忘らるる日(5)
その町は、白い想いに包まれている――。
壁も、床も、空さえも白く感じられるその世界の中、人々の心もまた白く染まっている事だろう。それは純潔の象徴であると同時に虚無さえも形作ってしまう。
人の心の中から全ての闇を振りほどく事など出来るはずはない。光が何かに当たれば必ず世界に影を落す。影は必要なものなのだ。光を浴びる為に。
光を浴び続ける為に、心を清らかに保つ為に……。その白い街に落ちた黒い影は一体どこに居ればいいのだろう? 少女はふとそんな事を考える。
決して高くはない建造物はしかし小さな少女がどれだけ一生懸命に手を伸ばしても届くものではなかった。ただ高く高く空を遠ざけようとするようなその街の景色に時々意味もなく泣き出したくなる。
膝を抱えて一人誰からも忘れられたような袋小路で空を見上げる少女。黒い髪を吹き込む風に攫われながら静かに瞳を細め、空の景色を削り取る。
黒いフリルの付いたワンピースを着用した少女は髪の色も相まってこの白い街にはどこか似合わない。まるで一面真っ白のカーペットに零れたコーヒーの雫の一滴見たいに、誰から見ても浮き彫りに成ってしまうような。
それは勿論人の心の問題で、だからそれは世界の全てなんかじゃないのに。誰もがそれを黒だと呼ぶから、指を指された少女さえそうなのだと思ってしまう。
一人ぼっちだ――。心の中で小さく呟く。寂しくなって涙があふれ出してくる。唇を噛み締めて顔をくしゃくしゃにしながら笑おうとしてみせる。
でもそれは無理だった。大切な、たった一人の友達を喧嘩をしてしまったから。ただそれだけのことなのにまるで世界が終わるカウントダウンのようにさえ聞こえてくる。
鼻を啜り、手の甲でごしごしと涙を拭ってみせる。そうしてずっと俯いていたからだろうか。少女は自らに差し込む影に気づかなかった。
「――こんな所でどうしたんだい?」
声が聞こえた。慌てて顔を上げる。太陽の光を受け、そこに立っていたのは黒い影だった。
黒い少女は顔を上げる。自分と同じだ――そう思った。それは別に色が黒かったからではない。ただ子供ながらに直感を得たのである。
そう、彼もまたきっとこの白いカーペットの上に落ちてしまったコーヒーの雫なのだと。染みになって落ちなくて、誰もが嫌な顔をするような、そんな世界から弾かれてしまった存在。
自分と同じなのに、声を上げる事は出来なかった。少女は極端な対人恐怖症であった。初対面の男に応えることなど出来るはずもない。
それなのに彼は腰を落とし、大きな手で少女の頭を撫でるのだ。金色の装甲に包まれた、大きな手――。固くて冷たくて、でもそれはとても優しかった。
自分の力が強いから、乱暴に何かに触れれば壊してしまう……そんな悲しみを知っている手だった。少女が涙の雫を拭って顔を上げる。
「……おにいさん、だあれ?」
男は仮面をつけていた。でもその声や、体格や、そんなものから年頃は判別できた。男は仮面を片手で外し、優しく微笑む。
光を背中から浴びるその人の顔ははっきりとは見て取れなかった。しかし膝を抱えた少女にはまるで自分を助けにきてくれた天使か何かのように見えた。
男は少女の身体を優しく抱き寄せる。そうして泣いてもいいのだと小さく囁いた。少女は涙を流す事はなかった。当然の事だった。
だってこんなにも優しい誰かに抱きしめてもらえるのだから――。
それが自分の夢である事にゲルト・シュヴァインは直ぐに気づいた。自分が気を失っていた事を認識したのはその直後であった。
意識を取り戻して直ぐにゲルトは魔剣を探した。それはきちんと自分の傍に転がっていた。慌てて身体を起こす。ここ数日彼女は不眠不休で活動を続けていた。その所為だろう。珍しく原型を留めている巨大な木の下で一休みしようとした瞬間、ブレーカーが落ちるように意識を失ってしまった。
「……夢? でも、これは……とても現実的で……まるで今、体感した事のよう……」
血に染まった自らの腕をじっと見詰める。血は乾き、ぱりぱりと音を立てて甲冑から零れ落ちる。
その全てが世界を染め上げている白い雪の景色の中に溶け込んで血の赤は消えて行く。寒さの中、ゲルトは歯を食いしばり立ち上がった。
ツインテールに結んだ長い黒髪が風に揺れる。寒さの余り身震いし、それから深々と息を吐き出した。大地に剣を刺し、目を閉じて意識を覚醒させる。
そう、より正常な状態へと回帰せねばならない。ここから先、ぼんやりしている暇などあるはずも無い。見渡す白い景色はまるでオルヴェンブルムの街並みのようだ――そんなくだらない事を考えた。
ゲルトの周囲には大量の魔物の死骸が転がっていた。どれも既に息絶えているというのに中々消えてしまう気配がない。魔力で構成された魔物は本来ならば息絶えればやがて消えて行くものだ。だがそうなる様子はなかった。
魔物の密度があがってきているのだ。より強力な、より源泉に近い魔物が地表へと溢れている。白く雪に染まってしまった――かつては美しい草原の広がっていた景色を見渡しゲルトは口元を拭う。
寝ぼけて涎を垂らしたわけではなかった。ゲルトの体には無数の傷が残されていた。背中には巨大な魔物の角が突き刺さったままで、それに気づいてようやく片手で角を引き抜く。
大量の出血をする前に血をコントロールして体力の消耗を最小限に抑える。それでも身体はよろめいた。背中に空いた半径20センチ程の大穴を塞がねばこのままでは行き倒れてしまうだろう。
「……はあっ! ……はあ……っ!」
呼吸を繰り返しているのに酸素を取り込んでいる気がしない。ただ冷気だけが身体に染み込んで鋭く刺すような痛みが広がって行く。
「はあ――っ!!」
空を見上げる。雪はもう降り止んだ。クィリアダリア王国の滅んだ世界で、ゲルトは空を見上げる。
その視線の先、雲の切れ間から姿を現して神々しく輝きを放つリア・テイルを悲しみに満ち溢れた瞳で眺める。それは幻のように雲の間にまた消えて行く。
膝を着き、口から血を吐き出した。這いずるように近くの魔物へと縋りつく。まだ消えていなくて助かった――。少女は心の中でそう呟いた。
そうして魔物の身体に刃を突き立て肉を刻む。千切った肉を片手に少女は目をきつく瞑る。
あとはいつものように――。生きながらえる為に、肉を食らうだけだ。
白い雪と魔物に覆われた嘗ての草原の中、滅んだ国に思いを馳せながら少女は生きる。
本城夏流がパンデモニウムで消息を経ってから、既に二年が経過しようとしていた――。
⇒忘らるる日(5)
墜落していくパンデモニウムの中、夏流を探して走り回った時の事をゲルトは今でもはっきりと思い出す事が出来る。
パンデモニウムの主動力が停止するよりも早く、操り主であった魔王レプレキアが倒れた事により世界は転覆した。
ゆっくりと海目掛けて落ちて行くパンデモニウムの中で一体何があったのか、覚えている者は少ない。敵味方入り乱れた乱戦に加え、空から落ちるという激しい衝撃の中で出来る事などそう多くはなかった。
気が付けばパンデモニウムの半分は海に沈んでいた。落下の衝撃で一度気を失ったゲルトが再び身体を起こした時、パンデモニウムの中は洪水状態だった。
命からがら何とか逃げ出し、仲間の姿を探す。信じていた。誰もが全員、生きて帰ってくる事を。しかし……事態はそう甘くはなかった。
海に浮かぶ死体、死体、死体……。敵も味方も死に絶えた地獄の海でゲルトは走った。リリアがいる小高い丘にある離宮目掛けて走った。
そこで見たものが現実だったのかあるいは幻想だったのか、ゲルトには判断できない。だが確かに見たと言えるのは――魔王を下し、レプレキアの頭を踏みつけて高笑いするリリアの姿であった。
異様な雰囲気をかもし出すまるで別人のようなリリアにゲルトは声をかけることを躊躇した。直後、天から光が差し込み、何者かがリリアの傍に降り立ちそして――。
気づけばそこにはレプレキアが倒れているだけであった。リリアの姿はどこにもなかった。パンデモニウムの魔力回路に海水が流れ込み、爆発を巻き起こす。その激しい地鳴りと衝撃の中、ゲルトは逃げ出すだけで精一杯だった。
ゲルトだけではなかった。誰もが逃げるだけで精一杯だったのだ。その事を責める事は誰にも出来ない。命からがら逃げ出した仲間たちはパンデモニウムが膨大な魔力を暴走させ、海を割りながら光を放ち消えて行くのを放心状態で眺めていた。
海岸に何とか漕ぎ着けたゲルトはずぶ濡れのまま呆然と天を裂く光を見詰めていた。仲間がどうなったのかはわからなかった。ただ――少なくとも魔王との戦いの決着はその瞬間着いたと言えるだろう。
しかし問題はそこで留まる事はなかった。その日を境に――世界は一変する。
異変の兆候は些細な事であった。空を雲が覆い、何日も太陽が姿を現さなくなったのだ。
ただそれだけの事――しかし、クィリアダリアはそれどころではなかった。女王であるリリアが行方不明になり、魔王と相打ちになったのではないかという噂が流れ始めたのである。
魔王軍の脅威は消え去った物の、人々の心の支えとなりはじめていたリリアが失踪した事は国に大きな影響を与えた。直ぐにリリア捜索部隊が組織され、パンデモニウムの落下した海域から流れ着きそうなエリアを捜索する事が決まった。
ゲルト・シュヴァインもまたその捜索部隊の一人として行動をしていた。そのため彼女はオルヴェンブルム崩壊の日を免れる事になる。
異変の第二段階は急速に世界を飲み込み始めた。分厚い雲からは白い雪が降り注ぎ、世界は凍えるような寒さに飲み込まれていく。
本来ならば季節が巡り春――。もう暖かくなり、とても過ごしやすい季節がやってきたはずだった。それが真冬に逆戻りするどころか更に更にと寒さを増して行く。
クィリアダリアの国土はあっという間に雪に覆われてしまった。在り得ないほどの大豪雪に埋もれてしまう町もあった。そんな中、天変地異とも言える現象は悪化して行く。
海は常に嵐のように荒れ狂い、届かない太陽の光は世界を枯らして行く。どこまでもどこまでも世界をすっぽりと覆いつくした巨大な雲はまるで世界の終焉を呼び込むかのようだった。
そして世界の滅亡が始まった。雲から次々と舞い降りてきたのは白い翼を持つ魔物であった。今までの魔物とは違いそれらは白く、美しい外見をしていた。しかしそれらは例外なく人の住む世界を破壊し始めた。
女王と聖騎士団不在のまま真っ先に魔物の襲撃を受けたオルヴェンブルムは数時間で壊滅し、残されたのは無残に破壊された残骸のみ――。魔物の攻撃は留まる事を知らず、僅か一週間の間に近隣諸国を次々に侵略、壊滅させていく。
それらには何の目的もなかった。シンプルな殺戮と破壊のみを繰り返し、奪うわけでも得るわけでもなく、ただ滅ぼして行く――。世界の終焉を導いた悪魔という呼び声もあれば、神罰の代行者――天使ではないかという声もあがった。
人々はその空から舞い降りる神々しい魔物に恐れ、次々に避難を繰り返し、今やクィリアダリア周辺は無人の地となっていた。
混乱し錯綜する情報の中、リリア捜索隊も魔物に対抗する為に戦場へと借り出される事となる。そこで情報がいくつか統一され、信じられない目撃情報が上げられたのである。
天使たちの拠点と成っているのは、リア・テイル――。パンデモニウムと共に海に墜落し、爆発に巻き込まれたと思われていた城だという情報が出てきたのである。それはにわかには信じられない事実だった。
理由は二点。そもそもリア・テイルが無事だったとしても海中から引き上げる技術などこの世界には存在しないし、それほどの大掛かりな行動が出来る組織も今は存在しない。
そして何より、リア・テイルを飛ばす事が出来るのはかの女王リリア・ウトピシュトナだけなのである。リア・テイルが人々を攻撃するのなら、その主はリリアという事になる。
だが、それがゲルトには信じられなかった。しかし彼女は神に導かれるリリアの姿を一瞬だけ目撃している。まさか。そんな。在り得ない――。心の中でそんな言葉を繰り返しつつ、それでも戦闘は止まることはなかった。
戦域は無限に拡大し、聖騎士団は壊滅し解散となり、クィリアダリアは事実上滅亡した。クィリアダリアが完全に消滅するまでに一月もかからなかった。
ゲルトは最後まで天使と戦った。リリアが不在である以上、自分が戦わねばならないと魂を震わせて傷だらけの身体を引き摺って……。しかし、共に戦っていた勇者部隊のメンバーも次々に混戦の中行方が途切れ、気づけばゲルトは一人で逃亡を続けていた。
帰る場所もなく、ひたすら生きる為に何度も戦闘を繰り返しながら逃げ続ける日々……。それにも疲れ、やがて雪の中でゲルトは倒れてしまった。
それが恐らく、クィリアダリアが倒れた日でもあった。最後の最後まで戦うのだと決めていた少女の心が折れた時、聖なる王国は音を立てて死んだのだ。
そしてそれから――長いようで短い時間が流れた。
クィリアダリアがほぼ全土を締める南方大陸の更に南――。カザネルラの海を越えたどこかに、小さな島国があると言われている。
名は『イザラキ』――。異国と言えばイザラキの同義語と扱われるほどその国の文明は他の国と比べて独自の発展を遂げている。尤も、イザラキは他の国家とは交流をしない閉鎖的な国の為その情報や物資が世界に漏れ出す事はごく稀である。
イザラキの住人は基本的に社交的ではない。お世辞にも他の国の人間と仲良く出来るようなタイプではないと言える。しかし中には見識を広げる為、或いは商業の為、イザラキを出て旅をする者たちが居る。
かつてイザラキの出身であった八代鶴来もまた己の見識を広め武術の腕を磨く為に旅に出た一人である。そうした修行の旅に出た者は時々気に入った人間をイザラキに招待する事がある。
まさに幻想世界とも呼ぶべきその国がどんな人間にも侵される事無く、関わる事も無くを一貫していられるのには理由がある。イザラキの人間に招待を受けねば立ち入る事が出来ない理由もそこだ。
イザラキは特殊な不可視化結界により守られている移動する島なのである。それはつまり古代の文明――神の技術で生み出された物であると言える。
パンデモニウムが大陸の一部ごと飛翔していたように、イザラキという国は巨大な土の船であると言える。それはカザネルラの南にあるといわれてはいるものの、一体どれほどの規模でどこにあるのかは謎に包まれている。
探そうとしても常に場所を変えているイザラキに遭遇する事は難しい。海が荒れ果ててしまった天変地異のこの世界ではそれは尚の事である。
大陸からイザラキに戻る事は出来ない――。その手段は存在しない。では大陸に出たイザラキの人間は一体どのようにしてイザラキへと戻るのか?
空間跳躍、あるいは空間転移魔法と呼ばれる類の術が存在する。これは術者が設定した座標に対象物をテレポーテーションさせる技術であり、大本は神の力――古代遺跡より掘り起こされた魔術でもある。
それと同様のものをイザラキでは日常的に誰もが使用できる形へと変換していた。これを『転術符』と呼ぶ。
所謂空間転移魔法を擬似的に再現する札である。これを使用すること、あるいは誰かに託す事を『招待する』と呼ぶのだ。
転術符は使用した人物の使用元の座標を記憶し、再び同じ場所に転送する機能も持ち合わせている非常に高度で便利な道具であった。それを、ゲルト・シュヴァインもいくつか携帯している。
クィリアダリアが滅んでからもう直二年……。世界のどこかでまだ滅亡に抵抗しようとしている人々はいるのだろうか? ゲルトは時々そんな事を考える。
もしかして戦っているのはもう自分だけで、もう……仲間なんてどこにも居ないのではないか? そう考えると不安で押しつぶされそうになった。
どうしようもない不安を心の中に残しながら雪原を走る。そうしてゲルトは大陸中を巡り、様々な場所で生き残っている人間を探した。
そうして誰も居なくなった町などを転術符に記憶し、次の場所へと走る。そうした事を暫く繰り返し、もう限界だと、これ以上は動けないと心が折れそうになった時初めてそれを起動する。
転術符に魔力を込めるとゲルトの身体を光が覆って行く。次の瞬間にはゲルトは南の封印されし幻影の国へと跳躍を遂げていた。
イザラキにはゲートポートと呼ばれるエリアが存在する。外部からイザラキに転術符を発動しようとすると自動的に転送先座標がこのゲートポートに設定されるのである。
そこでは簡易な検閲などが存在しているが、傷だらけのゲルトを見て衛兵は何も言わずに門を通した。既に顔なじみであり、彼らはゲルトがどんな活動を行っているのか知っているからだ。
門を潜ると光に満ち溢れた世界へと辿り着く。作り物の青空が透き通るように空を突き抜けている。町を歩く人々は皆和装であり、ゲルトたち他国の人間からすると少々不思議な雰囲気だった。
ゲートポートを出て直ぐ沸きにある『壱郷』と記されているゲートに入る。この町ではどこでも転術符を使えるわけではない。転術符を使用出来るのは壱郷から九郷までのゲート同士を繋ぐ場合のみである。
ゲートを使用し、七郷ゲートへと転移する。そこには賑わう商店街が広がっていた。そのうちの一つ、飲食店を経営する店に入るなりゲルトは力尽きてその場に倒れこんだ。
「……戻ってきたと思ったら、またぶっ倒れるわけ? 自分の体力のペース配分くらいきちんとできるようになりなさいよね」
和装にエプロンを付けた黒髪の女性が倒れたゲルトに歩み寄る。当の本人は床の上に倒れて既に寝息を立てている。疲労と緊張の限界、それが家に辿り着いた事で途切れ一気に気を失ってしまったのであろう。
女は深々と溜息を漏らしゲルトを抱き上げる。細い腕ではあったが魔力のコントロールが緻密で強力なのか苦労する様子は全く見られなかった。
それもそのはずである。彼女はかの勇者部隊に所属した大魔術師――。ゲルトの母、ミュリア・シュヴァインなのだから。
ゲルトを抱えたまま客を待たせて二階へ続く階段を上がる。狭い部屋ではあったが少なくともふかふかのベッドがあるだけゲルトにとってはお気に入りの彼女の部屋がそこにはあった。
ベッドの上に無造作に娘を放り込み、剣を壁に立てかけてミュリアは溜息を漏らす。ゲルトは本当に疲れているようで、ドロドロのボロボロだった。
「風呂くらい入りなさいよねえ、もう……」
一人でそう漏らし、ミュリアは階段を下りて行く。一階に戻ると客の一人がゲルトを心配して声をかけてくれた。ミュリアは明るくいつものことだと笑い飛ばした。
このイザラキでの暮らしが始まってからもう暫く時が経過する。命からがら逃げようとした人々をイザラキからの援軍が迎え入れてくれたのである。大陸で生き残れた人間は、全員イザラキの世話になっていた。
ゲルトもミュリアもその例外ではなかった。ミュリアは元々世界中を点々とする商人であったが、天使の攻撃により商売上がったりになり、旅先で知り合ったイザラキ人に招待を受けた。その招待先で偶然にも生き別れていた娘と遭遇したのである。
生き別れとは言え、ゲルトはミュリアを嫌って家を出たのだ。会おうと思えば会えないことはなかった。だがミュリアはそれに気づいていながらもゲルトを放置し続けてきた。
二人の仲は決して良いとは言えない。だがいくつもの家を同時に占有するわけにも行かず、二人は同じ屋根の下で再び暮らす事になってしまった。
ミュリアは飲食店を経営し、少しでも恩を返そうと努力している。殆どのクィリアダリア人は皆イザラキに何とか溶け込もうと努力していた。天使が蔓延るあの故郷に、最早帰る事は出来ないのだから。
そんな中ただ一人だけゲルトはゲリラ的な戦闘を繰り返していた。単身危険を顧みずにクィリアダリアに転送し、そこで生き残りを探しつつ天使を討伐する日々……。
ゲルトの無謀な行動をミュリアが快く思うはずはない。だが、ゲルトはミュリアとは基本的に口を利こうとはせず、ミュリアもまたゲルトに強く出る事が出来ないでいた。
そうして世界の終焉は刻一刻と迫ってくる。イザラキは絶対的な結界で守られた箱舟――。この中まではまだ滅びは浸食しては来ない。だが、それも時間の問題だ。
「――っ!?」
突然ゲルトはベッドから飛び起きた。何日も雪の中、天使を警戒しながら仮眠を繰り返していた緊張感を引き摺り熟睡する事は出来ない。
そこが自分のベッドだと気づき深く安堵する。しかし全身が傷だらけで血塗れのアーマークロークであることに気づき、ベッドのシーツを見て溜息を漏らした。
直ぐに着替える事にした。戦闘中で無ければこんな服装は御免被る。何よりも兎に角こんな格好で出歩くわけにはいかない。ゲルトは直ぐにこの町では当たり前のように流通している着物に着替えた。
そうして深々と溜息を漏らす。結局生き残りは今回も一人も見つける事が出来なかった。階段を下り、何か言おうとするミュリアを無視して街に出る。
行きつけの温泉は三郷ポートの近くにあった。転送して歩いて五分、町にはいくつも存在する温泉、銭湯のうちの一つに辿り着く。
いつものように番台の老人に小銭を支払い、脱衣所で着物を脱ぐ。肌蹴た背中にはその歳と外見からは信じられないような惨たらしい傷跡が大量に残されていた。
先日受けた背中の傷は既に塞がったものの、ただ塞がっただけだった。傷跡は確かに残る……。身体を洗い、湯船に肩まで使ってゲルトは気を失いそうになるくらい癒された。
「……何をやっているんだろう、わたしは」
全身が痺れるような熱さにも慣れた。当たり前のように複数の人間が裸で湯船に浸かるというこの異様な風習にも慣れてしまった。
二年……それだけの長さはあった。イザラキに命を救われ、当たり前のように戦ってきた。でも、考えれば考えるほど不安になる。
一人膝を抱えて口元まで湯船に浸かる。こんな事を続けていて、世界を救えるのだろうか――?
仲間のいない世界がこんなにも不安で寂しいものだとは思わなかった。リリアや夏流に出会うまでは――ずっと一人ぼっちの戦いを続けていたのに。
それがこんなにも寂しくなるのならば、仲間なんていないほうがよかったのかもしれない。そんな風に後ろ向きに考えてしまうほどゲルトは追い詰めていた。
暫くそうして使っていたが、呼吸が止まっている事に気づいて慌てて顔を出す。疲れすぎている所為か、目を閉じれば一瞬で眠りに落ちる事が出来そうだった。
湯船の端に陣取り、ゲルトは背中を預けてゆっくりと目を瞑る。あとどれくらい戦えばいいのだろう? 気の遠くなるような現実――逃げ出したくなる。
「……貴方は……死んでしまったのですか? ナツル……」
小さな呟きは直ぐに聞こえなくなった。代わりに疲れた少女の寝息が聞こえてくる。
白濁する湯船の中、ゲルトはそうしてほんの僅かな眠りに着いた。その時見た昔の夢の事を、多分少女は一生忘れることはないだろう。
そうして目を覚ませばまた一人きりの戦いが始まる。そんな生活に心底嫌気が差していた。
誰でもいい。隣で一緒に戦ってほしい。大丈夫だって言って欲しい。そんな惨めな自分の心に嫌気が差した。
どうしてこんなにも思い出すのかわからなかった。居なくなってしまったリリアよりも、少女は居なくなってしまった救世主の姿を夢に思い描いていた――。