も何度も彼の姿を求めていたはずだった。だが、実際はどうだ? 彼が目の前に現れたことでどうしようもない苛立ちと嫌悪感だけがふつふつと湧き上がってくる。
何よりも納得が行かない事。それは、何故彼が彼女の母と同じように冷たくなんの色も映さない瞳をしているのかという事。夏流は以前とは雰囲気が変わったように思えたし、実際に彼は変わっていた。
「二年も経って今更……。今更、どうして会いに来たんですか?」
感情を押し殺して冷静な声で問い掛ける。しかし声が少しだけ上ずってしまっている事に本人も気づいていた。夏流は目を細め、呟く。
「リリアを助ける為だ。俺一人ではリリアを助けられない。だから、力を貸して欲しい」
「……今更都合よくノコノコ出てきて言う事はそれですか?」
何故か腹立たしく、いよいよ感情を押し殺すなどという事は不可能になり始めていた。
夏流の胸倉につかみかかり、両手で襟首を締めながら震える声で問い詰める。
「貴方はいつもそう言って結局何も守ろうとしないじゃないですか……!? 貴方が居なくなった後の世界の事を考えたんですか!? 貴方が守ると言った物はもうこの世界の何処にも無いっ!! 何処にも! 何処にもぉっ!!」
それは自分自身に投げかけるのと同義。
故に胸が引き裂かれるような痛みに包まれるのも必然。
成らばその言葉に込められたどうしようもない意味。
願いや苦痛、約束や思い出……。どうしようもない世界の中の悲しみをぶつけるという甘え。
自分の苦しみを解って欲しいのだと、心が叫んでいた。それに気づいてゲルトは余計に自分が嫌いになった。
「…………わたし……わたしは……」
夏流の首を絞める腕も、縋りつく指先も、泣きそうな声も。
全ては零れ落ちてしまう。地べたに這い蹲る。ゆっくりと、額を彼に押し当てたまま。ゲルトは歯を食いしばり、泣きながら呟いた。
「たすけて……っ。たすけて……ナツル――――っ」
少年は何も答えなかった。崩れ落ちて脱力するゲルトを前に少年は無言で俯き、それから自らも大地に膝を着き、少女の身体をそっと抱き寄せた。
「ごめんな――」
そんな言葉は、勿論二人のどちらも望んではいなかった。
それでも他にかけるべき言葉もなく。ただ時間だけが過ぎ去って行く。
取り返しのつかない、世界の嘆きを象徴するかのように。
⇒空白の日(1)
過去と未来を繋ぐ物がある。例えばそれは、物理的な障害さえも簡単に飛び越えて明日へと全てを伝えて行く。
「俺はふと思うんだ。この戦いは無意味なものなんじゃねえかって……。こんな事をしても、明日には何も届けられないんじゃねえかってよ」
勇者と呼ばれた男は折り重なる死の荒野を前に大地に神剣を突き刺して小さく息を漏らす。彼の身体は返り血に赤く染まり、世界もまた同様であった。
背後に立つナタルを名乗る仮面をつけた少年もまた血みどろでその場に立ち尽くしていた。もうこんな死地をいくつも渡り歩いてきた。
十二年前の世界に戻り、元の時代へと戻ろうとする夏流には幾つかの問題があった。まずそもそも、元の時間、パンデモニウムが崩壊する直前の時には戻れないということだった。
ヨトの支配が最も強く、しかしそれゆえに確実に時の座標を確定できる『本当の今』だけが彼の辿り着ける未来だったから。
そして何よりも、今の自分ではヨトと戦うだけの力がないと少年は考えていた。十二年前の未来――。二年の月日を経て、世界を覆っていた魔王の脅威は勇者の剣で払われるだろう。
その瞬間までせめて彼は勇者の仲間で居たかった。未来を変えようなんて考えはもはや脳裏には微塵も残されてはいなかった。
未来は変えられる。だが、過去は変えられない。自分が歩いてきた道を覆し掘り返すというのであれば、それは心の奥底に続く大切なものへと続いている道を砕く事に他ならない。
確かに今の全てを満足は出来ない。人は皆後悔しながら今日を生きている。だがやり直す事なんて絶対に出来ない。ただ全ては明日へと向かう新しい息吹の中へと続いている。
過去の自分を無かった事にした瞬間、人はその痛みさえもなかった事にしてしまう。痛みがこうしてここまで自分を連れてきた。辛く苦しく、しかしその痛みは現実をよりリアルな形へとコンバートする。
明日を生きる力も、今日を耐え抜く勇気も、過去を信じる強さも、全ては過ちも含めた自分の過去の全てが与えてくれる希望の光……。故に、過去を変えようとは思ってはならない。
たとえ勇者部隊と呼ばれたものがなくなっても。彼らが悲惨な最期を迎えるとしても。それは彼らが己の一生を賭けて明日へと残した確かな光の軌跡だから。
「世界は痛みを忘れない。全てをまっさらにしちまったら……痛みも忘れちまう。痛みも恐怖も後悔も、人の明日を明るくするのに必要な事だ。間違わないヤツは、絶対に『正しくなんかなれない』んだよ」
どっかりと岩の上に座り込み、傷だらけの体でフェイトは遠く空を見上げる。
「この戦争は確かに間違ってる。ヨトの願う通り……いや、厳密にはお前の言う俺たちの想像主が願う通りってか。結局は俺とロギアが戦う為にあるような、そんな戦争だ」
そう、それは最後のワンシーンを再現する為だけに存在する物語。そこから先のことなど誰も考えて居ない。ただ悲劇的で、残すものの無い戦い。
「だがそれでも――受け継ぐ人間が居れば物語りは終わらない」
主人公が死んでも。主人公が生きても。物語は終わる。エンディングを迎えれば、世界は閉じる。
閉じてしまった世界の先、未来はあるのか? その答えは難しいだろう。それが本当にただの『本の中の物語』ならば、先は無いかも知れない。
「でもな、俺たちはここにいる」
確かに生きている。考え、苦しみ、後悔し、それでも明日へと向かう。
「くだらない世界だ。でもそこで生きてる。生きて、生きた証を残して行く……。ガキとか剣とか、或いは武勇伝とかな。そういうモンに願いを込めて、物語の続く明日を夢見るんだ」
終わりなんて存在しない。現実も夢も、終わらせようと願わない限りは絶対に終わらないのだ。
終わらせる権利を持つのは物語の主人公だけ。そう――全ての生きる命一つ一つが歩む事を諦めた時だけ、世界は滅ぶだろう。
「この世界の全ての勇者と全ての魔王と全ての救世主が――。登場人物の一人一人、世界の全てが生きる事を諦めない限り……。たとえ神の設計図にその先が無かったとしても、俺たちは空白を埋めて行く明日を信じられる」
剣を引き抜き、フェイトは振り返る。そうして仮面をつけた、この世界にもこの時代にも本来あるはずのない少年の肩を叩く。
「――伝えてくれるんだろう? 続けさせてくれよ。俺のガキにも、ガキのガキにも……。皆明日がほしいんだ。だから戦う。どんな茶番でも……終わりになんかしたくねえんだ」
――――明日が見えずにもがいてあがいて、それでも何も見つからなかった時……どうすればいいの?
「…………過去に、行っていた?」
「ああ」
「……ナツル、それは冗談とかではなく?」
「マジだ。ついでに俺は異世界人だ」
「………………」
ついでというには余りにも重過ぎる現実にゲルトは完全に放心状態に陥っていた。
夏流は容赦なく一方的にゲルトに己の経験したことを捲くし立てた。パンデモニウムで神に殺されかけた事、時を越える力で助かった事。
十二年前の世界でフェイトたちに会い、そこで二年間を過ごした事。自分はヨトを倒し、空白の日から世界を救おうとしている事。そしてリリアを奪い返す事。
その全てにゲルトは全く口を挟まなかった。聞き入っていたわけではない。余りにも馬鹿馬鹿しい話の連続に最早ついていけなくなっただけであった。
「……貴方の話は、正直信じられません」
「……ま、まあそうだろうな……。自分で一気に語っておいてなんだが、もう少し段階を踏んで説明すべきだった」
「そういう事ではなくて……。じゃあ、なんだっていうんですか? この世界は神様が滅ぼそうとしているんですか? ヨト神が……? 貴方は世界を生み出した人の兄で、リリアはその人の魂を持っていて……。一体何がなんだか……」
「混乱するのも無理はない。正直俺も完全に把握しているかどうか怪しいんだ。ただハッキリしている事は――。ヨトを倒さないと、この世界が終わってしまうって事だけだ」
「…………」
ベッドに腰掛けたまま頭を抱えて黙り込むゲルト。その傍らに立ち夏流は黙り込む。
自分でも都合の良すぎる話だと考えていた。少しばかり寂しげに笑顔を浮かべ、それからゲルトに背を向ける。
「……変な話をして悪かったな。他を当たるよ」
「……ナツル」
「こんな世界になった責任は多分俺にある。だから俺は命を賭けてこの世界に応えなきゃならない。もう……無事に元の世界に戻れなくてもいい。この世界で死んでも……それでも自分の罪を償うよ」
決して悲観的になったわけではない。それは強い決意――。どんな事になろうとも絶対に諦めず戦い抜くのだという確固たる思い。それが今の彼の全てでもあった。
ふと、自分の知る彼と今の彼との違いに気づく。彼はいつかの日とは違い迷いも不安定さも感じさせる事は無い。背中に何かを背負った人の顔……それを思い知らせる。
「また都合よくお前を巻き込むなんて、確かに調子が良かったな。もうここには来ないよ。それじゃあ」
「ま――っ!? ま、待ってくださいっ!!」
叫び声に振り返る夏流。ゲルトは立ち上がり、夏流に駆け寄った。
しかしかけるべき言葉は思いつかなかった。ただ無言で夏流の手を取り、ひたすらに瞳を覗き込む。二人の視線が交錯し、時が止まったかのような錯覚さえ覚える。
「一人でも……貴方は戦うのでしょうね」
「……もう決めた事だからな」
「勝手ですよ……。だったらどうしてわたしの前に現れたんですか」
「…………そうだな。悪かったよ。だからもう、ここには……」
「そうではなくて! もっと、別の……違う考え方は無いんですかっ!?」
「ち、違う考え方といわれてもな……」
「わたしがこの二年間、どんな気持ちで過ごしてきたか……! 少しくらい、話を聞いてくれたっていいじゃないですかっ!」
「あ、ああ? うん、そうかもな……。ごめん」
頬を掻きながら夏流は困惑した様子で振り返る。ようやく部屋を出て行く事を諦めたのかベッドに腰掛けてゲルトを見やる。
「そういえばまだゲルトが今までどうしていたのかって話を聞いていなかったな」
「そうですよ……。大変な状況である事は理解しますが、そんなにも慌てて出て行こうとしなくても……」
「そうだな……。少し冷静さを失っているのかもしれない。悪かった」
「わ、わかればいいんです」
とは言ったものの、どんな言葉を交わせばいいのかはわからなかった。何よりまず自分の頭の中が整理出来ていないままだったし、隣に夏流が座っているという実感もなかった。
もしかしたらそれは本当は夢で、気づけばベッドの上で見ていた不思議な夢の事を思い返して顔を紅くするのかもしれない。
それでも隣に座った夏流はどこかここではない遠くを見詰めて憂いを抱えた瞳を輝かせている。その彼がベッドのシーツの上に乗せている手に自分の手を重ねてみる。
何故そうしたのかはゲルトにもわからなかった。ただシーツがくしゃりと皺を作り、二人の視線が衝突する。
拮抗した時間の中、必至に言葉を紡ごうと努力する。だが、結局何一つ思いは伝えられない。昔からそうだった。素直になって誰かと触れ合う事など、一度もした事がなかった。
言葉にすれば、口にすれば、悲しい未来は現実になってしまう気がする。弱音を吐けば心は折れて、悪い予感は自分を掻き消して行く。
だから誰かと触れ合う事は弱さを吐露することに他ならず。悪い予感を引き寄せるきっかけになるような気もしていた。
「…………神に打ち勝てば、この世界は救われるんでしょうか」
問い掛ける言葉。それは恐らく本音とは違う。
「戦って戦って……それで、世界は未来に進めるのでしょうか?」
嘗て世界を二分するほどの大きな戦があった。
その忌まわしい悲しみを乗り越えて世界は前へと進んできた。少なくともゲルトはそのつもりだった。
悲しみがあり、憎しみがあり、しかしそれを糧に生きてきた。リリアと出会い、憎しみ以外の心で明日へ進む事を知った。
共に戦った。その全てが正しく世界を導いたのだとは胸を張って断言出来ない。だが、それでも痛みを胸に歩んできた。
その思い出の全てが否定されようとしている。明日は結局こんなものだ。魔王と勇者の対決――。パンデモニウムの決戦が、物語のエンディングならどれだけよかっただろう。
今なんて必要なかった。こんな寂しい未来は見たくなかった。なのに世界は続いて行く。きっと、この悲しみを乗り越えてもまた……。
「急に、怖くなったんです。自分が、どれだけ頑張っても報われない気がした……。夢は、もう覚めてしまったのだと。気づけば自分の腕の中には何もない。何も……終わってしまっていて」
両手を見詰める。そこには何も無い。でも、かつてはそこに沢山のものを見出す事が出来た。
夢とか明日とか勇気とか――。信じられる友達が居て、その友達と一緒に進む事が幸せだった。でも――。
「――夢を捨てれば楽になれるのに、捨てられずに今日まで二年間もがいて来ました。早く捨てれば、諦めれば楽になれる……。心の中で何度も呟いて。それでも、どうしようもなくて……。やり直したい、戻りたいって、何回も何回も」
出来るだけ、リリアの笑顔を思い返さないようにしていた。
しかし、もうそれは無理だった。心の中に溢れる沢山の思い出。リリアは死んだのだろうか? そんな事は――関係ない。
心の中にこんなにも思い出が溢れている。失ってしまっても、置き去りにされても、それだけはどうしようもない。助けなきゃ。探さなきゃ。それでも怖くて仕方が無い。
「でも、もしも全てが終わってしまっていたら!? リリアはもう、この世界の何処にも居なくて……! わたしと同じ『夢』を追う人はっ! この世界の何処にも居なくてっ! 一人きり夢を信じて走る事の辛さが貴方に判りますか!? 判ってください! 判ってよ――――ッ!!」
不安定になる心をそのままに立ち上がる。頭を抱え、止まる事を知らない体の震えに絶望しかける。
心が折れる。不安に押しつぶされる。現実はいつだって残酷だ。夢は覚める。その後に残るのは――暗くて悲しい過去だけ。
「わたしは……。わたしは、こわい……っ! こわくてこわくて、仕方が無いんです……っ! もう、戦えない……! もう、走れない――」
その場に膝を着き、頭を抱えて項垂れる。夏流は何も言わずに立ち上がった。それから静かに足音を立て、部屋から出て行ってしまった。
当然だと思った。戦えないのなら自分に価値などない。仲間ではいられない。仲間は信じる関係だ。絆がその二つの文字を形成する。
明日を信じる力を、共に前へと進む夢を失ってしまえば仲間は仲間では居られなくなるだろう。何より彼は最後の戦いに赴こうという時なのに。自分は、一緒にはいけないのだ。
なのにどこにも行って欲しくなくて、一人にされるのを怖がって、自分の事ばかりを考えている、自分ばかりを可愛がる臆病者――。
肩を抱き、涙を流しながら目を瞑る。結局何がしたいのだろう。もう、終わりにしたい……。死んでしまう事が出来れば、楽なのに――。
「おい、ゲルト」
「ふえぇ……?」
顔を上げた。そこには何故か、再び夏流の姿があった。
少年は少女の手を掴み、引っ張り起こす。信じられないくらい軽々と持ち上げられてしまったゲルトが目を丸くしていると少年はまるで子供のような笑顔で行った。
「行こう」
「…………え?」
手を引き、強引に少年は歩き出す。部屋を出て階段を下り店を飛び出しイザラキの街へ――。
「どど、どこに行くんですか!?」
「イザラキの王の所だよ。色々と話したい事があるんだ。作戦会議というか」
「そんな――! わたしの話を聞いていなかったんですか!? わたしはもう、戦うのなんて――!」
「でも、今まで一人で戦ってきたんだろ?」
立ち止まり、夏流が振り返る。真剣な表情で、けれども楽しそうに。
「俺は……今に後悔なんてしてないよ。皆と一緒にこの世界で過ごした事……学園で馬鹿やった事も、皆で同じ目的の為に戦った事も、この世界に来た事もこうして世界が終わろうとしている事も全て――。なかった事になんかしたくない。それだけは絶対に赦せない」
「…………夏流」
「何回だって言う。俺は今に後悔なんかしてない! 今もうしてゲルトの手を握り締める事が出来るのも、こうしてまた何かの為に歩き出せるのも、全ては無意味なんかじゃなかった過去のお陰なんだ。だから俺は、後悔なんかしてない――! まだこんな所で、止まったりなんかしない」
自らの両手でゲルトの両手をしっかりと掴む。絡み合う指と指――。ふと、昔もこんな風に誰かと手を繋いだような気がする。
顔を上げる。夏流は笑っていた。とても強くて輝く笑顔だった。初めて彼に会った時はこんな顔はしていなかった。もっと歪んで捻れて……。壁を持った笑顔だった。
ゲルトは二年の月日で背が伸びた。夏流は成長していなくて、見詰め合う視線は随分と差が縮まった気がした。でも、彼の心に流れた時間は今まで一瞬たりとも止まったりなんかしていない。
「覚悟を決めろよ、黒の勇者。お前の勇気はそんなものだったのか?」
「――ッ! 言われ、なくても……やりますよ! 責任はわたしにだって、ありますから……って、あれっ?」
いつだったか、同じ言葉をかけられた。
自然と言葉は口から出ていた。考える事なんてなかった。その必要もなかった。
思えば思うほど、心は素直に言葉をはじき出す。回答ならば既にある。問題は解決出来る。まだ、諦めてなんかいない。
「……いい返事だ」
そう言って夏流はゲルトの頭を撫でる。心の底から何かが震えて競り上がるのが判った。
それが多分、『勇気』という陳腐な言葉で表現できるようなものだと気づいた時、ゲルトは泣きながら笑っていた。
「リリアを取り戻すんだ。手伝ってくれるだろ? 黒の勇者」
「わたしで……いいんですか?」
「お前じゃなきゃ駄目なんだ」
「わたしでも……まだ、期待してもいいんですか」
「ごちゃごちゃ言わずに行こう。皆の夢なら、俺が絶対に終わらせない」
ゲルトの手首を引き寄せ、夏流は息のかかるような距離まで顔を近づけて頷いた。本人はいたって本気である。それがストレートに判って逆に笑ってしまった。
「あは……。あははっ」
「……ちと待て。俺は本気だぞ?」
「あははっ! あはははははっ!!」
「……何だかよく判らんがえらく馬鹿にされた気分だ」
「いえ、そういうわけではなくて……。ああ、よおく判りました」
「何が?」
「貴方の事が大好きです」
ゲルトの笑顔と共に放たれた言葉に二人は同時に停止する。
爽やかな笑顔と共にドラマのワンシーンを切り取ったかのような状態で固まるゲルト。その正面で眉を潜めて小首を傾げる夏流。
二人とも予期せぬ言葉と展開に同時に頭の中が真っ白になっていた。何よりも自らその言葉を口にした少女は冷や汗を流しながら笑顔のまま首を傾げる。
「…………えっ?」
ごちゃごちゃ考えず、思った事を全てそのまま口にすればいい――。そんなこと、考えなければよかったのに。
時が止まる事は無い。人々が行き交う中、手を取り合ったまま二人は正面から見詰めあい静止し続けていた。