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虚幻のディアノイア  作者: 神宮寺飛鳥
第三章『女王の神剣』
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黄昏の日(3)


落ちて行く光の中、目前に迫る死という概念は実感の沸かない幻想だ。

そう、何故自分がこの場所に居るのか、それさえも判らないままに死んでいく……。俺という存在の意味を、理由を、何一つ理解できないまま、消えてしまう。

秋斗の伸ばしてくれた手も離れ、血は俺たちの間をすり抜けて行く。その全てがまるで自分の過去を嘲笑するかのようでどこか滑稽だ。

突然現れた神と余りにもあっけない物語の終焉……。気がかりなのはリリアの事だった。リリアは魔王に勝利したのだろうか? あの子はこれから……一人できちんとやっていけるだろうか。

秋斗は俺に言った。結局傍に居られないから逃げるんだろう、と。それは確かにその通りなのかもしれない。俺は焦っていた。これ以上この世界に関わってはならないと。しかしそれは……この世界の為だけではない。

多分そう、俺は自分自身を守りたかったのだ。これ以上、幻想の世界に浸って心を落ち着かせてしまう前に……全て忘れてなかった事にしたかったのだ。

ああ、そうか。最初からやり直したかったのは、俺も同じだったんだ。そんな事に今になって気づくなんて――なんて馬鹿馬鹿しい、ふざけた話だろう。

落ちて行く。青い光の中へ。身体が燃えて行く。全てがなくなってしまう――。俺は目を閉じ、秋斗の叫びさえも届かなくなる光の中で意識を失った。

何もかも失って流れて行く……。地獄や天国なんて物を信じているわけではないが、きっとそれに近い場所に解けて行く……。自分の心の中、意識の底へ……。


「待ってよ、なっちゃーん!」


目を開く。そこに広がる景色に俺は思わず息を呑んだ。自分自身の姿が全て空白になってしまったかのような世界の中、俺はもう一人の俺と共に町を眺めていた。

故郷、現実の世界の俺の町……。山間にある、交通の便の悪い田舎町。山沿いの道路から見下ろす町に沈んで行くかのような夕暮れの真紅の光……。ランドセルを背負った俺。そしてそんな俺に駆け寄る妹の姿。

それはリリアに良く似ていた。でもリリアとは確かに違う笑顔で駆け寄り、小さな俺の手を握り締める。彼女に俺は認識出来ないのだろう。もう一人の俺と冬香は手を繋ぎ、夕暮れの光を浴びながら並ぶ。


「何も置いて行かなくてもいいと思わない!?」


「……給食が食べられなくて放課後まで残されてるやつに付き合ってる程僕は暇じゃないんだよ」


つれない態度で俺が語る。冬香はほっぺたを膨らませて強引に俺の手を引いて歩き出す。


「全然優しくないお兄ちゃん……。超いじわる」


「給食が食べられなくて残される君の方がどうかと思うけど……」


「もーっ! そこはお兄ちゃんが颯爽と食べてくれたりすればいいじゃない! もう、いじわるいじわるいじわるっ!!」


「僕は家に帰って勉強しなきゃ。そりゃ、ふーちゃんは勉強しなくても成績いいからいいけどさ……。テストの点数が悪いと、お父さんもお母さんも凄く怒るんだ。だから僕は勉強しなきゃ」


思い出す過去の事。天才肌で自由奔放な生き方をする冬香と違い俺はいつも様々なものにがんじがらめにされていた。世間体や親の期待……。兄貴だということもあったのだろう。冬香と俺と、二人に対する態度の違いは驚くほどハッキリとしていた。

別にそれほど珍しい話ではない。それに冬香は俺よりもよほど頭も良かったし、人付き合いも得意だった。俺は基本的に誰かと関わるのは苦手だったし、彼女と同じようにはなれないという思い込みとコンプレックスは余計にそれを加速させていた。

そんな暗い性格だった俺の手を握り締め、冬香はいつでも走っていた。まるで立ち止まる事を忘れてしまった長距離ランナーのようだ。どこまでも、どこまででも走り続ける。

止まってしまったら呼吸が出来なくなって死んでしまう魚のように彼女はいつでも真っ直ぐどこかへ進んでいた。その手に引かれているだけの自分が嫌で、何度も何度も嫌気が差した事を覚えている。

二つの小さな影が遠ざかって行くのを見送り、俺は一人両手をポケットに突っ込んで立ち尽くした。俺は……どうも、死んだらしい。そうでなければこんな光景を見るはずもない。幻と呼ぶには余りにもリアルな、夢の群像……。

夕焼けの景色を見下ろしながら溜息を漏らした。結局俺は何を成す事が出来たのか。意味も理由もなく、ただ無駄に死んだだけ……。そんな風に考えるとやりきれない気持ちで一杯になった。

ガードレースを乗り越えて急斜面のブロック塀の上、両足を投げ出して息を付く。錆付いたガードレールに背を預け、両目を閉じて風を受ける。気持ちのいい風だ。前髪を梳いて行く風を感じながらただぼんやりと時間を過ごしていた時だった。


「――懐かしいね。いつも二人で歩いた道も……こんなにも鮮やかに心に残ってる」


背後から誰かの腕が俺を抱き寄せていた。ゆっくりと目を開き、その白い手に自らの手を重ねる。顔を上げるとそこには見慣れた……とても懐かしい横顔があった。

白いセーターに包まれた腕は柔らかく俺を締め付ける。ガードレールから身を乗り出すようにして背後から頬を寄せていたその人の姿に俺は眉を潜め、それから考える事を諦めた。


「俺は……やっぱり死んだらしいな。お前が……こんな所に居るなんて」


リリアもきっと、成長したのならばこんな顔になる。優しくて、大人びていて、でもどこか無邪気で……。掴み所の無い、不思議な魅力を持つ笑顔。

五つの指に絡まる小さな鎖のシルバーが音を立て目の前で夕日を弾いて輝く。風を受けて黒い髪を揺らしながら本城冬香は俺の背後で微笑んでいた。



⇒黄昏の日(3)



「そんな事、もうどっちでもいいんじゃない? 夏流は今ここに居て……私もここに居る。それでもう、望む物は無いじゃない」


俺は死んだのか? その言葉に彼女はそう応えた。優しく微笑むその笑顔を見ていると本当にそう思えてくるから不思議だ。

手を握り締め、助け起こされるようにして俺はガードレールの内側へと戻った。冬香は自らのジーンズを軽く叩き――錆付いたガードレールに背を向けた。


「久しぶり……とでも言えばいいのか?」


「私はずっと夏流の傍に居たよ。夏流を見てた……。いつも、どんな時でもね」


「……そうか。そうだろうな……。お前はいつも、俺にべったりだったから」


俺の言葉に振り返り、冬香は楽しげに笑う。その笑顔だけを残して彼女は歩き出した。下り坂をゆっくりと、俺から遠ざかるように。

置いてきぼりにされるのが嫌で俺も自然と歩き出す。釣られるように歩き出して俺は思い返した。そう、俺はいつも彼女から離れる事を怖がっていた。べったりだったのは……俺だって同じだった。

彼女を置き去りにするのは、きっと彼女がちゃんと俺を追いかけてきてくれるのかどうか不安だったからだ。そして追いかけて追いついて、手を繋いでくれるかどうかを確かめたかったから。

彼女が先を歩くとついて行きたくなるのはきっと同じ理由なんだ。彼女がそれを望んでいるから……俺がそれを望んでいるから。離れてはいけないと知っているから。だから……。


「ねえ……どうして? どうして私を受け入れてくれなかったの?」


歩きながら語る冬香。俺は同じく歩きながら肩を並べて思案する。考えるまでもない……。今までの人生、ずっとそればっかり考えていたのだから。

それでも俺は考えるふりをした。一種の意地だったのかもしれない。照れ隠し、とも言うのだろうか。兎も角俺は少しだけ思案し、それから答えた。


「それじゃあ駄目だと思ったんだ」


「どうして?」


「どうしてもこうしても……当然だろう? 俺とお前は一つじゃない。同じじゃない。でも、別の物でもない……。俺たちは家族だ。だからそれ以上には親密になれない」


「……家族、か。どうして双子なんかに生まれて来ちゃったんだろうね……。そうでなかったら、全てが上手く行ってたのに。夏流が苦しむ事も……家庭のジレンマに思い悩む事も無かった」


確かに双子としてこの世界に生まれなければ、もう少し他の道があったのかもしれない。

人間が別の存在である以上、限りなく同じに近いカタチで生まれてきたとしても平等には出来ない。或いは俺たちが同性だったら違ったのだろうか。男と女である以上、その全ては大きく違ってくる。

俺は長男で、彼女は長女だ。だが長男、次男だったのならばまた違っただろう。長女、次女だったのならば、また……。だが俺たちはお互いに限りなく同じに生まれてきた。でもそれは全く別のものだった。

傍には居られない。別である以上人は常にどこか別の場所を目指さねばならない。帰る場所が同じだったとしても、同じ道は歩めない……。人は生まれた時からずっと一人で、死んでしまう瞬間までそれは変わらないのだから。

誰かと一つになることなど出来ない。心も身体も一つの自己という器に守られ殻の内側に居る自分にとって、外側の事は全て殻を通した事実に過ぎない。殻は割れれば何かが壊れ、何かと混ざり合うことは永遠にない。

考え事をしていたのは恐らく一瞬だった。だが、冬香の姿は遠い場所に移動していた。小さな影になってしまった冬香はまだ小さく見える我が家の門を潜って行く。俺は駆け足気味にその場所へと急いだ。

夕暮れの景色の中自らの家に飛び込む。森を抜けた場所に在るあの古めかしい洋館ではなく、引越し先の新館……。俺がここに住んでいたのはほんの僅かな時間だけで、たった数ヶ月で家を出てしまった俺にしてみればこの新館はまるで他人の家のような感想しか浮かんでこない。

妙に小奇麗な、しかしやっぱり古めかしいデザインの洋館……。門は片方空きっぱなしになっていた。両開きの扉も、片方だけ。俺は両方とも、まるで自分の痕跡を残すように空いているのとは別側の扉を開いて進んだ。

靴を履いたまま廊下を歩いて行くと、自然と冬香の部屋に辿り着いた。その扉をそっと開くと、そこでは今よりも少しだけ子供の冬香が机に向かって勉強していた。

ドアノブを掴んだまま俺はその姿に呆然とする。冬香が、あの冬香が勉強をしている……。それは当然のことなのだが、俺にしてみればちょっとしたショックだった。

冬香は勉強を繰り返していた。窓の向こうで太陽が沈み夜になり、日が昇って朝になり、何度も何度もそれを繰り返して行く。冬香は一人で勉強をしていた。文句も愚痴も一言も零さなかった。誰も、彼女に近づく事はなかった。

子供の冬香が振り返って俺を見る。その表情からは何も感じられない。何もない、のっぺらぼうのような顔……。目も鼻も口も確かにあるのに、そこにはまるでなにもなかった。

彼女が何を思っていたのか俺には良くわかる。彼女は俺の代わりになろうとしていたのだ。医者だか弁護士だか知らないが、そのどっちかにはなれといわれていた、そうなるのが当然だと考えている両親の考えを押し付けられ、そこから逃げ出した俺の代用品。

それを彼女は苦に思っていただろうか? 恐らく答えは否だ。冬香はそれを嫌がっていなかった。ただ――。俺の代わりをするという事は、俺の居場所を奪う事だ。俺の存在を否定する事だ。俺の思い出を塗り替えて行く事だ。それが彼女には激しい苦痛だった。


「……私が私じゃなくなって、なっちゃんになってしまったら……なっちゃん、君はどこにいるの?」


机に腰掛けた冬香が問い掛ける。俺は何も答えられずに歩み寄る。


「どうして……なっちゃんは居なくなったの? どうして、私に何も言ってくれなかったの?」


恨んでいるのだろうか。それとも信じられなかったのだろうか。単純に、そう――。まるで当たり前だと思っていたものがあっさりと崩れた時人が現実味を失ってしまうように。夢見心地のような気持ちのまま、彼女は時を繰り返したのかもしれない。


「どうして?」


無感情な瞳が俺を見上げる。その視線はこの世界にある百万の言葉よりも俺の心を切り刻む。


「どうして……?」


せめて大声で罵倒してくれたのならば、もっと気が楽だったろう。でも、冬香はそんな風に感情的に成れるほど、状況を理解できていなかった。

だから誰も止められなかった。異変は本当にかすかなもので、誰も気づけなかった。たった一人……そう、恐らくこの俺一人を除いては。

子供の冬香に手を伸ばす。指が頬に触れる直前に彼女の姿は消えてしまった。勉強中のノートの上、びっしりと数式の書き詰められた左のページとは対照的にまっさらな右側に記された、たった一言の言葉を指先でなぞる。


「どうして……か」


置いてきぼりにされる悲しさも寂しさも不安も知っていたはずなのに。俺は同じ事を繰り返す。

もうこんな事はしないって、もう同じ間違いはしないんだって、何回も何回も後悔を重ねて、何度も何度も決意を重ねて、それでもまた間違えて行く……。

まるで正解の存在しない迷路の中、一人で何度も彷徨い続けているかのようだ。人生とは恐らくそういうものなのだろう。まだまだ先は見えなくて……出口も終わりもゴールもない。ただ、迷いだけが続いている。そこに答えという二文字を見つけ出す事は、一生かけても難しい。

それでもどうしてもこれだけはやり直したいと、どうしてもこれだけはなんとかしたかったのだと、心の中で思い悩む事がある。それをやり直せるはずもないのに、思い描いてしまう。何度も何度も……。あの時、ああしていればと。

彼女もそうだったのだろうか。白いノートの上に記された一言は、その言葉に出来ない苦悩を表しているかのようで俺の心を激しく締め付けた。

背後に人の気配を感じて振り返る。白い影が階段を下りて行くのが見えて俺はそれを追いかけた。自分が開きっぱなしで通ってきたはずの扉は固く閉ざされ、ドアノブを捻って開かれた世界は全く別の場所に通じていた。

そこは今俺が住んでいる町だった。この故郷とは遠く離れた場所に在る町……。乱立するビルの隙間に立ち、その影を眺める。黄昏時の光に包まれたまま俺はゆっくりと歩き出した。

無人の世界、音の無い町……。現実離れした感覚の中を俺は進む。辿り着いたのは、ビルに影を落された廃れた小さな公園だった。

遊具といえばブランコと滑り台、それに小さな砂場だけの誰も利用しないような小さな公園……。そのブランコの上に腰掛け、冬香は揺れていた。傍に歩み寄り、冬香を見下ろす。彼女は微笑みながら顔を上げた。


「私……夏流の事が好きだよ」


「……冬香」


「夏流はどう? 私の事、好き? それとも……嫌い?」


「俺は……」


「ねえ、どうして? どうしていつもはぐらかすの……? 夏流が一言好きだと言ってくれれば、もうそれで私は満足だったのに……」


言えるはずがない。そんな無責任な事は……。いや、違う。俺は怖かったんだ。これ以上彼女を好きになるのが怖かったんだ。

それを言葉にすることで自分が認めてしまうのも、それを彼女が認めてしまうのも、心を受け入れてしまうのも……。俺には彼女を幸せにする資格が無い。だってしょうがないじゃないか。俺たちはそういう風に生まれてきたんだ。それはもう、運命と言い換えてしまってもいい。

俺だって冬香と離れたくなんかなかった。大事な大事な俺の半身……。でもそれじゃ駄目だから、前に進まなきゃならないから、だから俺は……。


「……あの時もそうだったよね。私が君に会いに来て……この場所で同じように向かい合った。あの時も夏流は……同じ事をしたね」


立ち上がり、俺の両肩に手を伸ばす冬香。そうして首に腕を絡め、顔を近づける。


「ただ、キスしてくれればそれでよかったのに。それだけで私は私を肯定出来たのに……。君は私を拒絶した。君は私を突き飛ばした。こうやって――」


冬香が俺を突き放す。それは決して強い力ではなかった。けれども俺は逆らえず、力の赴くままに背後へと倒れこむ。

両足に力が入らないのも、どん底に突き落とされるような深くて暗い絶望を味わうのも、きっと彼女の指で、彼女の手で、突き放されるからだ。ただ、その指が離れただけなのに……まるで殺されてしまったかのような気持ちに陥った。

受身も取れずに砂の上に倒れこむ。夕焼けを背に影を落とし、彼女は俺を見下ろしていた。表情は見えない。黒い影はそれでも笑っているように見えた。


「夏流は私を殺した。こうやって、指先一つで。だから私も夏流を殺した……。こうして、指先一つで。ねえ、夏流? 殺された気分はどう? 目の前で失われていく気分は……どう?」


彼女は俺の胸の上に跨り、白い指を俺の首に伸ばす。両手が首にまとわりつき、じわりじわりと呼吸が難しくなって行く。


「君はいつも黙ってる……。君が故郷を離れる時も、私は何回も問い掛けたよね? どうして? どうして? って……。君は黙ってた。俯いたまま何も言わなかった。私は一生懸命考えたよ? 自分が悪いのかなって。何かが間違ってたのかなって。でも君は答えてくれなかった。今も、昔も……ずっと!」


力任せに俺の首を絞めて彼女は肩を震わせる。夕暮れの光を浴びた雫が自分の頬に零れて初めて俺は彼女が泣いている事に気づいた。


「どうしたら君が戻ってこられるのか考えたよ……? がんばったよ? でも君は戻ってこなかった。私を置き去りにしたまま遠くへ行ってしまった……。何の言葉も無く別れもなく突き放された人間はどこへ行けばいいの? どうやって前に進めばいいの? 清算したつもりで君は全てを犠牲にして行く……。過去の全てをまるでなかった事にするみたいに……! 私の存在をなかった事にするみたいに……!!」


「とう、か……っ」


「貴方は毎晩毎晩私を殺して行くっ! 繰り返し繰り返し殺して行くっ! 貴方の所為で心が無くなって磨り減って、帰る場所も進む場所も無くなっていく! 自分が傷つくのが怖いから逃げて、言葉にする事も恐れて、ただただ逃げて逃げて……。それで前に進んだつもり? 仕方が無かったなんて笑わせないで! 貴方はただ自分が傷つかないようにするのに精一杯なだけ! なんにも最初からっ! 私の事なんか見てなかっただけっ!!」


呼吸が出来なくなり息も絶え絶えに悶える俺を見下ろし、彼女はそっと腕を引く。呼吸を荒く肩を揺らすその表情は悲しみに満ち溢れていた。満ち満ちて溢れて行く雫は俺の頬に落ち、それでも彼女は笑っていた。


「……無かった事になんかさせない。絶対に貴方の中から消えてあげたりしない……。そうでしょう? 貴方が私の心の中から消えてくれないのなら、貴方を忘れてあげない。忘れさせてあげない。何回でも繰り返して繰り返して……。何度でもこんな世界、終らせてあげる」


「冬香……」


「秋斗と三人で作った絵本を覚えてる?」


突然、彼女の声色が変化した。ゆっくりと上体を起こし、冬香の顔を覗き込む。彼女は昔と変わらない笑顔で涙を流しながら語っていた。


「私が無理矢理、なっちゃんを巻き込んで作らせて……。私が絵を描いて、なっちゃんが物語を書いた」


「……覚えてるよ。覚えてる……」


「物語の結末を……なっちゃんは覚えてる?」


「物語の、結末……」


それは、勇者が魔王を倒す物語。魔王は完全な悪役で、勇者は絶対的な正義だった。


「でも、それは可哀相だって君は言った」


どうして魔王は必ず悪で、倒されなければならない存在なんだ? 幼い頃の俺はそう疑問を口にした。


「だから魔王は、勇者に救われる物語にしなければならなかった」


倒される魔王には必ず何かの意味がある。そしてその存在が倒れた時、勇者は魔王を救うのだと。


「倒れた魔王とそれを救った勇者に未来がないのはどうしてなのかと君は言ったね」


物語には必ず終わりがある。それがどんなに長く続くものでも、それは当然の事だ。終わりの無い物語は破綻している。まるで途中でレールのなくなってしまった列車のように。


「希望を残したいと君は言ったね」


勇者と魔王の物語を続けられたらいいのにと俺は笑った。でも、それは出来なかった。物語はそれで終わりだったから。

それでも冬香は作ってしまった。その物語に――俺たちの過去を投影して。そう、それを終わらせたくなかった。俺も彼女も、彼女も俺も……。同じように、終焉を望まなかった。


「お話の中でなら、私は貴方に巡り合える。あの物語には貴方の息吹がある。貴方の遺志がある……。だから、作った」


自分にとって都合のいい、自分にとって永遠に続くエンディングを紡ぐ為に――。


「貴方が救世主で、私は救いを待っている勇者の女の子」


――もしももう一度やり直せるのなら。人間は誰でもそう考える。そしてそれを実現できる力が彼女にはあった。


「貴方は私を何度でも否定する……。私は何度でも、貴方を求める。貴方は何度でも私から逃げて行く……。だから私は何度でも世界を壊す――」


音が弾け、世界の全てが破片となって砕け散った。真っ白い空間の中、俺たちは二人だけで向かい合っていた。

彼女はそれ以上何も語ろうとはしなかった。ただ俺は、何となくその時彼女の心を少しだけ理解できた気がしていた。

この世界に彼女が何を望んでいたのか……。何のためにあの世界があったのか……。虚幻の世界の中に込めた、冬香の意志を感じ取る事が出来た時、俺は自分の行いに深く絶望した。

そして同時にもう冬香が――俺の知っている冬香が世界のどこにも居ない事を知った。そこにあったのは誰かにゆがめられた彼女の願いだけだった。

この世界の終わりなんて彼女が本当に望んでいたのだろうか。きっとその願いは誰かに捩じ曲げられ、今もずっと正されるのを待っている。

冬香は言っていたんだ。俺の言っていた事が正しかったのだと。彼女はもっと何か別の願いを俺に託していた。俺はそれを知って……知って、どうするというのか。


「俺はもう……死んじまったんじゃねえか――」


今更気づいたところで遅すぎる。後悔する事も振り返る事も全ては意味を持たない。

冬香の姿が消えて行く。それは世界の中に残っていた微かな残滓だったのだろうか。泡のように消えて行く虚幻の姿を見送り、俺は静かに目を瞑る。

俺はリリアに何をして上げられたのだろう。一人で何かを待っていた少女。彼女は言ったじゃないか。忘れる事なんか出来ない。嫌いになんかなれない、って。

俺はそれに何を答えた。何も答えなかった。前にも後ろにも進むことの出来なくなった人間がどれだけ苦しむ事になるのか俺は知っていたのに、終わらせてしまうのを恐れていた。

そう、出来れば終わって欲しくなんかない。でも終わらせなきゃならないって分かっているのなら、自分の手を血で怪我したとしても、どんなにそこが汚れた道でも、自分で進んで進まねばならないのだ。

誰かを裏切り傷付けて行く穢れた自分自身の存在を肯定出来ずに彷徨うだけの俺はあの世界の中で虚幻に過ぎない。嘘と偽りを撒き散らす硝子の華のように、見る者をひきつけて傷付けて行く。

どうする事が正しかったのかなんてわからない。でも一つだけ、リリアにちゃんといわなきゃならない事がある。それを伝えるまではまだ死ねない。死んでしまっては彼女は一生鎖に繋がれたまま死と転生を繰り返す事になる。

何度でも彼女を殺してしまうだろう。そんな事はもうしてはいけないんだ。どんなに辛い過去でも、どんなに醜い自分でも、そこから逃げる事は出来ない。自分自身がそうであるように、影はどこまで行っても付きまとう。


「俺は――」


まだ、遣り残した事がある――――。


だから――――。





頬に触れる冷たい感触で俺は目を覚ました。目を覚ました……という事は、夢を見ていたのかもしれない。

俺はどこかに倒れていた。そこが雪原である事に気づくのにそれほど時間は必要なかった。何かの残骸の上、大の字に倒れこんだ自分自身の身体を首を動かして眺める。


「…………」


声は出なかった。喉もつぶれている。体中のあちこちがあまり直視できないくらいにずたぼろになり、生きているのも不思議なくらいだった。

首を動かして肩の上のうさぎを探す。うさぎはどこにもいなかった。しばらく周囲を見渡し、雪の上に黒いうさぎが一羽ぐったりと転がっているのが見えた。

あの頑丈なうさぎがあんなところで倒れている……。死んでいるのだろうか。まあ、俺も死んでいるようなものだが。体の感覚がないのは多分寒いからじゃない。ただ……もう、動かないだけだ。

パンデモニウムに居たはずなのに、どうして俺はこんな所に倒れているのか。考えながら空を見上げる。曇った空からは絶え間なく白い雪が降り注いでいる。

身体に積もった雪はやがて俺の存在を時間をかけて白く上塗りしていくだろう。そうして何もなくなって、身体も心も世界に朽ちる……。まだ、遣り残した事があるのに。


「――――」


あの子の名前を口にしようとしたけれど声にはならなかった。代わりに血反吐が口から飛び出し、もうどうしようもなく感じた。

なんだか酷く疲れている……。そういえば、秋斗と全力でやりあった直後でもあるのか。あいつは逃げ切れただろうか。死んではいないだろうか……。

どうせなら死ぬ前にもう一度あの子の姿が見たい。あの子にちゃんと伝えなきゃならない事があるんだ。それを伝えられないままに死ぬんなら……ああ。俺は恨むだろうな。自分自身を……。


「――おい、珍しいな。こんな所に行き倒れだ。しかも超瀕死の」


全てを諦めて目を瞑った時だった。どこからか声が聞こえた。だがもう目を開ける事も億劫でただ耳だけをその音に傾ける。


「ちょっと来てくれ。流石にこのままほうっておくんじゃ可哀相だろ?」


「……そんな寄り道をしている場合じゃないんだけどな。まあ、君は言い出したら聞かないからね。仕方ない……。マリアを呼んでくるよ。応急処置はお願いするね」


「ああ、ダッシュでな! 死んじまったら流石に治せねーしな」


複数の声が頭の上でやり取りしている。その声の主が気になって俺は懸命に目を開いた。眼前には誰かの顔があり、俺の顔を覗き込んでいるようだった。


「お、生きてる生きてる。もう少しの辛抱だからな。勝手にくたばったりするんじゃねえぞ」


「…………」


「俺が見えるか? まあいいや、兎に角落ち着け。とりあえずその溶けてる喉を治してやっから」


男が喉に手を当てると焼け付くような鋭い痛みが走る。痛みが戻ってきたという事が皮肉にも自分の身体に生気が戻っている事の証でもあった。

激しく噎せ返りる俺に男は回復魔法を当て続ける。ゆっくりと酸素を取り込みながら一度は失ってしまった枯れた声で問い掛ける。


「あんた……は?」


「あん? 俺か? 俺は――」


男は白いアーマークロークを纏い、人懐っこい笑顔で言った。


「フェイト・ライトフィールド――。人呼んで、『白の勇者』――だ」


それが、俺とフェイトの出会いだった。



〜それゆけ! ディアノイア劇場Z〜


*まさかの過去編へ*


フェイト「おーっす! 女の子ならなんでもいい、がモットー! 人呼んで白の勇者フェイトとは俺の事だぜ!」


リリア「…………お父さん?」


フェイト「おぉ、我が娘よ……しばらく見ないうちに大きくなったなあ」


リリア「おとうさーん!!」


フェイト「我が娘よ〜〜!」


リリア「しねっ!!」


フェイト「おぶうっ!?」


リリア「何でいきなり過去編になってるの!? そしてなんでいきなりリリアの貴重な出番でもある劇場に出てくるの!?」


フェイト「なかなかいいパンチだが俺には通用しないぜ。まあ、貴重な出番ってわけでもないだろ? むしろ最近リリアとゲルトばっかりで他のキャラ出てないとかいうメッセージも来てるわけで」


リリア「だからってこの貴重な劇場スペースを侵食しないでよ!」


フェイト「安心してくれよ読者の皆! これから暫くリリアの出番もゲルトの出番もないからな!」


ゲルト「え? わたしもですか?」


フェイト「一体どこへ進んでいるのか謎のこの小説だが、どうせあと一月二月くらいの連載で終わるから安心してくれ! じゃあな!」


ゲルト「え? だから、わたしも出番ないんですか?」


リリア「にゃああああああっ!! もう帰れえええええええええっ!!」

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