忘らるる日(6)
迸る光と風の乱舞は全ての白を切り裂いて弧を描く――。
そこで何が起きているのか、一般人には理解する事も不可能だった。ただ彼らは自らの身に降り注いだ不幸を恨みながら消えて行くだけの哀れな命に過ぎなかったのだから。
北方大陸の雪道で逃亡を繰り返していたとある国の一団はついに天使に追い詰められ全滅の危機を迎えていた。数名の騎士が天使に戦いを挑んだのだが圧倒的な物量、そして今までの魔物を遥かに上回る個々の戦闘能力に抵抗も出来ずに朽ち果てて行く。
族長でもある老人が子供たちを庇うように天使の前に杖を構えて立つ。彼は簡単な攻撃魔法ならば会得していたが勿論天使に歯向かえるはずもない。
それでも守りたい物があるから、守りたい未来があるから、彼らは死を覚悟して天使に挑んで行く。人間の可能性を貪り食らうそれらに対する反撃――。ただ一噛み、せめて痛みだけでも残さねば気がすまない。
死を覚悟した子供たちと老人の前で槍を片手にバケモノが白い息を吐き出しながら瞳を紅く光らせる。魔物が老人目掛けて容赦なく槍を振り下ろそうとした時、この幻想は始まった。
そう幻想――。現実的にそんな事は在り得ない。ここに逃げ延びるまでの間、何度も何度も天使の襲撃を受け仲間を失ってきた。だというのに何故――自分たちだけが、ここで救われるのか?
飛来した銀色の弾丸が天使の額を撃ち抜く。踊るように回転する無数の剣が天使たちを次々に切り裂いて行く。
「――おいジジイ。何固まってやがる? とっとと逃げねえか、邪魔だろうが」
背後から声が聞こえて老人は振り返った。そこには二つの人影があった。
銀色の景色の中を進んでくる二人の青年――。腰のベルトに通常ならば在り得ないほどの剣の鞘をぶら下げた金髪の青年が老人に駆け寄り、その背中を叩いて力強く笑う。
「よく頑張ったな、爺さん。後の事は俺達に任せてくれ」
「……あ、貴方達は……?」
聞き返す老人を無視して態度の悪い少年は前に出る。口元には鋭く切り裂くような笑みを浮かべ、腰のホルスターから二丁の拳銃を引き抜いた。
指先でくるりとそれを二回転させ、近づく魔物目掛けて容赦なく銀の弾丸を撃ち込んで行く。強固な天使の肉体を貫き電撃を迸らせながら弾丸は白い世界を切り裂いて行く。
あれほど自分たちが恐れ逃げ回っていた存在をあっけなく滅ぼして行く――。それが幻想で無ければなんだというのか? 老人は震えながらその景色を眺めていた。
二人の男は背を合わせて武器を構える。十二の剣を持つ男と二丁の銃を持つ男――。アクセル・スキッドと如月秋斗。かつては敵対し二度にわたり決闘を経た二人は今、奇しくも同じ目的の為に戦いを続けていた。
「――こいつらもただのザコだ。くそ……っ! いつになったらリア・テイルにいるヨトが降りてくるんだよ――!」
「まあ、そのうち来るだろ? とりあえず今は目先の人助けの方が優先だ」
「俺様は人助けなんて――してるつもりはねえんだよっ! ボケッ!!」
「そうツンツンするなって。もう一年もこうして戦ってんだ、そろそろ素直になったらどうだい?」
「うっせえボケッ! 第一、テメエがどこに行っても俺様についてくるから仕方が無くだな――!」
二人が口論している間に天使たちは雄叫びを上げながら接近してくる。老人が思わず顔を手で覆う瞬間、銃声が鳴り響いた。
天使を見る事も無く、片手で剣を投擲するアクセル。同時に秋斗も銃弾を天使に発射していた。二人が同時に視線を怪物に向け、声を揃える。
「「 今は話中だ、馬鹿野郎――! 」」
「ブレイドー! ブレイド、終わった〜っ!?」
山岳地帯、雪山と化した景色の中一人の少女が岩陰からひょっこりと顔を出した。
白銀のアーマークロークを身に纏ったその姿はリリア・ライトフィールドに酷似している。実際彼女が着用しているアーマークロークはリリアが学園で着用していた愛用品だった。
銀色の鎖を腰からじゃらじゃらと音を立てながら吊り下げ、アリア・ウトピシュトナは雪原に足跡を刻んで行く。彼女が岩陰に隠れてから数分、すっかりと周囲は静けさに包まれている。
降り注ぐ静かな雪が積もる栗毛色の髪を揺らしながらアリアは歩き出す。そこには大量の天使の死骸が転がっていた。その全ての死骸に無数の槍、剣、斧――。信じられない事にその全ては伝説の武器とも呼べる一級品ばかりであった。
死体と武器の山に囲まれ少年は立っていた。獣の革で出来たファーコートを揺らし、死体の上で大きく伸びをして振り返る。
「おう、終わったぜ。こんなトコにまで天使が来るなんてなあ。ビックリだぜ!」
死体の山を飛び降りてブレイドが片手を空に翳すと全ての武器は光の粒となってそこに吸い込まれていく。武器の格納を終えた少年は手を叩いて鳴らし、雪を払い落として行く。
ブレイドに駆け寄ったアリアは彼に怪我がない事を確認すると満足げに微笑んだ。それからブレイドの手を取りそそくさと歩き出す。
「もう、一々全部と戦ってたらいつまで経っても山越えられないでしょ! 次からは無視して行く事!」
「そりゃそうだけど……ほっとくわけにもいかないじゃん」
「こんな辺鄙なとこ、アリアとあんたくらいしかいないでしょ!!」
「いやいや! 八の情報に寄ればこの辺に隠居してるはずなんだよ」
「本当に居るの……? 八ってなぁんか胡散臭いんだもん。わざわざ北方大陸の端の端まで来て何もありませんでしたとかいうオチだったらぶっとばしてやるんだから」
かつてのリリアとは違い攻撃的な笑顔を浮かべながら拳を虚空に繰り出している。そんなアクティブなお姫様を横目にブレイドは冷や汗を流しながら乾いた笑いを浮かべる。
アリアはやると言ったらやる子である。その上リリアに似て馬鹿力の為真面目に殴られるとそれなりの威力なのだ。小さな女の子に殴られる程度ならと甘く見て以前ブレイドはクリティカルヒットを貰って瀕死になった事もある。
寒そうな格好をしているアリアを見かねてブレイドは自分のコートをアリアの肩にかける。素直に心配しての紳士的な態度であったが、アリアは何かが気に入らないのかブレイドの足を思い切り踏みつけた。
「痛ぇええええ――――ッ!?」
「何勝手にこんな薄汚いもんかけてるのよ!」
「そ、そんなあ……。返り血だって少ないと思うんだけどさ……」
「うっさい、ばか! もういいからさっさと歩きなさいよ!」
「いや……だったらそれ返してよ。汚れてるんだから、おいらが着るし――痛ぇえええええ――――ッ!?」
再び足を思い切り踏みつけアリアは走り去って行く。両足を襲う激痛に涙目になりながら頭上にクエスチョンマークを躍らせるブレイド。
「お……女の子ってわかんねえよ……夏流ニーチャン……っ」
かつて同じ格好のお姫様と仲良くしていた男の事を思い出す。
ブレイドは彼が死んだとは思って居なかった。気を取り直し、両足首を軽く振ってからアリアの後を追って駆け出した。
二人の視線の先にあったのは小さな山小屋であった。それがただの山小屋であるのは明確なのだが、ただ一点だけ異常な事があった。
山小屋は無傷だった。周囲には、天使の死骸が無数に転がっているというのに……。それは山小屋の主が並外れた実力を持つ使い手である事を意味していた。
「当たりかしら」
「行ってみればわかるじゃん?」
「ま、それもそうね。ほら、早く行きなさいよ」
「え!? おいら一人で行くの!?」
「当然でしょ! 何か危ない事があったらどうすんのよ!?」
「そん時はおいらがアリアを守るよ」
ブレイドの真っ直ぐな笑顔にアリアは一瞬呆気に取られ、それからブレイドの背中を蹴り飛ばした。
「いいからさっさと行け! ばかっ!!」
「な、何で!? に、ニーチャン……。どうすればお姫様と仲良く出来ますか……」
「ぶつぶつ言ってんな、きもい! 行っちゃえばかーっ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶアリア。ブレイドは小首を傾げながら一人山小屋へと歩いて行くのであった。
⇒忘らるる日(6)
「……これ、何ですか?」
「決まってるでしょ? あんた用の制服よ」
朝一番に母から渡された可愛らしいミニスカートのメイド服を両手で握り締めゲルトは無表情に震えていた。
イザラキでの生活が始まってからというものろくなことがないと一人心の中で毒づくゲルト。顔を上げると母は紅い着物を着て煙管を片手に真面目な顔でゲルトを見ていた。
何故母は着物で、自分は他国の衣装であるメイド服なのか。納得の行かない感覚に首を傾げる。
「どうしてわたしだけメイド服なんですか……? それにこのメイド服、スカートの丈が明らかにおかしいんですが」
「そりゃ、見えるようにしてあるからね」
「何で見えるようにするんですか!?」
「その方がお客が喜ぶでしょ? あんたはせっかくあたしに似て超美人なんだし、もう十七歳になってかなり色っぽくなってきてるんだから今のうちにお店に貢献しなさいよ。歳とってからじゃ出来ないわよ、こういう刺激的な格好は」
「スケスケネグリジェのあなたに言われたくありません!!」
「スケないネグリジェなんてあるの?」
「〜〜〜〜ッ!! 兎に角ッ!! こんな格好でお店なんて絶対に手伝いませんからっ!!」
メイド服をそのまま丸めてくずかごに投げ込むゲルト。早朝の為客は一人も居ない。その所為かゲルトは寝癖もそのままに疲れた様子でカウンター席に腰掛ける。
「あら残念……。それよりあんた、いつまで一人でゲリラ活動なんかしてるつもり?」
そうやって諦めたようにまるで熱する事も無く冷静にコーヒーをカップに注ぐ母の横顔が堪らなく嫌いだった。苛立ちが止められずゲルトはもう無視を決め込む事にした。
本当ならば部屋に引きこもれば良いのだろうが、数日振りに戻ってきた所為か誰か人と言葉を交わしたかった。正確には自分に声をかけて欲しかった。傍に誰かが居ればそれでよかった。寂しかったのだ。
母は鬱陶しく苛立たしい存在だが少なくとも寂しさなど忘れさせてくれる。怒りや苛立ちでさえ今は自分が人間性を維持する為に必要な感情だとゲルトは素直に割り切っていた。
湯気を昇らせながらマグカップがカウンターに小さく音を立てて出される。和食に未だになれないゲルトは朝食は自分で何とかする日々が続いていたが、母が淹れるコーヒーだけはそこそこ気に入っていた。
ミルクと砂糖をたっぷり入れて甘くしたコーヒーを喉を鳴らして飲み干すと生き返ったような気がしてくる。死んでいたわけではないが、ようやく人心地ついたような、そんな気がした。
「まだクィリアダリアを取り返せるとか思ってるわけ? だったら諦めた方が身の為よ。連中はもうバケモノってレベルじゃないんだから……。あんた一人でどうにかできる領分はとっくに越えてるのよ」
「世界のどこかでまだ仲間が戦っているはずです……」
「それを何を根拠に言っているのか全く謎ね。ずうっと前から言っていることだけど、戦いなんかするヤツにろくなのはいないわ。あんたの父親だって自分の正義がどうとかなんとかほざいて、結局は皆に石投げられて死んでったじゃない」
その言葉を聞いた瞬間我慢が出来なくなってゲルトはカウンターを両手で強く叩いて立ち上がった。憎しみを込めた視線を母に向けると彼女はやはり怒る様子も無く冷静にゲルトから視線を反らして朝食の支度を進めた。
「いつまで引き摺ってんのよ。子供じゃあるまいし」
「……そうやって貴方は、いつもいつも……っ」
「何回だって言ってやるわ。戦いなんてしてるヤツは馬鹿よ。人間一人に出来る事なんて高が知れてるの。勇者とか英雄とか……くだらないわ。そんな名声なんて何の意味もない。死んでしまえば全てが無よ」
「お父様の事をこれ以上悪く言わないでください……! いくら貴方でも、そんな事を言う資格なんてない……!」
「資格ならあるわよ。あたしが誰よりあいつの傍に居たんだもの。そのあたしもあの後散々だったし……まあ、家から出て学園に行ってたあんたにはわかんないことでしょうけどね」
「わたしは逃げたわけじゃない! わたしは……強くなって、世界を見返す為に……!」
「でも結局マリアの娘と仲良くなってへらへらしてただけでしょ? あんたの言う世界を見返すっていうのは、そうやって一人でボロボロになって戦う事なわけ?」
「…………うるさい。うるさい、うるさいうるさい、うるさい――っ!!」
叫ぶと同時にコーヒーのマグカップが倒れてカウンターを汚して行く。ゲルトは泣き出しそうな表情で母に背を向けて店の出口目掛けて走り出す。
「逃げるのね」
母が背後で呟いた一言は聞かなかった事にした。靴を鳴らして走り去り、ひたすらにイザラキの街を駆け抜けた。
息を切らし、涙を流し、汗を浮かべ、歯を食いしばり、心の中で何度もくじけそうになる自分を否定しながら走り続けた。やがて一人、河川を渡る大きな橋の上で足を縺れさせて無様に転ぶ。
頬をすりむき、足を挫き、それでも走った。立ち止まった瞬間全部を投げ出したくなる気がして怖かった。どこに向かっているのかも解らず、ひたすらに走り続ける。
そうしてどこまでも走り続け、辿り着いたのは海辺だった。海は確かに現実のものだが、その先に見える青空や穏やかな海は全てが偽者――。結界に描かれた鏡面映像に過ぎない。
「はあ……はあ……はあ……」
疲れ果て、砂浜に座り込む。額の汗を拭い、立ち上がる。
既に疲れて走れるような状態ではなかった。だが停止した瞬間心も停止する気がしてうろうろと歩き続けた。兎に角気持ちが落ち着かなかった。
砂浜に降りて行く階段まで戻り、その石の段差の上に腰掛ける。思い切り走って更に少しうろうろしたお陰で心は落ち着いたように思える。深々と呼吸をして生きている事を確認する。
「はあ……」
作り物の青空はいつでも綺麗で一定だ。それを見ていると晴れやかな気持ちになっていいのか、それとも作り物だからと冷めるべきなのかわからなくなる。
母の言う事が正しい事は自分でも良くわかっていた。だがそれを認めてしまったら今の自分の人生全てを否定してしまうことになりそうで怖かった。
父が大変だった時、父が死んでしまった時、母は特に悲しむわけでも怒るわけでもなく朝のように冷静な調子だった。正直な所母が感情的に成っている所を一度も見た覚えはない。
母に反抗しても、どんなに噛み付いても彼女はあっさりとゲルトをスルーしてしまう。やがて反抗するだけ無駄だと、語り合うだけ無駄だと決め付けて家を飛び出した。
学園に行けば強くなれると思っていた。家出同然、身元の保証も無く学園に入学できたのはルーファウスが身元保証人になってくれたのが大きい。何はともあれ家を出た十四の日からずっとゲルトとミュリアは音信不通だった。
実際にはそれよりも随分と前から母と娘のやり取りなど消滅していたのだが、物理的に全く居場所が見当つかなくなったのはここ数年の事。ゲルトは溜息を漏らし、それから頭を抱えて落ち込んだ。
「くそう……っ」
言われずとも解っている事を他人に指摘され、なんとも言えない悔しさに苛まれる。
一人きりで戦って、戦って戦って、そうしてその繰り返しだけで時間が流れて行く。天使は倒しても、倒しても倒しても、次々に増殖して世界を壊して行く。まるで終わりの無いイタチゴッコ……。
傷だらけになって一人で頑張っているのは何故? リリアに会いたいから? 世界を救いたいから? 様々な理由が脳裏を過ぎる。恐らく理由ならいくつでもあるのだろう。
だが何よりも第一に心の中にあるのは『忘れたくない』という気持ちだった。ぼんやりとした何も映さないような瞳で空を見上げる。
たった三年前まで――ゲルトの世界はくすんでいた。そしてそのくすんだ世界の中、虹色の輝きを描く少女に出会った。
どんな時でも前へ前へ、間違いながらでもくじけながらでもそれでも前へと進み続けようとする少女……。真っ直ぐに真っ直ぐに、屈折した自分の心を抱えてそれでも進もうと努力していた少女。
自分が誇れる、胸を張って一番の友達だと言える少女は今はもうゲルトの傍にはいない。彼女の傍に居る時は世界は虹色だった。そこには沢山の色を持った仲間がいて、彼らが織り成す虹は眩く輝いていたから。
勇者部隊と呼ばれる部隊に入り、学園から様々な戦いに介入してきた。そこには恐らく強制される世界は無く、ただ各々が望むように世界を生きていた。
皆が皆傷つかず平和な世界ではなかっただろう。でも間違いながら擦れ違いながら少しでもより良い未来へと進もうと努力をしていた。充実していた。
今だからこそ思う。あの日々全てがきらきら輝いていた事を。自分ひとりでは何も出来ない事を。どうしようもなく、孤独だという事を――。
「……くっ」
思わず泣いてしまいそうになって身体を強く抱きしめた。泣くなんてみっともない。でも、昔は素直に涙を流せた気がする。
あの頃と今とは違う。涙を流しても、それは前に進む為の大切な一歩だった。でも今涙を流してしまったら――もっと大切な何かを流してしまう気がする。
「うう……っ。何なんですか、わたしは……っ」
頭を掻き乱し、俯いて耐える。
「流すな……流れるな……流しちゃだめだ……消えるな……忘れるな……っ」
堪えようとしているのに昔の事を思い出せば思い出すほど辛くなってしまう。
「耐えろ……我慢しろ……頑張れ……頑張れ……がんば……」
何を?
心の中でそう呟いた。
これ以上何を頑張ればいい? 頑張っている。頑張ってきた。でも何も変えられなかった。一人じゃ何も出来ない……それが、現実。
「あ――」
一粒零れたら後はもう堪える事は出来なかった。
砂と石に吸い込まれていく涙の雫。視界がぐちゃぐちゃになって笑おうとしても笑えなかった。
何故こうなってしまったのだろう? 何故ばらばらになってしまうのだろう? 全て忘れてしまうのだろうか? 頭の中がぐちゃぐちゃになって叫び出したくなる。
どうしようもない衝動。不安で仕方が無かった。あんな言い方をしなくてもいいではないか。自分がもうつぶれそうなのは、自分自身が一番よくわかっている。
戦う事に空しさを覚え全てを投げ出したくなる。誰も傍に居ない。誰も居なくなった……。想像してみる未来の事。そこには誰も居なくて、ただ誰にも見られずに死んでいくのだろうか。
死ぬのが恐ろしいわけではない。ただ忘れて、忘れられてしまう事が堪らなく恐ろしいのだ。戦って死ぬことよりも、死んで自分の存在が誰かの中から消えるのが怖かった。
そうしていつか誰も自分の事を見てくれなくなったなら、心も全て消えてしまうのだろうか。そんな事を考え、必至に涙を拭った。
「もう……やめようかな」
戦うのが馬鹿らしくなる。痛くて辛くて悲しくて必至になってどうしてそんなことを進んでやっているのか判らない。
体中傷だらけボロボロで限界でとっくに死んでいてもおかしくなくてでも身体がバケモノだから結局死ねなくてだらだら生きながらえているだけ――。
力が抜ける。目は虚ろだった。もう全てに疲れてしまった。もう何も考えたくない。終わってしまえばいいのに……どうして? どうしてまだ世界は続いているの?
滅ぶなら滅んでしまえばいい。もう誰も自分を見てくれない世界なら、とっとと消えてなくなればいい。自分という物語はエンディングの後も続く。それがどれだけ悲しいことか。
投げ出したい逃げ出したい。投げ出したい逃げ出したい……。ぶつぶつと一人で口ずさむ。どうしようもない孤独を抱えたまま立ち上がり、呆然と風を受けて立ち尽くす。
「……帰ろう」
一人で肩を落したまま歩き出す。涙を片手で拭いながら。
家までとぼとぼ歩いて戻り、既に客の入っている店と扉を開く。無言でくずかごに突っ込んだメイド服を取り出し二階の自室で着替えて店に下りる。
「何? 急にどうしたの?」
「…………気分転換。このままだと本当に……つぶれるから」
自分をもっと痛めつけよう。こんなわけのわからない服装でパンツ見せながらへらへら笑って馬鹿みたいに仕事をして男性客にじろじろみられながら頭おかしいくらい華やかに働くのだ。
そうすれば今の自分が間違えているんだって自覚する。在り得ないくらい恥ずかしくて馬鹿馬鹿しくて後でベッドの上で頭を抱えて悶える事になろうとも、ここでの生活がイヤになる。
だからそうすれば、そうすればここで安穏と暮らす事を否定できる……。顔を上げ、ゲルトはその場でターンしながら客に微笑みかけた。
「いらっしゃいませ〜っ!!」
壊れたように可愛らしい笑顔を振りまく娘に若干引き攣る母の顔。しかしゲルトは仕事をてきぱきとこなす。
そうしているうちに空しさは消えて行く気がした。いや、消える事はないだろう。だが少なくとも紛らわせる事は出来る。
「いらっしゃいませ〜! ありがとうございます〜!」
段々自分が馬鹿みたいに思えてくる。パンツが見えている。客もスカートが珍しいのか食い入るように見ている。でもそれがどうした。
自分にはお似合いだろう。馬鹿で無力でどうしようもないヘタレで勇者失格で友達も守れずに一人で戦ってこんな所でへらへら生きている自分には丁度いい罰なのだ。
心の中で何かがガラガラと音を立てて崩れ去ってく。踊るようにホールを舞うゲルト・シュヴァイン元黒の勇者二代目。そんな彼女に会いに新たな来客が扉を開く。
「いらっしゃいませ〜! お一人様ですか〜っ!?」
小走りで駆け寄りその男の手を握り締めて笑う。ゲルトが顔を上げると、男は仮面を着けたまま何故か固まっていた。
「……お客様?」
黒い布で全身をスッポリと覆った男――。黒衣に仮面の様相は嘗てのフェンリルを彷彿とさせる。しかし男は彼とは違う声色で呟いた。
「ゲルト……それは、イメチェンしたのか?」
「えっ?」
男が金色の手で自らの仮面を外してみせる。その顔を見た瞬間、ゲルトの心の中で何かが音を立てて崩れ去った。
見覚えのある、懐かしい顔――。かつて自分が共に戦い、そして共にリリアを守った戦友。そして恐らくそれ以上の関係だった人――。
「似合ってるけど、その……。パンツ見えてるぞ」
「――――。ナツ、ル……?」
男は少々照れくさそうにゲルトの肩を叩いて店の中に進む。カウンターまで進んだ夏流を見てミュリアは溜息を漏らしながら苦笑する。
「来ちゃったのね、ナツル」
「ええ。また少し、世話になります」
「……まあ、いいけどね。一先ず――。お帰りなさい、救世主」
何故か母と親しげに話し握手を交わす夏流。意味が判らずに混乱するゲルトは一先ず自らのスカートをきつく抑えて顔を真っ赤にした。
少年は以前と同じ、変わらない十七歳の姿で振り返った。でもその笑顔は過去のそれとは違う――どこかとても大人びている、決意に満ちた男の顔で。だから見違えてしまう。
「背――伸びたか? ゲルト」
その当たり前のような言葉に怒りと喜びと様々な感情がごっちゃになり、ゲルトは夏流の身体にしがみ付いていた。
ぎゅうっと、もう絶対に放さないといわんばかりにくっついて胸に顔を押し当てる。ぼろぼろと零れ落ちる涙も嗚咽も隠して今はただ彼の存在を証明したかった。
ゲルトの肩をそっと抱き、夏流は苦笑しながらその頭を撫でる。まるで子ども扱いだった。しかしそれでも別に構わなかった。
これで自分は一人じゃない――。それが何よりも、嬉しくて仕方が無かったから――。